アラサーOLクソ日誌。

整体に家賃の1.5倍ぶっこむ整体ソムリエ兼アラサーOLのクソだけどいとおしい日々を綴った人生日誌です。

女と「仕事論 」異論反論オブジェクション

数年前に美容室で読んだ、あるアラサー向け女性ファッション誌の一番後ろに「新卒入社時に優秀なのは女性ばかりなのに、途中で成長が止まり、失速する」という主旨のコラムが載っていたことを、昼間会社の給湯室で焼きそばの湯切りをしていてふと思い出した。

数年前にとったメモを見返しながら書いているので引用が誤っていたら申し訳ないが、著名なコラムニストの方が執筆されたそのコラムは、以下の論旨で展開されていたと記憶している。

『女性は若いうちに「周囲に誉められたい」という「承認欲求起因」の仕事の仕方から早く卒業し、「結果を勝ち取るという過酷なゲーム(=仕事)の面白さに目覚めよ」』
 ・・・果たして読者は「その通りやで!」と突如としてプレイヤーモードに入れたりするのだろうか。
個人的には、仕事をする上での大前提は「個々人のモチベーションの源泉=個人が持つエンジンは異なること」だと思っている。
そのエンジンと仕事や役割との接点を探し、成果に結実させることが仕事の難しさ・醍醐味であり、マネジメントの力量ではないか。
もちろんこれもひとつの考え方でしか無いけれど、同じく「仕事はゲームとして楽しめ」的な考えも価値観のひとつであるが、その一択にしか正しさがなかったのが、働く女性にとっての不幸のひとつであったと個人的には認識している。
かつてキン肉マンのごとく「必達」と額に書かれたマスクを被り、行動・成果ともにガチガチの目標でバキバキに鍛えられ、成果を強いられることには抵抗感を感じないわたしでも、ゲーマーを強制されるオヤジメントはまっぴらごめんである。
 
また先述のコラムでは『入社時に優秀であった女性たちがアラサー期になって男性同期に「追い抜かれる」「成長がストップ」する現象』の理由として、その要因が「家庭との両立」や「男性同士でつるみ情報やポストを独占するホモソーシャル問題」など多岐に渡ることを指摘しつつも、女性の「内的要因」として以下の2つの理由を挙げていた。
 
まず、「結婚や出産についての迷いから仕事へのモチベーションが落ちたり、パワーをセーブしてしまうこと」
・・・個人的には、これには思い当たる節がある。「この会社でエラくなれる自信はしないし、他のものを捨ててまでエラくなりたくないし、ていうかそもそも人生どうしたいんだろう・・・。」など迷いや不安があることで、よそ見をしたりブレーキをかけてしまうことは自分自身たびたびあったし、正直いうと今でもある。
20代前半の体力とアドレナリンという「しあわせたまご」を使った成長!進化!爆速ポッポマラソンを経ての20代後半の失速。
すべてを無邪気に先送りできた、20代前半の夢と希望とツケとその他諸々エトセトラを回収・再定義しなくてはならないアラサー期。
自分の荷車の荷卸しをしたくても、後輪が思わぬ沼にハマったりして無理やり引き上げるその二の腕もなんだか太ましくなってるし、もう身も心もいっぱいいっぱいに感じる日もある。
 
そしてそのコラムに「より根が深い要因」として書かれていたのは、以下の内容であった。
『多くの女性は『「わたしを誉めて!」という、真面目な女性が子どもの頃から快感経路を育ててしまった「承認欲求」を断ち切れない。
だが仕事の次元が高くなると、承認欲求を超えた挑戦が必要になる。それが出来なくて、徐々に求められるレベル感とアウトプットにギャップが生まれる。そうするとさらに彼女たちの「仕事エンジン(=誉められること)」が作動しないので、ますます挑戦をせず、評価されなくなる。
翻ってアラフォー近くの仕事が出来る女性は、いわゆる「仕事エンジン」の本質を理解している。
「仕事エンジンの本質」である「結果を出す」という過酷なゲームの面白さに気づき、「ホメられ快感」から「ゲームの勝利快感」へスイッチが切り替わるかどうかで、30代の仕事の面白さと深さが確実に変わる。だから心して今から仕事に取り組んでください』
ここまでメモった当時の自分がもはや気持ち悪いけれど、そのような論調で締めくくられていた。
そこに書かれていることは一理あるかもしれないけれど、個人的には何か特定のものを「エンジンの本質」というのは少し乱暴ではないかと思っている。というのは自分自身、手痛い失敗経験があるからだ。
 
自分が入社数年目の時に、後輩の優秀な女性社員のメンターを担当していた時のことだった。彼女は日頃から「今までの人生、怒られないようにいい子として生きてきました。それでやって来れたし、だからそれ以上のものを求められても困るんですよね」と話していた。「おぅ、これが悟り世代か」と新鮮さを覚えたものだが、実際に仕事はその年次には思えぬほど周囲に気を遣い、ソツなくこなしていた。
 
ただ企業文化として、若手のうちは周囲に変に気を遣うよりも自分の成長を追求するべし・周囲もそれを支援すべし、という社風でもあるため、お行儀の良すぎる彼女はすこし異色の存在であった。
面談や若手研修の振り返りの際も「成長したい、とか何がやりたいとかは特に無いです。なのでそんなに考えないでください。」という「悟りですが、何か?」的低空飛行トーク。「こんなに優秀なのにもったいない」と感じ入ったわたしは「とは言うものの、もっとモチベーション高く取り組めば新境地開けるかもしれないよ?」と不釣り合いな熱さとしつこさで挑んだ。
後から思えばその言葉は「メンターとして何かしら価値提供しなければ」という焦りと「こっちがこんなに必死になってるのに、そんなテンションで居られるのが許せない」というエゴでしかなかったのだと思う。
 
彼女が受講した若手研修後は、メンターとともに今期の彼女の成長計画を描くという内容であったが、彼女の心のシャッターはものすごいスピードでガラガラと閉まっていき、取りつく島が無くなっていた。
そこでようやく自分の身勝手さと無理解に気付いたわたしは、一方的かつ独善的なコミュニケーションを詫び、時間をかけて彼女の考えていることを教えて貰った。
時間をかけて掘り下げをしていく中で、彼女は自分自身がどうありたいとか何をしたいという意思は強くないものの、周りの役に立ちたいという思いが言動の根底にあることがわかった。「怒られたくない、誉められたい」という気持ちと同時に、そのようなモチベーションが彼女の人生の根底にあったのだ。
もっと言うと、そもそも「怒られたくない」という気持ちで仕事にあたって何が悪かったのかと今では思う。それを勝手に「つまらない、イケてない」と断罪したのはわたしの人間としての幅の狭さ、余裕の無さからであった。
それならまず彼女の不安や恐れを取り除き、成功体験を重ねて貰うことこそがわたしの役目だったのである。彼女にはたくさんのことを教えて貰ったしあの時のことは申し訳ないなと今でも思う。
 
その一方で、仕事というゲームに参戦するプレイヤーが「勝ち負け」を常に志向するならば、ゲームを楽しんだ結果としてステージが上がり、ゲームクリアという出世を果たすであろうことに異論はない。明確なゴールを設定し、腹落ちさせることができるのは優れた能力のひとつだと思う。
だからといってそのような生粋のプレイヤーにお前もなってくれよな!というのは自身の失敗経験を踏まえても、やはり無理がある気がする。
そもそも働く女性の新しいありたい姿を描くべき女性誌が、そんな旧態依然とした現実に追随してどうするのだとも言いたい。
新作コスメで新しいワタシに生まれ変わったり、1ヶ月着回しコーデのなかでプロジェクトの打ち上げの後に甘顔高身長の後輩に告白されたり、憧れの先輩から壁ドンされたり、長年付き合ってる彼氏とは初月ではマンネリ気味のだったはずなのに突如として月末にはおめかしデートからの指輪パカッされたりさんざん俺たちに(金のかかる)夢をみせてくれたよな?とぶんぶん肩を揺さぶってやりたい勢いである。
 
個人的なソネみでやや脱線したけど、そもそも成長スピードを落とさず仕事を楽しむのが大目的なのであれば、個々人のモチベーションの源泉をないがしろにしては成り立たないのではないだろうか。ヒト・コト・モノ、その規模や距離。源泉となる対象は人それぞれである。
 
説得力のない話かもしれないが、わたし自身はっきりと進みたい道が定まっているわけではない。 だけど手痛い失敗や葛藤を経て、自身のモチベーションの源泉やエンジンは、他人が差し出す正解には無いものという考えに至った。
 
長々と書き並べてしまったが、なんにせよ言いたかったのは「何に仕事モチベーションや面白さを求めてもひとの勝手、ほっとけよ」ということである。
焼きそばの湯切りからのそれを言いたいがためにこの文字数・・・件のコラムと押しの強さはどっこいどっこいである。
 
 

どうにもならないものをどうにかしようとする女たち

アラサーと一括りにするのは畏れ多いのだけど、都心のアラサー女子の占い受診率(課金型)ってどのくらいなんだろうか。
わたしの周りで聞くと、一度きりの経験を含めると約半数は経験があるのではという所感。

男性が社会人になったら風○デビューをするがの如く、28歳を過ぎた女性は占いの課金に走る、というのは完全なる私見ですが、「アタシは石井ゆかりの『筋トレ』で充分だから関係ない話♪」と思ったそこのお肌ぴちぴちの貴女。

『筋トレ』(無料)が『星読み』(月額課金)となり、「ええい、まどろっこしいわ!人間が12タイプで区分出来たら世話ないんじゃい!」とよりパーソナルな傾向と対策を求め対面占いに駆け込み、さらには電話占いに発展するエリートコースを諸先輩方がひた走ってきたのをいつまで「他人ごと」と言えるかはわからないんだぞ(誰目線)。

 恥を忍んで告白するけれど、わたしは肝心なところで他力本願で思い込みが強いタイプなので、割と占いが好きである。割とというか、結構。いや結構というか、まぁだいぶ・・・。
こんなこと大っぴらに言うもんじゃないというのはさすがのわたしでもちょっと気にするので小さく書くけど、それこそ一時期(一ヶ月くらい)占いに大金を費やした経験がある。 

元来物事に場当たり的かつ極端かつ瞬間的にハマるタイプなので一ヶ月で事なきを得たが(家計は大出血だったけど)、わたしみたいな依頼心の強いタイプは占いにハマったら破産だなと思った。その頃は対面・電話・月額課金型問わず短期間に多様な占いを経験して、ついには占ってもらうことがなくなってしまい

にゃんきちったー:「肩が凝って、ふくらはぎがすぐむくむんです。」

占い師:「恐らく胃腸が冷えて血流が悪くなってるんでしょう」

的な「もうおまえそれは漢方薬局行って来いよ」みたいな会話をするところになって「やっぱりおとなしく整体に行こう」と我に返り、思いの外スパッと止められた。帰る場所があって本当に良かった。

 

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元々占いについていろいろ調べ出す前は、占いの熱心な支持層というのは「片想い」とか「恋愛運・結婚運」的な「相手の気持ちを聞くに聞けない」もしくは「人の意思の範疇外」故の相談が多いのではという先入観があったが、実際はそんな花占い的なものよりも、熱心なリピーターや占いジプシー(様々な占いを転々とすること)になる人は「復縁成就」「不倫成就」を願う人が最大派閥なのではと感じるようになった。

「元彼にブロックされてしまいました。彼から次に連絡来るのはいつでしょうか」みたいなことが掲示板や口コミに普通に書かれてあって、「あんた何したんや」とハタから見ると思ってしまうが、およそ一兆円とも言われる占い市場を支えている熱心な支持層は、実はそんな人たちなのではないかと思えてくる。

そんなことを考えながら、自身が占いにハマった時期の翌月、クレジットカード明細を指でつまみ上げ目を細め遠目で確認しながら(直視できなかった)、ふとひとりごちた。

「こうやって我欲が強くて目の前の結末を受け入れられない性格の人が、大枚はたいて占いジプシーになるのかもなぁ・・・。」と。

相手の出した結論や因果応報を受け入れられず、どうにもならないものを我欲でどうにかしようとする。

差し出された結末や状況を受け止め、その理由や意味をきちんと理解しようとすることなく、第三者の繰り出すカードや生年月日に、自分にとって望ましい未来を見出そうとする。

目の前にある結末を「わたしが欲しいのはコレじゃない!」と突っぱねて、「辛いです。わたしの望む未来はいつ来ますか?」と聞いて回る。なんというか、「想い」が強いというより「我欲」が強い。

もちろん、ある一面で我欲に溺れているからといって、すべてにおいて欲深く自分本位というわけでもない。そしてそんな我欲ファーストな人だって、自分が囚われているものが「運命の相手」なのではなく「執着」であること、自分の思い込みで自身の首を絞めているだけだと、とっくの昔に気づいている人がほとんどだ。

「諦められたらラクになるのに」。

そう、そうしたらラクになれるとわかっている。この関係性で妥当な結末はそうすることでしか導き出せないとわかっている。

自分自身でわかっているから不安になる。不安に抗おうとするから苦しくなる。お互いの役目がとっくの昔に終わっていることに気付かないふりをしている。無邪気に信じることが出来ない。だから余計に辛い。気付きよりも始末の悪い我欲が勝ってしまう。

占いに限らず、巷の「復縁本」や「略奪愛の恋愛テクニック」的なものにあまり意味が無いだろうなと個人的に思うのは、それが人間関係のつまずきを本質的に解決するための人格の成長に寄与しないからだ。
人間関係はいつもどこか同じポイントで躓いたり綻んだりしている。

自分か相手どちらかが圧倒的に成長・変化しない限り、何度手をつなぎ直してもまた同じところでコケてしまうのは目に見えてる。

どれだけ外見を磨いても駆け引きしても、ヨリを戻せたありがたみで最初のうちは理想の相手を演じられても、同じところでつまずいてパッと手を離してしまう人は多い。

たまに双方がなんの成長もしていないのに復縁・不倫が成就したり、別れ・復縁を繰り返すカップルもいるけれど、それはお互いの人格が同等でいわゆる「割れ蓋に綴じ蓋」を地でイケる稀有な組み合わせなのだろう。それも「相性の良さ」のひとつである。

 占い自体は今でも面白いと思うし非難するつもりは毛頭ないし、復縁や不倫の成就を願う気持ちを否定する気持ちもまったく無い。そんなこと言ったらわたしなんか特大ブーメランに首の骨髄までふっ飛ばされてしまう。 

 でももしいま、我欲のプールに溺れている人が居たら、すこしでも状況を俯瞰してすこしでもラクになって欲しいと個人的には思う。

溺れているのは愛の海ではなく、ホントはただの我欲のビニールプールなのだ。冷静になったら、いつでも足がつく深さでしかないのだ。

そうやって「ただ我欲に溺れてるだけなのだ」と自らを少し突き離してみる。溺れているのは手に入らないあの人の唯一性や希少性なんかではなく、ただの自分の我欲なのだと思えたら、なんだかすこしだけあほらしくなって来ないだろうか。

 個人的には「一世一代のなんとか」なんて無いと思っている。もちろん「こんな人初めて…!」と感動する出会いはあるし、そう思わせてくれる人には陶酔してしまうものだけれど「一度経験したことは、そのドンズバでなくても似たようなことは何度でも経験できる。」とは思えないだろうか。思えないよな。わたしだって渦中にいる時は「頭では分かってても」と思うもの。

しかし幸か不幸か、自分の感性だって変わっていく。

 

・・・ということはわたしはまた何かに極端にハマったり依存する可能性があるんだろうなぁと空恐ろしい気持ちになりながら、占いにハマって我に返った後にメモした「占いに費やさなかったら買えたであろうものリスト」を抱きしめながら今夜は眠りにつこうと思う。

 

【後記】

「自分を突き放したい時」におすすめのぱぷりこちゃんの著書。

 

なぜ幸せな恋愛・結婚につながらないのか 18の妖怪女子ウォッチ

なぜ幸せな恋愛・結婚につながらないのか 18の妖怪女子ウォッチ

 

 

女性のタイプを18の妖怪タイプに区分し、徹底分析した本。ぱぷりこちゃんの面白すぎる言葉のセンスと容赦ない筆圧が炸裂。

身に覚えの無い章では友人知人の方が浮かんできて「なるほどな」とほくそ笑み、身に覚えのある章では死にたくなるという稀有な本です。ぜひレビューを書きたいのだけど、筆力不足でチキってますが近いうちに。

この本をちゃんと理解すると、己が恥ずかしすぎて結末が見えすぎて下手にひとに恋愛相談出来なくなる、という副作用があります。

特にこの記事にピンと来た方はもしかしたら以下の章に身に覚えがあるかも…?

1.恋愛相談マニア女子

15.ずっとセカンド女子

16.私はあなたの信者女子

17.私が彼を救う女子

18.それはモテじゃないカモだ女子

 

【「占いに費やさなかったら買えたであろうもの5選」(誰得)】

「翌日の朝が楽しみになる感動トースター」

落ち込んでる時は無駄に夜型になるので、食欲ドリブンで生活サイクルの改善を。

BALMUDA The Toaster(バルミューダ ザ・トースター) | 感動のトースター | バルミューダwww.balmuda.com

⚫︎「肌よりも老化が怖いのは髪である」

気持ちが病むと風呂入るのも髪を乾かすのも嫌になるのでダイソンの突風ドライヤー

www.dyson.co.jp

 

「男一瞬、老舗浴衣一生。」

竺仙さんが謳っているわけではないですが、天保13年創業  竺仙の浴衣。紗栄子さん愛用。

www.chikusen.co.jp

  

「こんなに手をかけた自分が粗末に扱われるのは許せない」

という気分になれるかもしれないホテルスパといえば。わたしは整体無しで生きられない身体なのでこのお金を出すなら雑居ビルの整体の回数券を買いますが、そんな必要無ければ年に一度は受けてみたいご褒美。

マッサージ嫌いな人は高級下着で代替可。

www.mandarinoriental.co.jp

 

「自分と一生付き合っていくのは己の体質だけである」

「ディスカバリー」というオプションを付けて先祖に思いをはせるのもよし。

mycode.jp

 

お金と時間は大事に使いたいものである。

 

愛を残す生き方

会社の昼休み、小林麻央さんの訃報を知った。

「幼いお子さんを残して、辛いだろうなぁ・・・」「このような若すぎる死は、防げないのだろうか」と、様々な思いが頭をよぎりにわかに感傷的になった。

なんとなく卑しいのではないかと自分でも思うのだけれど、つい反射的に他人の死に学ぼうとしてしまうところがある。翻って自分はどう生きるべきなのか、考えてしまう。

 「日々を丁寧に、大事に生きるべきだ。」
同じように訃報にショックを受けた同世代の女性たちも、様々な想いをSNSに投稿していた。

「日々を丁寧に、大事に生きる」。その言葉にケチをつけるつもりは全くないのだけれど、それがどういうことか、自分自身にはなんとなく実感が持てなかった。
何をしていても思考や感情の一部が明後日の方向に飛んでしまう自分は、なかなかその瞬間や時間を大事にするということが出来ていない気がする。

「小さな幸せを大事にする」「今日が最期の日だと思って生きる」なんてことを決意してもすぐ毎日をうだうだと流すように生きてしまう。だからってそれが「雑に生きてる」ことにはならないとは思うけど。
それでもこうやって感傷的になる以上に、わたしがいま感じるべき何かがある気がする。それが何であるのかと思考を巡らせた。

 

そもそも考えてみると、彼女は自分のたった4つ上、34歳という若さでたくさんのことを成し遂げたのである。
学生時代から生き馬の目を抜くような芸能界で頭角を現し、20代前半で第一線で活躍するトップランナーになり、20代後半には潔い決断を下し新しい世界に飛び込み、34歳の若さで世間に影響を与えた。
芸能人で、梨園の妻で、そして若くして闘病生活を強いられたというストーリー以上のものを、彼女は力を振り絞るようにさらにさらに紡ぎ出していった。

そんな折に彼女のBBCへの寄稿文を読んで、わたしは彼女の「最期」以上に、彼女の「生き方」に学ぼうと思った。

がんと闘病の小林麻央さん、BBCに寄稿 「色どり豊かな人生」 - BBCニュース

2年前、32歳の時に、私は乳癌であることを宣告されました。娘は3歳、息子はまだ1歳でした。

「治療をして癌が治れば、元の自分に戻れるのだから、大丈夫!」と思っていました。

けれど、そんなに簡単ではありませんでした。

今も、私の身体は、がんと共にあります。

私は、テレビに出る仕事をしていました。

病のイメージをもたれることや弱い姿を見せることには「怖れ」がありました。

なので、当時、私は病気を隠すことを選びました。

隠れるように病院へ通い、周囲に知られないよう人との交流を断ち、生活するようになっていきました。

1年8か月、そんな毎日を続けていたある日、

緩和ケアの先生の言葉が、私の心を変えてくれました。

「がんの陰に隠れないで!」

私は気がつきました。

元の自分に戻りたいと思っていながら、

私は、陰の方に陰の方に、望んでいる自分とはかけ離れた自分になってしまっていたことに。

何かの罰で病気になったわけでもないのに、私は自分自身を責め、それまでと同じように生活できないことに、「失格」の烙印を押し、苦しみの陰に隠れ続けていたのです。

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それまで私は、全て自分が手をかけないと気が済まなくて、全て全てやるのが母親だと強くこだわっていました。

それが私の理想の母親像でした。

けれど、病気になって、全て全てどころか、全くできなくなり、

終いには、入院生活で、子供たちと完全に離れてしまいました。

自分の心身を苦しめたまでのこだわりは失ってみると、それほどの犠牲をはたく意味のあるこだわり(理想)ではなかったことに気づきました。

そして家族は、私が彼らのために料理を作れなくても、幼稚園の送り迎えができなくても、私を妻として、母として、以前と同じく、認め、信じ、愛してくれていました。

私は、そんな家族のために、誇らしい妻、強い母でありたいと思いました。

私は、闘病をBlogで公表し、自ら、日向に出る決心をしました。

すると、たくさんの方が共感し、私のために祈ってくれました。

そして、苦しみに向き合い、乗り越えたそれぞれの人生の経験を、(コメント欄を通して)教えてくれました。

私が怖れていた世界は、優しさと愛に溢れていました。

今、100万人以上の読者の方と繋がっています。

人の死は、病気であるかにかかわらず、いつ訪れるか分かりません。

例えば、私が今死んだら、人はどう思うでしょうか。

「まだ34歳の若さで、可哀想に」

「小さな子供を残して、可哀想に」

でしょうか??

私は、そんなふうには思われたくありません。

なぜなら、病気になったことが、私の人生を代表する出来事ではないからです。

私の人生は、夢を叶え、時に苦しみもがき、愛する人に出会い、

2人の宝物を授かり、家族に愛され、愛した、色どり豊かな人生だからです。

だから、与えられた時間を、病気の色だけに支配されることは、やめました。

なりたい自分になる。人生をより色どり豊かなものにするために。

だって、人生は一度きりだから。

 
小林麻央さんの「闘病」を軽んじているわけではないのを大前提として、それでも「闘病」は彼女の人生の「一部」であるという認識で居たいと思う。

自身が持って生まれたものを磨き上げ、若くして身を立て、自ら望んだものを手に入れた。そして手に入れた大切なものを、育み続けることは生半可な努力では成し得なかっただろう。

どんな境遇でも自らが強くあろうとし、強くなることによって愛を会得した過程こそが彼女の人生なのではないか。というのはわたしの身勝手な解釈だけれども、わたしは彼女の「生き方」にこそ、感化されたいと思う。

わたしには麻央さんのご家族の事情や心情を知る術もないが、だけど彼女の生き方を見ていると、「愛は強さの元に育つ」のではないかと感じる。

愛は周りのひとの様々な感情をも引き出し、織り成していく力がある。その織り成された模様の美しさに、人は心を打たれるのかもしれない。
同じ時代に同世代として生きている者として、わたし自身も出来る限り、美しく、強くありたいと思う。
そして同じ時代に、美しく、そして強く強くあろうとした人、そしていまこの瞬間もそうあろうとしている人に、心から敬意を表します。

  

※「母の愛」が周囲の人の感情や力を引き出し、織り成していく映画です。とてもおすすめです。

atsui-ai.com

 

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少し膝曲げたくらいで、空飛びたがるわたしたち~大人の夢の叶え方~

先日、ふとはぁちゅうさんのブログを読んでたらこんな記事に出会った。

「なんでみんな、すぐに悲劇のヒロインぶりたがるのかな」

lineblog.me

最近noteを始めたっぽい人のつぶやきを

たまたまこの間、見かけたんですけど、

「やっぱ私にはnoteで稼ぐのとか無理…心が折れた…」的なことを

つぶやいてるのみて、

「まあ、本人がそう思うなら無理だろうね」って思いました。

(中略)

それにしても、なんでみんなそうやって始めたばかりのことに、

結果を求めるんだろう?

noteとかそもそも始めてから、お金とかの成果に結びつくのには

それなりに時間がかかる場所では…?

noteのことに限らないけど、すぐに結果を求める人って

なんで人の成功してる部分にばかり目を向けて、

それ以外の努力の部分に、気づかないんだろう?

どうして他の人が、時間をかけて築いたものを

自分は一瞬で得られると思えるんだろう?

そして得られないからといって、悲劇のヒロインぶれるのだろう。

(後略)

 

そのtweetは初見だが、思い当たるふしがありすぎる・・・。

ちょっと膝まげてかがんだくらいで、あの人と同じ空を飛びたいと思っちゃう。思うように飛べなかったら、もう筋肉痛ですやっぱり無理、そいえばわたし生まれつき膝が悪かった気がしますごにょごにょ・・・とジムの初回体験に来てさっそく諦める人(それもわたしである)のようにしゃがみこむ。

自分は屈伸すら続かないくせに、日々地道にスクワットしてきた人の成功を「あの人は××だから。」と勝手に理由づけして納得しようとする。

意志が弱い・計画性がない・継続力がない。おそらくどれも当てはまるけど、根本は自分で人生を「選ぶ」のではなく、「選ばれるのを待っている」その無戦略的シンデレラスタンスではないかとふと思った。

自分の人生の行先を選んでいくという主体性が無いから、いともたやすく「悲観的」になる。だけどやっぱり自分可愛さで、そんな自分のありかたにも光を当てたい。それが「悲劇のヒロインぶってる」と見えるのかもしれない。

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そんなことを考えていた折に、自身が中高生の頃芸能活動を目指し、オーディションを受けていた日々をよく思い出すようになった。

「あの子はスター性がある/ない」「可能性がある/ない」。オーディションでも養成所でもそんな言葉をよく聞いた。「才能は見いだされ、選ばれるもの。」そう思っていた。

何度かオーディションを受けるも、その手ごたえのなさから「自分は『ある』側の人間じゃないんだなぁ」と徐々に自己認識し、最後の方は受かろうと思ってオーディションを受けてるというよりも、諦めたくて受けてるという感じだった。

そんな日々から逃げるため、「もうおじさんたちに品定めされる毎日はコリゴリや!」と挫折の理由をあちらになすりつけ、「ひとに選ばれるのを待つのでなく、自分で人生を選んでいける人間になるんや」と夢に踏ん切りをつけた。

本音は「正直もう諦めて楽になりたい・・・。」に近かった気がするのだけど、周囲にも自分にもその建前を言い聞かせていた。

昔の夢に執着する瞬間が無かったわけではないが、「もう遅い」と言い聞かせ、蓋をした。かと思うとあの夢の続きを夢想して、閉めたはずの蓋をそ〜っとのぞいてみたり。そうやって踏み出せなかった後悔と執着は多額の借金のように膨らんだ。そのリボ払いは延々と続き、自分自身に対する信頼残高はすり減って行った。

「わたしはあの時から何も変わってなかったのだ」と気付いたのは、最近のことだ。わたしはずっと選ばれるのを待っていた。舞踊会に一度行っただけで何か起こると思っていた。人から見出され、それでいいのだと肯定され、引っ張り上げてもらうのを待ち続けていた

それは、自分に自信がないからだと思っていたが、他力本願だからいつまでたっても「自信がない」ということにしているのだろう。

みんなひとを見て、自分自身のあり方を見つめたい。ひとの「ありかた」に惹きつけられて、自分自身に影響を与えたい。人の鏡になるには、相応の力が必要だ。自身のプライドの高さや臆病さに蓋をして安全圏に居ながら、自分の欲やコンプレックスを昇華させるなんてこと出来るはずはないのに。 


今やネットを通じて有名になったり成功する人、その過程を目のあたりにする時代になった。焦ったり比べたり、しやすい時代なのかもしれない。一見すると表に出てくる象徴的な人は、みなシンデレラに見えるけれど、実は日々地味に反復横跳びし続けてきた結果なのだと今ならわかる。


ピカソは売れた、ゴッホは死後になって認められた」という比較論があるけど、二人とも「自分の中の感性やあるがままを追求し続けた人」ではないだろうか。

生きることは、まず自分をあるがままに生かすこと。そして「あるがまま」と「今のまま」は似て非なるもの。そうやって生きている濃厚なエネルギーがひとの役に立った時に、世に評価されるのだろう。

大概の絵は、ポスターにすらならないけど、筆を取らなきゃなにも始まらない。自分という畑を、日々掘り起こして耕し続けていくしかないのかもしれない。

 自戒を込めていろいろ書いたけれど、個人的にはすこしかがんだくらいで空飛びたいと思ってて、飛べなかったら才能や運がどうだのぎゃんぎゃん言う、そんな欲深き怠け者も、人間らしく愛しいなぁと思う。自己擁護するようだけど。

なりたい職業になれなくても、一番好きなひとと一緒になれなくても、キラキラはしていなくても、それでもなんとなく「悪くないな」と思える日常がある。それは自分の嗜好(志向)×能力×環境が奇跡的にマッチしているということで、そんな日常が実は当人の「ありたい姿」に最も近い、ちょうど良い塩梅なのかもしれない。

「夢を叶える」こと。それは大人にとっては「なりたい」よりも「どうありたいか」「どうあり続けたいか」が大事な気がしている。もう「自由な大人」にはなれたのだから。

その時代に合ったやり方で、自身の「あるがまま」を耕し、その先のありかたを自由に描いていく。その権利と責任のクレヨンは、生きてる限り自分自身の手の中にある。

それが「大人の『夢』の叶え方」なんじゃないかと思う。

 

ベッキーについて妄想あれこれ~彼にイイコぶっちゃう問題~

先月の『週刊文春』に、ベッキーから届いたという手紙が掲載されていた。

事実の詮索や是非は置いておいて、わたしがこの騒動の当初からずっと感じていたこと・・・「ベッキーにとって、今回の相手の男は心の穴だったんだろうな・・・」ということである。

流出したLINEのやりとりは、不倫真っ最中の温度感で送られたものなのだろうが、圧巻なのは事が公になった後も、不倫相手に対して感情的にならず、健気かつ気丈にも振る舞う彼女の態度だ。 

不自然に感じるほどの一貫したスタンスに、空恐ろしいものを感じた。

ベッキーに肩入れするわけでもないし(出来ないし)、サンミュージックに借金があるわけでもないが、さすが生き馬の目を抜く芸能界で17年も生き残ってきた人。その善悪は置いておいて、突き抜けている。

いくら楽観的な気質だとしても、記者会見を開くほどの事態にまで発展すれば、「あんたが優柔不断で脇が甘いせいで、こっちは吊るしもんなんだよ!」くらいのことを言いたくもなる。

いわんやその後に及んでさらに「逆に堂々と出来るキッカケになるかも」とか言われたら、どんなに好きでも「じゃお前も晒し者になれや・・・」と怒髪天ものだ。

「憧れのミュージシャンと不倫」なんて設定はわたしのような身分では想像できない程、ドーパミンがドバドバ出て、思考・感情がマヒするのかもしれない。元来の気質に因るものであるにせよ、そうやって一時の感情に溺れたものであるにせよ、あの状況であの振る舞いは並大抵のメンタルでは出来ないと思うのは買い被りだろうか。

本音や弱音が吐けない関係性は不安を募らせる。恋人だろうが夫婦であろうが「本当に愛し合ってるとは言えないんだろうな・・・」と卑屈になってしまう。

その意味で、ベッキー自身が関係性の危うさを認識し、あえて「恋人未満」だと置きに行っていたとしたら、件の「友達」発言も、本人の認識としてあながち全て嘘じゃないのではと思ったり・・・いや、ホントただのミーハーの勘ぐりなんだけど。

 

いずれにしろわたしがどうこう言える筋合いはないのだが(じゅうぶん言っとるがな)、この件を見るにつけ、「言いたいことの言えない恋愛はどっちに転んでも地獄谷」と、己の閻魔帳(別名:恋のべからず帳)に鬼の形相で筆圧強めに書き足すのである。

ベッキーがそうだったかどうかはさておき、自己欺瞞を続けながらでもある人と一緒に居たい、という感覚は残念ながら理解できる。

他の人と付き合っているときはそうでもないのに、その人を前にすると、もはや条件反射的に無理したり、媚びたり・・・。心の穴に引っかかっちゃう相手っているんだよなぁ・・・。

私事かつ昔のことになるが、ある元彼にわたしは「夜のスターリン」(もはやよく付き合ったな)と呼ばれていたのだが、その数年後に付き合った別のある人はわたしを「女神」と呼んだ。ある友人は、元来誰と付き合ってもマリーアントワネットが大阪のおばちゃんに転生したかのような、極上のワガママと安っぽい世話焼きをある意味黄金バランスで共存させていたのだが、ある彼氏の前では、常に微笑をたたえた壇蜜崩れ(失礼)を演じており、常に彼を立て、動静はたおやか。「彼から古風な女と言われる」というノロケを聞かされたのは友人一同噴飯ものであった。

そして蓋を開けてみると、スターリン時代は数年に及ぶ長期政権を樹立したが、エセ女神は数ヶ月であっけなく自滅。壇蜜崩れもたった三ヶ月あまりでスピード解雇である。

わたしたちはとても落ち込んだ・・・エセ女神&壇蜜崩れ@磯丸水産で、イカの肝をつぶしつつ大反省会である。

当時はとても落ち込んだが、3ヶ月後には「いやー、そもそもの初期設定からして無理ゲーでしたわ!」とホッピー片手に開き直るスターリンとオバネット。

当時その彼に支配的な態度を取られ、自分は唇噛み噛み我慢していたかというと、そんなことはない。その人に好かれたくて、好意的な反応が嬉しくて、もう条件反射的に常にポジティブな態度を取り続けたのはわたしの依存心からである。最後の女に選んでもらいたかったのかもしれない。

相手の理想(というか都合の良い)の女性像を演じ、媚びることである程度関係は継続するかもしれない。でも泣いたり怒ったり「感情を持つ生身のわたし」が生き場を失くしてしまう。「好きなら仕方ないじゃん。」その通りなのだけど、アラサー以上の身にはこれが結構しんどくて、首が詰まるのだ。

 ・・・なんかベッキーの話から自分の話に・・・畏れ多くも前座にしてすみません・・・。

話が拡散してしまったけれど、ベッキーが今回最終的に出会ったものが、びっくりキノコ頭の男性ではなくて、初めて出会った己自身、であったら良いなと思う。

【以下中村うさぎさんのインタビュー記事を引用】

am-our.com

依存によって最も醜い自分に出会うことは
いい経験になる

中村うさぎ AM 恋愛 甘えと依存
©AM編集部

 

 

 

 

 

 

―依存をしたことですごくいい体験をしたことはありますか?


中村:恋愛で男に依存したことで、いい経験をしたことなんて一度もないと思う。

依存って執着なので、しすぎると苦しいからね…。
しいていうとしたら「私ってこんなにばかなんだなー」と最も醜い自分と出会ってしまう体験ができることかな。
そういうコントロールできない自分を発見していくことは、とても貴重だと思うんですよ。


 恋愛って最も自分を知るチャンスだと思うのね。
やっぱり人ってきれいごとをいってしまうし、きれいごとを言っている自分が本当の自分だと思ってしまう。


 心の中でドロドロしたことを思っていても、そんなことは口には出さないし態度にも出さず、
そんなこと思っちゃだめ! って自分に言い聞かせて、もっとポジティブに考えよう!  とかさ。
そんなことができる間は依存じゃないから。
でも恋愛でバカになって、私はこんなに愚かだし、こんなに醜いし、こんなに視野が狭くて、だめな人間なんだ、ということをちゃんと知らないといけないと思うんだよ。
自分をきれいにきれいに美化したままでいたら、「己を知らない」という理由でどっかでつまずくから。

「人間って『自分がいかに下らない人間か』ということを思い知ることで、スーッと楽にもなれるんじゃないかな」とは敬愛してやまないかのタモさんの名言である。もしかしたら自然体とは、己の醜悪さに気付いたその先にしか無いものかもしれない。

 ・・・と、ここまで書いてベッキーが昨夜のテレビ番組に出演したことを知った。

「金スマ」でベッキーが中居に明かした本音 涙声で語った「記者会見のウソ」【書き起こし】 - ねとらぼ

特にファンではないし、フォロワーシップも持ち合わせていないけれど、同世代の同性として、お互い少しでも生きやすく生きれたらいいよなぁ、と一方的に思う。

醜くてどうしようもなくても、自分自身を抱き締めずにはいられない。周りにその醜さを気づかれてるんじゃないかとビクビクしながら(そして大概気付かれている)、だけど時々その醜さのおかげで愛されながら、生きていく。

 

まぁそれこそ友人でも何でもないので、一方的な妄想なんだけれど・・・。男は縦幅・女は横幅、男女のもつれは女の肥やし(なんだそれ)と陰ながらエールを送りたい。

 

「小さなOK」を出し合って、人は生きてる。

友人に勧められて、遅ればせながら漫画『サプリ』を読んだ。よくある恋愛ご無沙汰OLが、部屋着で干物食べながらたまにやる気スイッチ押すとハイパー労働者モード入る系のやつか(色々混ざっている)…と半信半疑で読み始めた。

ぅぅぅっ・・・っこれはビジネス経典である(目頭を押さえながら)・・・。

話のあらすじを言っちゃうと。

①深夜残業当たり前・休日出勤ご褒美です状態広告代理店勤務の27歳女性が、仕事が激忙しくて学生時代から付き合ってる彼と別れる(身に覚えあり)。

②別れて間もなく、元彼が他の女性と結婚(身に覚えa(ry)⇒失恋後、不倫中の同期のイケメンやさ男が異動してきて再会し、お互いの傷を癒しあうも、恋愛に不器用過ぎる主人公は結論うまくいかず。

③そのあと振り回す危なげオラオラなコワモテ系の男(職業カメラマン)に惹かれたんだけど・・・(普通コレで婚期遅れる)

④どっこい!二人の関係は成就+継続し、なんと子どもが出来ました。

⑤しかし主人公は彼に子どもが出来たことを言えないまま、カメラマンの男は自意識炸裂し中田英寿よろしく自分探しに海外に行ってしまう・・・

⑥数年後再会。主人公は未婚の母。子どもは産みましたけど、お前はこれからこの子とわたしと一緒に生きていく覚悟はあるか、と彼にビンタ!母は強し!持つべきものは己の経済力!さすが電通社員!(電○とは言ってないけど)

・・・そんな話なんだけど(サマリが雑ですみません)、わたしがことごとく刺さったのは、上記の主人公の恋愛云々というよりも、主人公と先輩社員のやりとりである。

 

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「仕事は女を救わない」とはよく言われるけど、半分その通りだと思うし、半分そうじゃないのかもと思う。

と言うのも、わたしは今仕事をしている会社に、人間として育てられた感がある。会社は第ニの親だ。そう書くと社蓄感みなぎっているけどホントにそうなのだ

わたしは新卒で入社した今の会社に、2度目の就職活動で内定をもらった。

1度目の就職活動では最終面接で落ちた。落ちた理由を、自分なりに理由を分析すると一言で言うと「自信が無く、危うかったから」だと思う。

その頃の私はとにかく自信が無くて、自信がないくせに完璧主義でプライドが高かったから、相手によって自分の出し方を変えてしまう「わかりにくい子」「危うさのある子」だったのではないかと思う。結果、就活留年させてもらったわたしがやったことは、社会と自分自身に「慣れる」ことだった。

慣れない存在である大人に対して自分自身を言語化し、その中で自己理解を深め、不要な自責や背伸びを止めようとしていった。

そんなこんなで述べ100人強の大人の方にお時間を頂き話をする中で、自己開示や自己受容を少しずつではあるがうっすら体得していき、結果二度目の就活で希望の会社に入社することが出来た。

たくさんの人のおかげで、その一年で若干の成長を遂げたものの、もちろんそう簡単に人間が変われるはずもなく、入社当初は全く自信が無く自分の言葉で話せなかった。人の表情を見ることだけに長け、自分はと言うと臆病なポーカフェイスで「何考えてるかわからない」とよく言われた。

だけどその一方で、どうしようもなく真面目だったので、仕事では目の前の仕事を精一杯こなし、お客さんに応え続けた。

業務内外、苦手な営業も宴会芸もとにかくコミットすることで、お客さんや上司に「おまえは(泥臭いけど)いいなぁ。」と言ってもらえた。

初めて他人から貰った「いいなぁ。」のつぶやきに、わたしは思いの外励まされた。徐々に自分を受け入れられ、自然と自分を出せるようになった。

すると徐々に自分の引き出しが増えていった。辛いことも苦しいことも、「人間の幅をつくるための経験だ」と思えるようになった。生きるのがなんだか年々楽になっていった。

就活面接でオドオドしていた女子大生は、いつの間にか聞かれてもいないのにインターネッツ上で持論を主張するアラサーになっていた(良いやら悪いやら)。 

そんな風に仕事を始めて6年目になったいま振り返ってみると「若いうちにたくさんの成功体験を積むこと」の大事さを痛感する。若いうちからたくさんの打席に立つ×「小さな成功体験」を積むことで、自分の引き出しを増やしていく。引き出しの数と幅がそのまま自信になる。

そのためには小さな「OK」をくれる人たちに出会うこと。そんな環境に身をおくこと。特に自己肯定感が低くなりがちで、内省傾向の強い女性には、とても大事なことだと思う。

とは言うものの、年次が上がれば周囲からの期待値や越えなければならないハードルは当然上がり、「自分の能力で、ここで働き続けることは難しいな」とか「後輩の方が全然優秀じゃん・・・」とかしょっちゅう卑屈になっては落ち込んでいる。そんな自分自身こそが、限界作っているんだなともよく思う。完璧主義のくせして承認欲求の高い性質はなかなか治らない。 

でもその度に前を向くのは、「わたしなんか・・・」の先には何もなく、誰も救わないし、救われないんだということを知ったからだ。それは恋愛も仕事も一緒である。

強く想い、がむしゃらにでも頑張ったその先には必ず何かがあったし、それはそのまま自分の肥やしとなっている。そして時にはひとから褒められたりもした。

そしてその肥やしで、後輩だったり、「この人の背中を押してあげたい」そう思う人が居たら、自分の経験と感性を総動員して小さな「OK」を出して受け容れる。

それは仕事に限らず、友人関係でも恋愛でも、家族でも。そのために、わたしは日々いろんなことを乗り越えながら生きている。

そうやって巡りめぐって「小さなOK」を出しあって、人は生きてるのかもしれない。

 

【ご参考】

特に女性のキャリア形成、自己肯定感の持ち方という観点で、すごく参考になる、岡島悦子さんの記事です。

careerhack.en-japan.com

 

next.rikunabi.com

 

「好き」と「大切」がわかる人。

以前、なじみの整体師の方と「パートナー」についての話になった。 

「人間て、“自分ひとりの力で生きてる”と思ってる人間か、“周りに生かされている”と思ってる人間か、大きく分けてそのふたつなんですよ。“周りに生かされている”と本気で思っている人は浮気しないですよね。」

「パートナーって最悪の状況からギリギリのところで救ってくれる存在じゃないですか。どんなに追い込まれてても、一緒に寝るだけで救われる時ってあるじゃないですか。そんな人にはやっぱり笑ってて欲しいし、傷ついている顔なんて見たくないですよ。」

・・・奇しくもその話をしたのは当時付き合っていた彼がなぜか酔っ払ったついでに詮索してもないのに無駄に浮気をゲロってきた翌日であった。

イムリーな話題に頷き過ぎて首がちぎれるどころか顔が鎖骨に埋もれるほど思ったのは「ひとを好きになる」と「ひとを大切する」は違うんだなということだった。

「好き」だけで恋は出来る。だけど、「好き」だけじゃ人と人との関係は続かない。結局「好き」は「自己愛」の延長で、その「自己愛」は相手を傷つけることもある。そこからお互いに「大切」と思いあえる関係にシフトしていかないと、二人の関係は耐久レースと化し、いずれ関係性を続けることが出来なくなる。

そんなことを思った時に、過去七年間付き合った別の元彼を思い出した。

彼と別れた一年後に、一度再会した。会ってる間中、彼はわたしの言動に「成長したね」と言っては泣いてくれた。

まだ未練があったわたしは、こんなに想ってくれてるのだから、ヨリを戻せるのではないかと思い、心の奥で期待してそれとなく聞いてみたけれど、答えは「NO」だった。わたしのことは「大切」だけど、もう「好き」じゃなくて、ちゃんとほかに「好き」で「大切」な人が居たからだ。

わたしはその「NO」を聞いて、改めて本当に素敵な人と付き合えていたのだなぁと思った。別れた後も、わたしをもう「好き」じゃないのに、ずっと「大切な人」として思ってくれたんだ・・・。

そんな彼は「好き」と「大切」の違いがわかる人だったのだと思うし、七年の間にわたしは彼から「好き」の後でもずっと「大切」にしてもらえていたのだと気付き、感謝の気持ちが溢れた。http://nyankichitter.hatenablog.com/entry/2014/08/26/002317 

そんなことを思い出して、「なるほど今回の彼は、わたしのことは好きは好きだったんだろうけど、大切だと思っていなかったのだな」と合点がいったのである。思えば当時なんとなく不安になって、「わたしのこと好き?」なんて聞いていたのだけど、その問いは全く本質的ではなくて、論点は「好き嫌い」ではなかったのだ。

自分以外の誰かのことを「好き」だけではなく、「大切」と思える人はそんなに多くない。というよりも、自分をそんなにも思ってくれる人は、自分が考えていた以上に多くなかったのだなぁとしみじみ思ったのである。「モテ」とは次元の違う話である。

「好き」と「大切」の違いの話に戻ると、それは「対相手」の話だけでなく、「対自分自身」にも同じことが言える。

「自分が好き」なことと、「自分が大切」なことは似てるようで違う。むしろ自分が好き過ぎると、「自分を大切にする」ということからは遠ざかってしまう。

それは自分(の感情や好き嫌い)をその都度大切にしているようで、だけどいつまでたっても「満足」することが出来なくて、そしてその満たされない渇望感がさらなる泥沼を生むからだ。強い自己愛や欲を持つ有名人や経営者などが、世間的名声や栄光の陰で自暴自棄なプライベートを送っていることは、時々耳にするし、実際に目のあたりにした時はその根深さにこれが「業」と呼ばれるものなのかと思った。

そんな「自己愛」の追求は、「自己満足・快楽の追求(追究)の旅」とも言えるし、「延々の自滅」ともいえる。

「不安」から相手を詮索・束縛してしまう関係もこれにあたるのだろう。

実のところ「自分を不安にさせる相手」は不在で、自身の「不安」や「嫉妬」という感情の追求と支配を止められなくて、自滅していってるケースも多い。

 

 

 

アメリカの医学者たちが著した『オルガズムの科学』(作品社)という本に「セックスにおいて快感と満足はまったく違うものであり、快感だけを追えば追うほどむしろ満足からは遠ざかる」といった記述があった。拙著で述べた「恋」と「愛」の違いを、セックスの観点から言い換えたともいえる。そしてまさに、恋愛工学は一時の「快感」を得るための理論ではあるが、決して「満足」にはたどり着かないドラッグなのではないか。

www.gentosha.jp

突如としてCHAGE&ASKAの話を出したけど、元彼やASKA(並べちゃったよ)を批判したいわけじゃなくて、今からそいつを殴りに行って欲しいわけでもなく(殴って欲しい気もするけど)、自分自身に対しても「同類なんじゃ」という疑念を抱くからである。

「大切」より「好き」を優先した過去。「好き」を「大切」につなげられない関係構築力。 

もちろんそれらの恋愛から学ぶことは多かったが、不安に思ってしまう。

わたしの年代だと、それはイコール結婚で例えられることが多い。「恋愛=好き・欲望」「結婚=愛情・大切」というふうに。 

もちろんそんなのはわたしの思い込みである。そもそも、それらを区分して考える方がおかしいのかもしれない。

でも実際にその方程式に毒されているわたしは、SNSでの結婚式写真を見ると、「自分はいつまで“好き”や“欲”に支配されるんだろう」と自問自答することがある。

何度も恋を繰り返し、その度に恋を失い、傷みと執着にジタバタしている。そして時間が経てば、「あれはなんだったのか」と周囲が呆れるほどケロッとしている。

かと言って恋を卒業して、結婚したいと本気で思えているわけでもなく、以前「恋愛がしたいんですか?結婚がしたいんですか?」と質問された時、答えることが出来なかった。

おそらくわたしはまだ「家族が欲しい」わけじゃない。本当はまだ「恋」がしたくて、でもその一方で恋愛の斬ったハッタを「アガり」たくて、もっと言うとこの「辿り着いてない感」を拭い去って「辿り着いたんだね・・・」と安心したいだけなんだ。このあゆ被れが・・・!(※長瀬智也と熱愛発覚直後にリリースされた『Dearest』参照)

 

20代半ばから「好き」と「大切」、「欲望」と「愛」について、壊れた時計の振り子のように、ずっと行ったり来たりを繰り返している。我ながらバグってるんじゃないだろうか。

 

そんなモラトリアムな状態が嫌いと問われれば、寂しくはあるが、決して嫌いではないのである。わたしの自己愛も相当なものだ。

 

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「何があれば、産めるの?」

「子どもが欲しくないというキミに、これ以上時間を費やせない」

 

そう言って、付き合っていた彼にフラれた。

そもそも、これまでの人生で、「子どもが欲しい」と思えたことがなかった。

友人や知人に、子どもを持ちたいかを尋ねると、「欲しい!」もしくは「まぁ、いつかは・・・。」と返事がかえってくる。
私自身はそんな「いつかは・・・」という感覚さえ持てなかった。

「アタシなんてこれからって時に子どもが出来ちゃって~!」と笑い飛ばすタフな女性に遭遇すると、「ななななんで避妊しないの?!そこは調整出来るはずでは?!」とその思い切りの良い「ウッカリ」にひっくり返り、そんな「ゆるい許容範囲」を持てる彼女たちをうらやましく思った。

 

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とは言うものの、クソ天邪鬼なことは承知の上で書くと「子どもは一生欲しくない」と言い切れるかというと、そう言い切ることも出来ない。

どうして当たり前の様に「子どもが欲しい」と思えないのだろう、と何度も考えた。

何のために産むのか?

育てたいために産むのか?

誰のために産むのか?

子どもは産んでくれなんて頼んじゃいない。

その問いに答えが出ないからだ。

自身の自我との折り合いも付いてないように思う。

幼い頃から演劇や舞台に没頭し「何者かになりたい願望」が人一倍強かった。十数年前、地方の片田舎で、もはや憧れを通り越して強迫観念に近いものに追い立てられていた中高生時代。

自分の人生を思うように生きられず、かつシングルマザーとして追い詰められていた母親がたまらずこぼした「子どもなんて産むもんじゃない」というぼやきは、それ自体にショックを受けたというよりも、「自分の人生で実績を作らないまま子どもを産んでしまうと、後悔と手遅れ感で恐ろしいことになる」という強迫観念をより強いものにした。

 

そんな家庭環境を「しんどいな」とは思っても「不幸だ」と思ったことはない。どんな愛情深い母親でも、追い詰められるとそのようなことを思わないわけではないだろう。加えて、母親は不安定で幼かったから口に出してしまったのだと思う。

 

✳︎

「あなたくらいの年頃はみんなそう言うのよ。でもみんな早く産めばよかったって後悔している」

説教したいだけのおっさんのみならず、本当に心配をして経験談のシェアを厭わない諸先輩方にそう言われると、「こんなこと言ってる間に手遅れになるんじゃないか」そんな気持ちだけが迅る。

ある大先輩には「キャリア女性は勢いじゃないと結婚しないし、産まないから!」と一刀両断され、あぁ爽快だなぁと圧倒された。でもそれでもその後もぐじぐじと、踏ん切りはつかない。

冒頭の彼とのやり取りに話を戻す。

お前は結局どうしたいんだと問われ、答えた。

「一生欲しくないと決まっているわけじゃないけど、欲しい・産みたいと言い切れない」

すると彼はこう続けた。

「それはいつ決まるの?何があったら決められるの?」


「・・・わからない。」

 

「逆算して設計すれば答えが出るんじゃないの?出ないってことは、やっぱり欲しくないんじゃないの?」

 

「…欲しくない。」そう答えたら彼に別れを告げられるだろう。するとわたしは「あんなに言ってもらえたなら、彼の子どもを産んでも良かったんじゃないか」と後悔するんじゃないか。

でもわたしのことだから、そんな後悔は半年も経てば薄れ、次の恋や仕事にまい進しているという予想はつく。いつものことだ。

 

「子どもが居ない将来を想像したことが無いんだよ。」と彼は言った。わたしは逆に、居る未来を想像したことがない。

自分の人生にOKを出せたら、そう思えるのだろうか。いったんここまでやれたからOKだよと、決められる日が来るのだろうか。


何が実現すればわたしは後ろ髪惹かれることなく、後悔や罪悪感を感じることなく「子どもが欲しい」と思えるのだろうか。純度100%そう思える人こそ、少ないのかもしれないけれど。

 

だけど一方でこんな気持ちがフツフツと湧き上がる。「手遅れになりたくない。」そんな気持ちで、ものごとを選択するようにいつからなってしまったのかと。子どもだって、そんな理由で産み落とされちゃたまったものでは無いだろう。

 

どんな状況になっても、自分自身の在り方に腹括りをし、受け容れることが大事だとわかっている。そうしないとどんな選択をしても、一生無限ループの「タラレバ地獄」だ。

 

たくさんのものを失い、選び、逃しては得て拾っては捨てる。「選ぶことは捨てること」そうやって人は人生を作っていく。

もっと言うと「選ぶことイコール捨てること」にしかならないものなんて、所詮それまでなのかもしれない。恋も、仕事も、人生も。

そんな啖呵はいくらでも切れるのに、いつまでも選択肢をあげつらうことだけが楽しくて、タラレバばかり考えている。あれから、十数年経った後もこの東京で。

【感想】愛する技術は女の業を助く。『愛は技術 何度失敗しても女は幸せになれる。』

今回は先日発売された川崎貴子さんの『愛は技術』を読んだ感想をしたためたいと思います。

愛は技術 何度失敗しても女は幸せになれる。

愛は技術 何度失敗しても女は幸せになれる。

 

 川崎さんと言えば、ブログ「酒と泪と女と女」が大人気。女性に特化した人材紹介業の経営者であり、仕事恋愛結婚、悩める女性たちを1万人以上フォローしてこられた、人呼んで「女のプロ」。プライベートは2児のママ・執筆活動をされている素敵な方です。

 川崎さんを存じ上げたのは、1年前にブログを拝読したことがきっかけでした。

心をえぐられるようなアラサ―女性のリアルを愛のムチでビシバシ浮き彫りにされ、しかもそれが割と笑えない現実なのに、思わず他人事のように泣き笑っちゃう面白さで(川崎さんの文章を読むと、否が応にも自分を客観視させられます)、とても衝撃を受けました。

ご本人も“愛しかないけど、媚びも甘えも無い”、良い意味で本当に「記事そのまま」の方。下記リンクでは川崎さんの特に反響のあった記事を特集されているので、ぜひご一読をお勧めします。

ninoya.co.jp

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【読後感想】

さて、本題の『愛は技術』。28歳・独身OLのわたしは読者対象ど真ん中。

本の概要は、ライター・福田フクスケ氏のレビューがうまくまとめられているなぁと思うので、そちらを引用させて頂こうと思う。

news.mynavi.jp

モテテク本や恋愛自己啓発本にすがってしまいがちな女性にこそ、手に取って欲しい本。愛されないからといって、自己反省や自己責任で自分を責めるのではなく、"自分が愛するに値する男を自分から選ぼう"と説く本書は、そのための"男の見きわめ方"をスキルやライフハック(=技術)として授けてくれるのである。
著者の川崎貴子氏は、女性のための人材コンサルティング会社の社長として辣腕を振るってきたゴリゴリのバリキャリ女性。加えて、バツイチ・子持ちの末に、8歳年下のダンサーと再婚したという波瀾万丈な経歴の持ち主だ。そんな人生経験から彼女が導き出した結論は、とにかく「自分の人生を他人マターにしない」こと…(中略)…「条件の良い完璧な相手に見初められる」「信念も価値観も相性もすべて合う運命の相手」と出会える、といったロマンチシズムもばっさりお捨てなさい、と川崎氏は喝破している。相容れないのは当たり前。大事なのは、お互いの欠損を埋め合わせ、価値観の違いをすり合わせようと努力できる男性かどうか。相手がそれに値しないとわかったら、執着や依存をせずに鮮やかにリリースするのも肝要だと言うのだ。

 

たとえば第1章では、パートナーの選び方として、「『結婚向きの男』5つの条件」というものを下記のように掲げられている。

 

(1) 「ありがとう」「ごめんなさい」が言える
(2) 「会話力」「傾聴力」に長けている
(3) 相談力がある
(4) 心に何かの傷を持っている
(5) 情緒が安定していること

上記に年収や学歴などのスペックや、いわゆる「頼もしい男らしさ」が一切採用されていないのは、フクスケ氏が先述のレビューにて下記のように指摘している通りだと思う。

裏を返せばこうした古めかしい"男らしさ"が、これまでにいかに男女間の対等なパートナーシップを阻害してきたか、ということでもあるのだろう。

【パートナー構築のリアル】

本著では主に3つの主旨

男性を「育てる技術」/「育てることのできる女になる技術」/「育てる余地のない(=女の毒になる)男性を捨てる技術」が語られている。

上記の「育てる男性」にあたるのは、現時点で上記の5つの条件をバッチリ満たす男性ではない。コミュニケーション次第で良好なパートナーシップを築くことが出来る可能性のある男性である(現時点で上記条件を満たす男性を探そう、もしくはそんな男性に選ばれようなんてハナ想定していないのがこの本の大前提)。

川崎さんの再婚されたお相手も、川崎さん曰く当時はほとんど当てはまっていなかったとのことだが、連合艦隊司令長官山本五十六さながら「やってみせ 言って聞かせて させてみせ 褒めてやらねば 人は動かじ」と呪文のように唱えながら遂行した結果、6年の歳月をかけて良好なパートナーシップを築かれたとか。

女性向けまとめサイトの「彼氏と会えない時こそ自分磨きでイイ女☆」「男性が結婚を考える女性の特徴まとめ」的な「芸人の妻と同レベルに頑張れ」的なプロ彼女・プロ嫁指南鼻ほじりながら「無理だわー」で以上終了の生臭坊主なわたしでも、マネジメントのプロのリアルな語り口に、思わず姿勢を正してしまう。

過去、無駄に破局を繰り返した当時のわたしにこの発想があれば…!一見付き合っていながら実は自己肯定の低い片想いで都合の良い女になり下がったり、損切りしてるつもりの見下し女にならなかったのではと省みてしまう。

 

【男を育てられる女とは?~こじらせ女・痛い女~】

男性についてばかり書いてしまったけれど、わたしがこの本記事で言及したいのは上記のように「育てることのできる女になる技術」についてである。男性が子どもだなんだといつまでも口にするのは、「自分の幸せを他人(男性)マター」にしていることにほかならない。

第4章(P.171)に、『自分を幸せにする技術』として、以下の5つのトピックスが記載されている。

こじらせ女子の末路/「女を不幸にする思考」5パターン/薄情女の言い訳/「痛い女」になってしまう魔の瞬間/アラサ―の選択「大人の女道」

『こじらせ女子の末路』については下記のブログ記事がベースになっており、この記事は昨年秋に、わたしが最も心をえぐられた文章である。

ninoya.co.jp

私の友人達(アラフォー以降)は、女性特有のめんどくささが無い。
決断が早くロジカルで、悩みがあっても自分自身で整理することが得意な人が比較的多い。
皆、例えストレスが溜まっても、「ガハハハ!と笑いながら山賊みたいに酒を浴びて終了。」というタイプなのだが、年下の友人達、特に恋愛相談に来る若いお嬢さん方は真逆。彼女達は大抵「こじらせ女子」だ。

可愛くてスタイルも良く、学歴も高いし仕事もデキる。そんな非の打ちどころのないお嬢さんにいったい何のお悩みが?と思い話を聞いていると、途中から雲行きはバンバン怪しくなり、彼女達の奇行の数々が露わになってくる。その度に、

「うわ!めんどくさっ!」

と、私は彼氏、もしくはデートのお相手男性の代わりに心の中でシャウトしている。…(中略)…もし、私が男性だったら、「自己受容できている女性」ではなく「こじらせ女子」に嵌ってしまう気がする。(面倒な思考を持たない「山賊」はきっと論外だ。)
ま、今生私に好かれても何のメリットも無いし、「こじらせ」は、恋愛、結婚市場においてはデメリットばかりなので早々に卒業をお奨めし、卒業できる方法をアドバイスさせていただいている。

何故なら「こじらせ女子」は長く患うと完治しない病だから。
若いうちに自覚し、思考パターン+行動パターンを改めないと、「こじらせおばさん」「こじらせお婆さん」と、健やかに成長を遂げてしまうからである。その生き証人が私の母だ。

…(前略)でも、それでも、結婚も出産も育児も、母を「こじらせ地獄」からは脱却させなかった。
その後、新興宗教めぐりを何年もやっていたが、どの教祖様も、どの教えも、母を助けてはくれなかった。色々と時すでに遅かったのだと思う。

 

えぐられた理由は2つ。記事中で語られた川崎さんのお母様についての描写に、自身の母の姿を見たから。わたし自身が20数年、目の当たりにしてきた、「こじらせてしまった女性」が孤独を極めていくさまそのものだった。

そしてもうひとつは、わたし自身に流れるその血脈が年々色濃いものになっているという、うっすらとした自覚が確信として突きつけられたからだ。

低い自己肯定感と高いプライド、せき止めようにもダダ漏れる支配的で独善的な性格。頼まれもしないのに、強がりと自虐で塗り固めた鎧を纏う一方で、心の内戦・少女性を垣間見せるという救われたがりの幼稚さ。

そんな自分を自覚することで、他人からの批評を遠ざけようとする卑怯さ。

自身の色んな言動が身につまされ、過去のうまくいかなかった恋愛たちを思い出した。

わたしはいつの間に、こんな風に「痛い自我」が固まってしまったのだろうか。自らの行く末を思い、ブログを読んだスマホ片手に、うなだれ途方にくれたことを思い出す。

 

【痛い女は「対岸の彼女」ではなかった】

「痛い女」といえば、川崎さんの過去のブログ記事にこんな記事がある。

bokurasha.hatenablog.com

現代女性は多様な生き方を選べる訳だが、その選択を迫られる時期が結構早いという事、そして、個人の社会的能力に関係なく、選択によっては人生がドラスティックに変わっていく事、などが男性とは未だ決定的に違う。自分の選択を信じ、捨てた他の道を振り返らず、果敢に生きていけたらそれは幸せな事だ。しかし現実は、自分が捨てた他の道を幸せに生きている女性達の姿ばかりが目につく。
特に、選択した道が上手く行かなくなったり、体調がすぐれなかったり、孤独にさいなまれたり、そんな「魔の時」に、ある女達は「痛い女」に変貌を遂げる。痛い女の何が悪いと、思う人もいるだろう。でも、周囲に迷惑をかけるだけじゃなく、その「痛み」は本人に何十倍にもなって帰ってくる。そして、痛い女は更に孤立し、もっと痛い結末へと自分を導いていくのだ。

「痛い女」の「痛い」は「痛々しい」が由来のはずだが、わたしはいつしか「イタイ=恥ずかしい」と捉えていたように思う。

しかしこの文章を読み返し、本来「痛い女」は「痛み」なのだと思い出した。「恥ずかしさ」のように開き直りで何とかできるものではないことを。そしてある人の痛み(傷み)をその身近な人が悼む辛さは、尋常ではないことも。

「大切な人の痛みこそ、愛せばいい」そう口にするのは簡単だが、他人の痛みを他人が愛し続けることが出来るのは、当人が自身のことを受け入れ、痛めつけない方向を向いている時だけだ。当人がそこに本質的に目を向けず、他責にし恨む中で、他人の愛は効力を持たない。

だからよく「まず自分を愛せない人は他人からも愛されない」と言われるのだろう。『愛は技術』の根底には、その根本にある女性の「自己肯定感」についての思想が流れている(「母親の呪縛~自己肯定できない女たち」P.214)。

【「ありのまま」じゃ幸せになれない?!】

しかし「自己肯定感を持ち幸せに生きる」こと=必ずしもすべてありのまま生きていけることでは、無い。川崎さんを良い意味で「甘え」がないと評したのはこういうところでお茶を濁さない、甘やかさないからだ。

むしろ幸せに生きるためには、コントロールしなければならないことの方が多い。内からせりあがってくる苦しみや辛さをありのまま発露することではないし、身に降りかかる辛苦をいたずらに我慢したりするのではなく「正しくコントロールする」ことを要される。

特に「キャリア系」と括られるような女性(自分自身への戒めを含めてだが)は、一見正しくコントロール出来そうで必ずしもそうではない。

我慢してはならないところで無駄に持ち前のガッツを見せ、コントロールすべきところで何故か独善的な甘えが露呈したり、ぷっつり糸が切れるところがある。

当人の気質が劣っているのはなく、人よりも理想と根性を持つ特性と、普段厳しく甘えられない環境に身を置いているという結果の裏面なのだけれど。

恋愛・結婚においても、キャリア系女性がダメんずの事故物件を引き受ける、イイトシした男の母親代わりになりがちとされるが、「じゃあどんな男を育てたらいいの?!」の答えもきちんと『愛は技術』では語られているのが、キャリア女性を幾多フォローしてきた川崎さんならではだと思う。

(第2章『愛しい男を育てる技術』「男をだめにするキャリア女性たち」)

【大人には「大人の女道」】

第4章『アラサ―の選択「大人の女道』にこんな記述がある。

一歳でも若く居たいという女性自意識から逆行するかもしれませんが、ライフステージに何かとリミットがある女性側が、とっとと腹を括って大人化した方が圧倒的に合理的なのです。
「大人の女道」とは、結局の所「女のダンディズム」なんですよ。
私達が履くハイヒールというものは、歩きづらいし、足も腰も痛くなるし、決して楽な代物ではありません。それでも、私達は「綺麗に見えるから」履く訳です。
それと同じように、大人の女達は、たくさんの問題や葛藤を抱えながらも情緒を安定させ、慌てず騒がず、無駄な時間や人間関係に魂を奪われず、自分の美学を持って生きておるのです。我慢の先の艶、なのです。(『愛は技術』P.200)

この記事のベースとなった下記リンクのブログ記事では、このままだと女子妖怪?!普通のおばさん行き?「「大人の女」チェックリスト19」が記載されてる。

ninoya.co.jp

 半年前に上記のブログ記事を拝読し、指折り数えながらチェックリストを読み進めた際に、金麦のCMにいらいらしてしまう(当てはまっていた)わたしは「ですよね・・・」とうなだれつつも(うなだれてばっかだな)、「選ばれる客体からの脱却を目指し、愛され女子HOW TOをむりやりマネしようとすることと、大人の女になるための痩せガマンは根本的に何が違うのだろう?」という疑問と窮屈さを感じたことも本音である。

その疑問は今回『愛は技術』を読んで腹落ちした。人間にとっての幸せは、究極「人に愛されること」であり、その手綱を握る主体が誰であるかが重要だと理解したからだ。

誰もが「幸せになりたい」と思う。しかしどれだけの人が「自分の幸せ」に対して腹を括れているだろうか?

川崎さんは本著で「自分の人生を他人マターにするな」(=だから「白馬に乗った理想通りの男性を待つのではなく、愛する技術を身に付け、愛する人・自分自身を育む」ことや、そのためのキャリアアップが必要)という主張を一貫してされている。 

人は一時の感情やドーパミンなどの脳内ホルモンに翻弄され、時として「不幸せ方面」に流されやすい

しかし選択肢と迷いの多い女人生の岐路に居ても、自分自身の手綱をしっかりと握りしめていれば、例え一度や二度方向を間違えたとしても、必ず幸せになれる。そして道に迷うことを、手綱をゆるめる理由にしてはいけない。本著を読んでいるとそんな気がしてくる。

 

あとがきにこんな一文がある。

「「何度失敗しても大丈夫。幸せになれるよ。だって女だし!」というメッセージをひとりでも多くの女性たちに届けられるように、私自身も失敗を恐れずチャレンジし続け、これからも「女の生き様」を刻み続けたいと思っております。」(『愛は技術』P.247)  

ロールモデルが周りに居ない」「あの人みたいになりたくない」ということを口にする女性ほど、自分以外の女性の生き方をよく見ているように思う(反対によく見ていない人ほど、「憧れ」という言葉を誰にでも簡単に口にしている気がする)。

自分にも他人にもシビアで裏も表もよく見えるからこそ、そう思うのだろう。

 どんな人も、キラキラしている時もあればしていない時もある。美しさもあれば醜さも併せ持つ。

女性たちがそんな自分たちの生き様を、女性同士で出し惜しみなく見せ合い、経験を言葉にし、本音で語り合う。そんな女性たちのカッコ良さにシビれ、刺激を受け、自分で愛を育んでいく。周りに人が集まってくる。それだけで孤独な「痛い女」にはなりきれない。

孤独になっても、なんの良いことも無いから。

 

裏も表もあって当たり前。女の業が深くても、愛する技術は身を助く。

自分自身の手綱を引いて、時にすべてを受け入れ、ハイヒールを履く。

いつの間にか「女子」ではなくなっていたアラサ―世代。歳下から見れば「アラサ―になりたくない」で、上から見たら「中途半端」で。

だけど、「大人の女の人生」を歩みはじめるのも悪くないな、そう思わせてくれる一冊です。

 

アラサーOL徒然日誌

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早朝に目をさまし、二度寝したら仕事でやらかす夢をみた。よくない夢のせいで、低血圧の身体がいっそう重い。

ふらふらと起きて、代謝を上げるために白湯を飲むべく、机上のティファールにらみつけ、携帯で時間を確かめる。毎朝まいあさ、湯も沸かせない時間まで起きれない自分がうらめしい。枕元の飲みかけのペットボトルに手を伸ばしてなんとか目を覚ます。

タンスの引き出しを開け、ねじれた黒いかたまりの中から、生地をつまんで確かめ、ひとつ選ぶ。裏起毛のタイツは、数年以上前から市場に出回っていたのだろうか。

涙袋製造シャドウや国籍不明のカラコン、矯正下着。しかるべき世代のアンテナにしかヒットしない「奥の手商品」というものがある。

一昨年までは、80デニールのタイツにも抵抗があった。加齢とは、媚びや気まずさに開き直りが勝つことなのか。いま手にしている裏起毛のタイツは150デニール、50デニールの実に3倍。開き直った後の加速は誰にも止められない。

電車待ちの間、駅の自販機でホットのお茶を買い、カイロ代わりにするのが日課だ。乗りこんだ電車では、目の前のシートに座る8人中7人がスマホを見ていた。これじゃ交通広告も商売あがったりだわなと週刊誌の中吊りを見やると、かつてはよくCMで見かけたタレントが袋とじになっていた。あっという間だったな…。手のひらの中の液体はもうぬるくなっていた。 

 

始業時間、気配を消してデスクに滑り込む。
昨日の自分が残タスクを殴り書きしたポストイットが解読できずに、ひそかに2秒停止する。昨日のわたしがうらめしい。

時計はいつの間にかもう14時を回っていて、取りそびれたランチをコンビニで調達しようと財布を持ってフロアを出た。なかなか来ないエレベーターを待っている間、2年半前に別れた元彼の結婚がふと頭をよぎる。

エレベーターがやっと来るも、混みあっていたので、見送る。こういう時は無理やり乗ってもわざわざ止まらせたくせに見送っても、どちらにしろ気まずい。

目の前に来たタイミングで乗らないと、またしばらく待たなければならないのはなにごとも同じだ。そして乗り過ごせば乗り過ごすほど、気長に待ちさえすれば、いつか乗れるだろうと思うようになる。


先週末ある会で「女性の生き方指南」のような本を何冊も出している著名人に、「あなたは頭でいろいろ考えすぎなのよ。」と言われたことを思い出す。

目の前に座っていたわたしより2つほど上の、髪をきれいにアッシュに染めた主婦が言った。「プライドが高いんですかねー。」「そうね、ごちゃごちゃ理屈並べて、足がすくんでんのよ。」

 

ショーケースに並んだ炭酸水に手を伸ばす。きっと今日も帰りは遅くなる。

 

すこし前、大学時代の後輩が「恋愛と結婚は別ものとわかってるけど、結婚向きの人を好きになれない。」とこぼした。

すると既婚者の先輩が「結婚に夢見すぎじゃないの」と言った。後輩は一瞬表情をこわばらせた。

みんな、自分の生き方を肯定したい。自分の生き方を肯定しようとして、ほかのだれかの芽を意識的・無意識的につもうとしてしまう。ぺしゃんこにしてしまう。

 

店内を回遊するも、目ぼしい商品がはけてしまったランチ後のこの時間に特段惹かれるものもなく、ブロッコリーとタコのサラダに手を伸ばす。アンチョビで和えたら、どんな組み合わせもなんとかなるのだろう。何が「マリアージュ」になるのかなんて、食べてみなければわからない。それはそうなのだけど。

 

フロアに戻りメールを起動すると、同期の退職報告のメールが届いていた。女はいつも迷っているようで、腹を決めてからは周りがついていけないほど行動が早い。同期間でお互いの近況報告が続くが、わたしの近況・・・はなんだろう。返信を打つ手が止まったまま、メールを閉じる。

夕方から夜まで、後輩から立て続けに仕事の相談を受けた。独善的で説教臭くて高圧的。そういう自分をさいきんよく見かける気がする。

 

昔、同性の先輩がイラついている時「あぁはなりたくないよね」と言ってる子がいた。「だって怖いじゃん。」その一言が頭をよぎる。

「怖い。」「疲れてるね。」という言葉ほど、働く女を傷つける言葉はないと思う。

そんな自分が嫌で、でも止められない。誰か止めてと思う一方で、誰にも気づかれないで欲しいと願う。

頑張りすぎる、マジメすぎる、主観や正義感が強すぎる。女が仕事に躓く時、実は「足りない」なんてことは少なくて、なんでも「すぎる」時が多い。 「女」というより、わたしの場合か。上手にやってる人も居る。あの頃の自分の視線が痛い。

春雨スープとお菓子を夕飯代わりにして、やっとひとり落ち着いてもくもくと仕事を片付ける。今日も、明日の自分にポストイットに希望を託す。こうやって社会の債務は先送りされているのだ。

これにて本日閉店、失礼します。

ビールが飲みたいけど、今日は昼間の炭酸水の残りでがまんする。

 

ツンとする夜の冷たさ。通り過ぎる、28の冬。

寄り道したコンビニで、今朝中吊り広告に載っていた、袋とじの見出しを見つける。
ほとんど見かけなくなっていた彼女は、この数年どんな日々を過ごしていたのだろう。

年中真夏な男性週刊誌の表紙と比べて、女性ファッション誌の踊るような季節感。

可愛いけれどどこか垢抜けなくてどちらかというと男性受けの強かった印象の石原さとみが、こんなに複数の女性誌の表紙を飾るなんて、時代はわからないなぁと思いつつパラパラめくる。

「女の人はやっぱり恋をしていなきゃ。」芸能人が女性誌のインタビューでそう答えるのは、業界ルールのひとつかなにかなのだろうか。

 

そういえばあのアッシュの髪色の主婦は、今でも旦那に恋してときめいてると言っていた。自分から猛アタックして付き合い、結婚出産に至ったそうだ。結婚後も、はたして恋をするものなのだろうかと気になって、婦人公論の表紙を見ると、今月の特集は『大人の恋 運命の引き寄せ方』だった。

やはり、先のことはわからない。

 

それより、石原さとみも美容と健康のために白湯を常飲していることを知った。やっぱり白湯なのだ。明日の朝こそ白湯を飲んでやると、ひとり決意を固め、帰宅する。

帰宅後風呂を沸かし、あたたかい湯船に顔をうずめる。きょう一日の自分の言動を振り返る。

 

 「あなた傷ついたって言うけど、私の方がもっと傷ついてるんだからね。」

 

あの作家の女性がその後に続けようとした言葉が、「だから人生にもっと飛び込め」なのか「だからつべこべわかったようなことを言うな」なのかはわからない。だけど、こうやって自己憐憫にまみれるくらいなら、頭でっかちで足がすくむくらいなら、飛び込んでいった方がいいのだろう。

 

・・・さっき雑誌で見た、石原さとみが履いていたようなシフォンスカートの鮮やかさが浮かんだ。 春には、肩の凝らないGジャンに、春色のスカートを合わせて出かけたい。

 

女の季節は、巡り続ける。 

 

去年よりひとつ歳を重ねたわたしにも、春はもうすぐやってくる。

 

 

「快」に生きる。

友人の小野美由紀ちゃん@MiUKi_None(https://twitter.com/MiUKi_None)が、この度処女作となるエッセイ集を出版した。

 

傷口から人生。 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった (幻冬舎文庫)
傷口から人生。 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった (幻冬舎文庫)

 

  • 作者: 小野美由紀
  • 発売日: 2015/02/10
  • メディア: 文庫

内容はこれからゆっくり読ませていただくので、読後感想はしたためられないのだけど、彼女が処女作の発売に寄せたブログ記事誰かを恨んだり、不幸を人のせいにしないためには、好きなように生きるしかない。ー「傷口から人生。」発売によせて | None.がとても素晴らしかったので、久々にブログを書こうと思った次第。

わたしの独断で、刺さりまくった箇所を勝手に抜粋させていただきます。

 

この本を通して私が書きたかったのは、「他人や社会を恨まないためにも、自分の好きに生きたほうがいいよ」という事だ。
「あなたがもし、自分のことを「イケてない」と感じているならば、それは他人や社会を恨んでいるからだ」という事を突きつけたくて、この本を書いた。
「他人を許さないと幸せになれないよ」とか「親を愛さないと自分も愛せないよ」とか言うことは、「親なんて許さなくていいんですよ!!」と激怒することと、正反対に見えて全く一緒だと思う。
人生の中の、「誰かのせいで好きに生きれないなあ、しんどいなあ」という部分を解決しようとフォーカスするのではなく、「自分の好きに生きる」領域を、少しずつ、押し広げてゆくことが有効なんじゃないかと思う。“どうにもならない今の時点”の中で、「自分の好きな事、快適にいられること」を押し広げてゆく。本当に、1ミリ1ミリでいいから。
だから、今、何かが上手くいかなくて、苦しかったりもやもやしたり、自責感に苛まれている人は、安心してほしい。無理に、元気を出す必要もない。もやもやした人生を、ただ、快なるままに過ごすだけでいいと思う。誰にどう思われるか、他人に迷惑をかけていないか、社会的にどうかなど気にせずに、ただ、すこしずつ、一個一個の不快のスイッチを、快に切り替える作業に淡々と励めばいいと思う。そうしているうちに、人生が自分をどこかに運んでくれる、ということがある。

以下、(美由紀ちゃんの意図と相違があったら申し訳ないのだけど)自分の感じたことを書きます。


わたしは美由紀ちゃんのこの文章を読んだ時、「(自由な)大人の生き方とはこのことだなぁ」と思った。


というのも、幼少期・思春期に「子どもは居場所を選べないから不自由だなぁ」というようなことを考えていたわたしは、どこかで「大人になる=年々自由になること」だと置いていた。 


なのにここ数年、自分に対して、そして他人に対して、不自由を強いていることをうっすら自覚していたのである。


過去の手痛い失敗を恐れ、臆病になった。

過ちを繰り返さないように、手遅れにならないように、要因や傾向を言語化したはいいものの、頭でっかちで理屈っぽく抑圧的になってしまった。

そしてそんな自分を肯定したいあまり、他人にも威圧的になっていった。

さらにそれが回り回って、いつしか社会にうっすら怒り、妬んでいたのではないかと思う。


例えば、「早く結婚しないと売れ残っちゃうよ」「子どもは早く産まないと後悔するよ」と焦らす世間。

そんな「世間」に憤慨しつつ、自由に生きる歳上の人を横目に「ここまで貫く勇気はない」「手遅れになるのが怖い」と、自分は未だセーフゾーンに居るのだと慰めていた。

所詮若さと勢いだけで生きてきたのだろうか。

「無知故の自信と意志」というコンパスをなくし、道に迷うスカスカになったスポンジは、そんな幾多の情報を摂取して、あっという間に情報デブ、チキンな耳年増になった。

「誰も彼も転ばぬ先の杖話ばかりでうんざりだ!」と辟易する一方で、実際には誰よりも不安を感じていたし、自由に振る舞う人たちのこともそれはそれで妬んでいたように思う。

自分の人生を生きやすくする「経験」や「知識」という杖を得たつもりが、その杖に引きずられるように振り回されていた。

選んだものに腹を括ることを考えず、「何を選ぶべきか」ばかり迷っていた。



 

 

そんな「自分自身への抑圧」を考える際に、わたしは自分の母のことを思わずにはいられない。

 


母の狂気 - アラサーOLクソ日誌。

 

わたしの母は、幼少期から学校や親を恨み「わたしは辛いことがあってもひとりで耐えてきた」「やりたいことはたくさんあったけど、そのせいで出来なかったの」が口癖だった。


ここ数年歳を重ねるごとに、そんな母とカオが似てくることに気づく。


自己謙遜する時の卑屈な笑顔、批判された時の憤り方。

ハタから眺める自分は、母とよく似ていて、低い自己肯定と高いプライドがこじれた、泣き顔とドヤ顔が混じったような、行き場をなくした表情をしている。

母と同じ縄が、わたしにもかかっていたことに気付く。母がかけた縄もあるけれど、わたし自身がかけたものもある。


その縄をほどこうと必死になればなるほど、縄は固く結ばれ、わたしは途方にくれた。


しかし、美由紀ちゃんの記事を読んで、わたしがするべきことは躍起になって縄をほどこうとすることではないんだ、と思った。


母が少しでも快く生きることが、結果子どもに大きな影響を与えるように、自分が心地よく生きることが、自身自身を育む。


わたしが最も記憶に焼き付いている母の姿は、母が父と離婚後、欺瞞や抑圧から解放され自由に過ごしていた頃だ。


母が外に働きに出たのはその時期で、一緒に過ごした時間が最も少ない時期のはずなのに、その頃の母が一番美しく印象深く残っている。

母がのびのびと快く生きている、それだけで心が軽くなり、前向きになれた。


自分の母親の話ばかりしてしまったけれど、このことは親子関係だけでなく、自分自身との関係、夫婦や恋人、職場での関係も当てはまる気がしている。


自分に正論を強いること、我慢すること、理解したフリをすること、大人ぶること、諦めること。

その負荷は他人へのそれとつながる。


自分に課しているその重いバーベルの重量は、必ず他者にとっても重しになっている。


美由紀ちゃんの書いているように、「自分の好きなこと、快適にいられることを1ミリずつでもいいから押しひろげ」、「快」のスイッチに切り替えていけば、その縄は少しずつゆるゆるとほどけるかもしれない。


息継ぎなしのクロールや不自然なバタフライを続けなくても、ゆるい平泳ぎをするように、ここちよい方を見つめ、一見流されるようにゆるゆると泳いでいけばいいのかもしれない。

 

通勤電車の中で彼女の記事を読みつつふと窓に目をやると、窓に映る自分が去年より少しだけ老けた気がした。



「自分がより自分らしく居れる」という愛

常々公言していることだが、わたしは結婚式が苦手である。長時間の着席に凝り性末期の身体が耐えられない。さらに自意識過剰なゆえにその演出にこちらまでとても恥ずかしくなってしまうのだ。家族で観る恋愛ドラマみたいなものである。

唯一「ご両親へのお手紙朗読」コーナーは安心して顔を上げて拝聴出来るが、まともに内容を覚えていないような我々が拝聴する必要はなく、親子親族間でめっこり振り返りをしてもらえば済む話だとも思っている。

だいたい、結婚する時は「日頃の感謝を云々」「未熟な私どもに今後もご指導ご鞭撻を」と言っておきながら、離婚時には「二人で決めたことなので」と言うのはなんなのだろうか。だったらハナから他人を巻き込まず、二人きりで始めてほしいものである。
・・・と、もうここまで読んでいただいた時点で、読んでくださった方の半数強に軽蔑されてる気がする。 

だがしかし昨日は、大学時代に愛した後輩のひとりが結婚するというので、迷いに迷って断ることが出来ず、人生で数回目の披露宴に馳せ参じた次第である。 結果、柄にもなく、目頭が熱くなってしまった。

何故かと言えば、5,6年ぶりに再会した後輩である新婦が、彼女が私と出会った18歳の頃のまま、いやそれ以上に無邪気に愛されていることが伝わったからである。 

彼女とは大学のサークルの先輩・後輩として出会った。私の所属するサークルの新入生歓迎コンパに、天然記念物と見まがう天真爛漫さで乗り込んできた九州女子だった。

コンパ会場の居酒屋で他の新入生女子が当たり障りなく先輩たちと盛り上がってる中、何故か居酒屋の畳で突然スライディングをかまし始めた彼女。だいぶ昔に言われた「痩せたら香里奈に似てる」という冗談を間に受け、18時以降は麦茶しか飲まないダイエットを実践していた彼女。

そんな彼女を「逸材だ」と思い「キミはいいね!」と口説きまくった。

他の新入生コンパで浮いていたのかもしれない(多分浮いてたと思う)彼女は、その時目をうるうるさせながら懐いてくれた。そんな無邪気すぎるほど無邪気で、明るくて正直でそしてなによりひとに対し惜しみなく心を尽くす子だった。

そしてそれゆえに誤解されたり、傷つくことも数多くあっただろう。わたしはそんな彼女を自分がかけられるすべての言葉を尽くして、肯定したいと思った。 それは彼女の明るさと無邪気さに、当時の自分が誰より救われていたからである。

そんな彼女と彼女の旦那になった彼の馴れ初めは、エピソードによると新卒の入社同期とのこと。急接近のきっかけは、新婦が誕生日に近所の居酒屋でひとりで飲んでいた(泣ける)ところに、偶然今までまともに会話したことのなかった新郎が同期友人と同じ店に訪れ、彼女は今日はわたしの誕生日だと彼らを巻き込んだらしい。このエピソードもなんだかとことん、彼女らしい。 

彼女を愛しそうに見つめる新郎に嬉しくなり、写真撮影の際に「いい人に出会ったんだね」と声をかけると、彼女は「こんなわたしを好きになってくれた人が居ました~!!」と目をうるうるさせながら言った。

そんなの、当たり前じゃんか(号泣)。

一部始終、あんなにニコニコ心から無邪気に笑ったり、感情のままに涙したり、時に目の前の食事に食い意地を見せる自由な花嫁を初めて見た。

そんな様子を見ながら、私はこの記事のことを思った。

「愛とは、誰かのおかげで自分を愛せるようになること」 芥川賞作家・平野啓一郎氏が説く"自己愛"の正体 | ログミー[o_O]

「愛とは誰かのことを好きになることだ」。この定義自体はもちろん間違っていませんが、今僕が付け加えたいのは、愛とはむしろ「他者のおかげで自分を愛することができるようになることだ」と、そういうふうに考えてみたいと思います。

あの人の前でなら自分は思いっきりリラックスして、素直になれて、いろんなことをさらけ出せる。他の人の前では決してできない。

不幸にして、人間の関係には終わりが来ることがあります。喧嘩別れしてしまうこともあれば、死別してしまうこともあるかもしれません。誰かを失ってしまう悲しみはもちろん、その人の声が聞けない、その人と抱擁できない、いろいろなことがあると思いますが、もう一方で、「その人の前でだけ生きられていた自分を、もう生きることができない」という寂しさがあるのではないでしょうか。

あんなに自由にいろんなことをしゃべれたのはあの人の前だけだった。あんなに素直になれたのはあの人の前だけだった。あんなに馬鹿なことをしてあんなにくだらないことをできたのはあの人の前だけだった。

その人がいなくなってしまって、自分はもう、好きだった自分を生きることができない。それが別れの悲しみなんじゃないでしょうか。

ももちろん真なんです。僕は誰かから「あなたのことを愛してます」と言われれば、有頂天になりますね。「やったー!」と。しかし、誰かから「あなたのおかげで自分のことを好きになれた」と告白されたなら、あるいは「他の誰といる時よりもあなたといる時の自分が好き」と告白されたなら、それはなにかもっと胸に迫ってくるものがある気がします。

自分の存在がそんなふうに他者の存在を肯定させているんだということには、なにか感動的な喜びがあります。人間はそんなふうに、好きな自分っていうのを一つ見つけるごとに、生きていくための足場というのができていくんでしょう。

私が今回何よりも嬉しかったのは、彼女が歳を重ねても、精神的に不自由になることなく、むしろ新郎から愛されることにより、さらに自由に彼女らしくなっていることだ。

そして式の間も、「自分を貫いて」「自分らしく!」と、至る場所でメッセージしていた彼女。それは彼女自身の半生の試行錯誤や葛藤が紡ぎ出した答えなのだろう。

その答えを強固な足場の一つとして、これからも夫婦を超え、家族を超え、世の中の多くの人に、その底抜けに明るい笑顔をたくさんの人に見せてほしいと願ってしまう。 

 

老若男女、お金や権力の有無、外見や立場や才能にかかわらず「どんな人からも受け入れられ、愛される人」なんてどこにも居ない。

みんな心のどこかで拒まれることを恐れ、受け入れられることを願っている。

そのうえでさらに「居心地の良い自分」「自分のことが好きな自分」で居させてくれる人は、ほんの一握りだ。

だからこそ、愛とは特別で、人を自由にするものなのだと思う。

ありのままの自分で愛し愛される関係を築いたことで心から自由になった彼女。

 

このうえないほど、本当に美しく、晴れやかで伸びやかな花嫁だった。

 

紅葉、あと何度。

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週末、京都に紅葉を観に行った。
 
行く先々紅葉はとうにピークを過ぎていて、かろうじて残る葉を愛でる程度だったが、良い旅だった。
 
 
 
京都に行くと、両親の学生時代に思いを馳せてしまう。
それがわたしが唯一知っている二人についての話だからだ。
 
 
僅かに残る、紅々と色づいた葉を眺めながら、三十年前の二人を思う。
 
 
周囲に分かり合える人が居なかった同郷の二人が、それぞれ大学進学時に片田舎を脱出するかのように下宿先を京都に選び、そこで出会った。
 
 
本を読み、意見を交わすことを何よりも好んだ母は、大学院で哲学を専攻していた父と話すことが楽しくて仕方がなかったらしい。
友人を持たない母が、楽しく話が出来る唯一の相手だったそうだ。
 
 
その後、父が家庭の事情で希望していた研究者の道に進めなかったこと、子どもが産まれた後の互いへの失望や誤解の数々を経て、二人の仲は修復不可能なまでに拗れた。
 
 
最期まで顔を合わせることなく、分かり合えない二人だった。
 
父が亡くなってからも、母はたまに思い出したように愚痴をこぼすだけで、父の話を滅多にしなかった。
 
 
そんな母が、この間ふと漏らした。
 
 
「パパは旦那や父親としては好きになれなかったけど、価値観は合ったし人間的には面白い人だったから、最近本を読むとお父さんに話しかけるの」と。
 
 
「死が二人をあの頃に戻したのね…」と一瞬思ったけれど、自分の都合の良さを棚に上げて、他人の軽薄さと大げさを嫌がる父母なので、「マジか。」とだけ呟いた。
 
 
特に父は世間の軽薄さを忌み嫌っており、わたしが中学生の頃によく、TVで「天国へのメッセージ」なんかを読み上げる番組を観ていると、「死んだ後に、伝えられることなど何もない。生きている者の気休めと傲慢だ。」と毒づき、茶の間を白けさせた。
 
そしてその二年後に、亡くなった。
 
 
 
カップルが並ぶ鴨川を横目で見ながら、ふと「しかし心の中は自由だ」と思った。
 
 死んだ人を生きてるかのように想うことも、別れた人と再会したかのように話しかけることも出来る。
失った人に、懐かしさや愛しさを感じることも出来る。
 
そこに何を見い出そうとも、他人が口を出すことは野暮というものである。
 
 
だけども、あの鴨川沿いに仲睦まじく並ぶカップルたちのように、互いの気持ちを伝えあうことは、もう出来ない。
わたしにとっての「死」や「別離」の残酷さはそれだ。
 
はらりと朽ちた葉が、流されていった。
 
 
四十九歳の若さで亡くなった父は、母と四度、京都の紅葉を眺めた。
 
 わたしが五十まで生きた場合、紅葉を楽しむことができるのはあと二十二回。
 七十まで生きられたとしても、あと四十回ちょっとである。
 
 
そして母は、恐らくあと十五回ほどだ。
 
 
紅々と色付いた、数少ないもみじの葉を見つめながら、母のことを思った。
 
 
 
 

「幸せの要件定義」

最近お悩み相談的なやり取りさせて頂くことがあるのだが、みんなとても頭の回転が早く、美しい人ばかりだ。

 

言葉選びや気遣いから垣間見える、その思慮深さを目の当たりにするにつけ、今までの人生、たくさんのことを考えてきたんだなぁ…

というよりも、考えざるを得ない状況を乗り越えてきたんだろうなぁと、(馴れ馴れしくて申し訳ないけれども)、愛おしさを感じ、涙ぐむ。

 

 何の役に立てるわけでもないのだけど、そういった思いに駆られてしまう。 

 

それは彼女たちの言葉の節々に、自分自身と同じように、自己肯定感の低さ・がんじがらめになった高いプライドを感じるからだ。

そしてその向こうに「救われたい」気持ちが垣間見えるように思うのは、自意識過剰だろうか。

思慮深いからこそ、あからさまに甘えたりできなくて、それが「(特定の異性に)救われたい病」「(ありのまま)報われたい病」になってそれがダダ漏れているように感じる。 

わたしはここ最近、そんな生きづらさを抱えたわたしと彼女たちが「生きやすくなる」出口はあるのかと思案していた。

 

そのきっかけになったのが、敬愛する川崎貴子さんの以下のブログ記事である。

こじらせ女子の末路 | @ninoya_blog


<以下一部抜粋>

私の友人達(アラフォー以降)は、女性特有のめんどくささが無い。
決断が早くロジカルで、悩みがあっても自分自身で整理することが得意な人が比較的多い。皆、例えストレスが溜まっても、「ガハハハ!と笑いながら山賊みたいに酒を浴びて終了。」というタイプなのだが、年下の友人達、特に恋愛相談に来る若いお嬢さん方は真逆。彼女達は大抵「こじらせ女子」だ。

可愛くてスタイルも良く、学歴も高いし仕事もデキる。そんな非の打ちどころのないお嬢さんにいったい何のお悩みが?と思い話を聞いていると、途中から雲行きはバンバン怪しくなり、彼女達の奇行の数々が露わになってくる。その度に、「うわ!めんどくさっ!」と、私は彼氏、もしくはデートのお相手男性の代わりに心の中でシャウトしている。

シャウトしながらも私は、彼女達の事が実はとても好きなのだと自覚している。
…(中略)…ま、今生私に好かれても何のメリットも無いし、「こじらせ」は、恋愛、結婚市場においてはデメリットばかりなので早々に卒業をお奨めし、卒業できる方法をアドバイスさせていただいている。

 

何故なら「こじらせ女子」は長く患うと完治しない病だから。

若いうちに自覚し、思考パターン+行動パターンを改めないと、「こじらせおばさん」「こじらせお婆さん」と、健やかに成長を遂げてしまうからである。

 

この記事には川崎さんのお母様が永遠のこじらせ少女で、その反面教師論が綴られている。

同じように『永遠のメルヘンサイキッカー』の母

母の狂気 - アラサーOLクソ日誌。

を持つわたしとしては、これを拝読した時、突き上げるような痛みと衝撃を感じた。

スマホの画面に夢中になるあまり、はずみでウォシュレットを「最強」にしたからだけではない。

 

「"こじらせ"は、そろそろ概念として一周した感がある」とは友人談だが、「若いうちに自覚し、思考パターン+行動パターンを改める」有効性(年取ってからじゃ遅い)は不変だ。

 

恋愛や結婚に限った話ではなく、長い人生全般に言える話である。

既婚・未婚、彼氏の有無、仕事の有無や職種が「幸せ」を決めるわけじゃ、もちろんない。

だからこそ、「自分の欲しいもの」「抱えなくていいもの」を明確にすることが大事なのである。

 

「幸せになる」ために必要なことはなぜか?

それはまず「幸せの要件定義」をすること、である。

幸せになりたいのに「なれない」のは、

「自分が幸せな状態の要件定義」が出来ておらず、

「(目の前の感情に都度流されるから)目的意識が弱く」、

「正しい努力が出来ていないから」、その一択である。

 


実はそういう女性に足りないのは、日頃「スペックで男選びすぎ」とか「Ca●Cam系にはなれないわ~w」とバカにしているような、いわゆる「ゆるふわ女子」のその「目的意識の強さ」なのだ。

そういう女子たちは「自分が何を欲していて」「何が無いと生きられなくて」をよく知っている。

 

そうなれないのは、キャリア女性にありがちな「選択肢の多さ」が問題ではない。

だったらキャリア女性全員が路頭に迷ってる。

 

問題は「自分が幸せな状態」を素直にイメージできていないことだ。

自分の頭の中にないものを、そりゃ実現できるわけがない。

 

「モテないわけじゃないんです」

「結婚はしたいけど、恋の仕方を忘れた」

「結婚したいのに、する気がない男とズルズル…」

「つまらない結婚ならしたくない」(じゃあ貴女にとって楽しい結婚ってどんなの?)

「専業主婦は嫌だけど、このまま男性化して働くのはちょっと…」

 

 

たとえば、不特定多数の男と寝まくる女が居たとする。

彼女が「世界中のイイ男とヤリたい」という目的意識の下に実行しているとしたら、それは敬意を表すべき目的達成意識もしくはミス・トレジャーハンターだが、「本当は特定の彼氏や旦那に愛されたいのに、寂しさに流されて」だとしたら、その打ち手は「不毛の極み」と言うほかない。

幸せの要件定義、目的意識、そのための正しい打ち手とはそういうことだ。

 

もっというと「要件定義を明確にする」ためには、自分に対して上記のような、あぁだこうだと不要なエクスキューズや、不当な要求をしないことである。

そのためには「今の自分に対して腹を括る」ことだ。

前述の目的意識の強いビッチがもし、「付き合う前に寝たら、本命になれないって言うし…」なんて言い出したら、国会で議員が全会一致で議席からズッコケるくらいのドリフ感である。

永田町に激震が走るとはこのことである(違。

 

そういうタイプが、なぜシンプルに要件定義が出来ないのかと言うと、「自分の感情を抱きしめ過ぎている」からだ。そしてその感情によって、目的意識が流される。

どんな感情も、美しくてもったいなくて抱きしめちゃう。

 それは幼い過去や普段、いろんなことを理解したふりをして自分の感情を抑え付けて来たからかもしれない。

「自分を分かってる」という自己認知があったり、「キミは分かっているね」と他人に言われて、なおさらそこにすがりついて離れられないのかもしれない。

 

不要なプライドや意地は、捨てるのはムリでも、出来るだけうまく散らして付き合って行こう。

自分自身を「救う」ことと、自分にすがりついて生きることは別物だから。

 

自分の幸せを要件定義し、腹括りをし、そして依頼心を抜け出した者だけが、前述のミス・トレジャーハンターになれる。

ビッチにはなりたくなくても、「目的意識を持つ」者だけが、見る者に爽快感すら感じさせるような、「幸せ」を味わえるのだ。

 

 

自分を「許す」ための「憎む」強さ

最近「大人になる」ってことをよく考えるのだけど、世の中で使われる「大人」ってイコール「他人を許せる人」って文脈が多いなぁと思う。
ひどい親も、支配しようとする異性も、自分が「大人」になって許しましょうと。許す対象はいつも「他者」だ。
だけどわたしは、大人とは「自分を許し、そのためにはまず他人を静かに憎む決断も辞さない人」ではないかと最近思う。
 
「他者を本質的に許すには自分を許さなければ」という話はよく言われるものの、じゃあまず自分を許すためには何が必要なのかということはほぼ語られていないように思う。
わたしはその解のひとつとして、「他者を憎みきる」ということが必要な気がしているのだ。
 
 常々、世間では「他者を許すこと」は成熟と受け取られ、「他者を憎む」は、未熟さと受け取られがちである。「他者への憎しみ」が「悪」と捉えられ理由として、「憎しみは連鎖するから」と言われることが多いが、「健全に」憎みきった時、それは本当に連鎖するのだろうか。
むしろ憎みきれずに、自分を責めたり、自己正当化したり、同情や救いを求めようとすると、その渇望感や満たされない時の失望がエスカレートし「恨み」へとつながる可能性だってある。
その意味で人生の大きな苦しみのひとつは、親を憎むことだと思う。それは容易に「憎みきれない」から。

親が開けた心の穴が、その子どもを何かしらの形で生き辛くしている時。心に巣食うその存在に手をかけて殺めようとするけれど、その対象が自分の親そのものであり、そしてそれが既に自分自身になってしまっていることに気付く。こんなにも憎んでいるはずなのに、むしろ憎むべきであるのに、どうしようもなく愛している。すがりついてしまう。その苦しさは、周囲の想像をはるかに超えているのではないか。実際にわたしは親族にそういう思いを抱える人が居るのだが、彼女の苦しみはわたしには一生かけても理解しきれないと思う。

 

他者を「許す」「憎む」ことが出来るのは、ある意味自分以外の誰か、何かのせいに出来てるからだ。だから「他者を許す」なんてことは世の中で言われてる程、特別美しいことでもなんでもなくて、そうすれば生きやすくなるという手段でしかないという考え方は出来ないか。
その意味では「許す」ことも「憎む」こともさほど変わらないように思う。
 
そもそも「憎んでしまう」「憎んでも憎みきれない」「恨んでしまう」と自覚のある人は、本当は他人のせいになんてしてなくて、むしろ自分自身を責め過ぎている場合が多いんじゃないかと思う。だから、もう自分を許して欲しい。そしてそのためには親だってなんだって憎んで欲しいと思う。他者を許すなんて、いつだって良いのだから。
 
他者を許したくなれば許せばいいし、憎みたければ憎みきったらいい。「憎みきる」と言うのは、「許せない自分はダメなんじゃないか」なんて思わず、「どうしたって無理」と総括することである。出来れば口に出して何百回何千回、何万回でも。
憎みきってしまえば、歳月を経て自分の中で昇華されていく。いつか「許せる」時が訪れたら許してもいいし、許さなくてもなんの問題も無い。
 「自分を許そう」ということは、気休めなんかではなく、むしろ大変に難しいことだと思う。
だからこそ人が弱さを抱えつつも負の連鎖を断ち切り、立ち上がろうとする姿は美しく、後に続く同じ思いを抱えた人は何よりも励まされ、救われるのだろう。
 
他者を「許す」ことも「憎む」ことも、自分自身の浄化である。圧倒的に力不足ではあるけれど、わたしはそんな人を全力で肯定したいと思う。