アラサーOLクソ日誌。

整体に家賃の1.5倍ぶっこむ整体ソムリエ兼アラサーOLのクソだけどいとおしい日々を綴った人生日誌です。

女が泣く理由

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 彼女は、悲しいときでもハッピーになる方法を知っていたの。

それって大切じゃない?
She was a girl who knew how to be happy even when she was sad.
And that’s important—you know

 

えぇこと言うなぁ…マリリン。

というわけで今回は「好きな人の前で不用意に泣いたらあかんなぁ」という話です。

 よく「男は女の涙がキライ、面倒」と言われますが、それは何故なのでしょうか。わたしはその理由のひとつとして、男性は女性が泣くと「泣かしてる俺は悪者」に感じて自分を責め、その罪悪感がお手上げ感・面倒くささに繋がるんじゃないかと思っている。

「いつも泣かしてる=この女を俺は幸せに出来ない=この女では俺が幸せになれない」と。

これって、泣いてる本人からしたら「え?あなただから泣けるんです」って思うかもしれないのだけど、泣いた本人よりも泣かれた相手の方が後に残るダメージが大きく、そのダメージは消化されないまま刷り込まれていく。

その時間がショットだろうが長時間だろうが、その長さや頻度は関係なく、相手が「いつも泣かせてる」と感じればもうそれは確定事項となる。「泣く」を「怒る」「笑う」にしても同じことが言える。

 

ひとが近しいひとを嫌(嫌)だと感じる時は、だいたい相手を「面倒」もしくは「卑怯だ」と感じ始める時。そしてひとが一度感じはじめたものを、他人はそう簡単には払拭出来なない。

だからわたしは声を大にして言いたい。 

 「いいから、一瞬でも多く笑っとけ」と。

男性はやっぱり女性の笑顔に癒されるから。「接客中じゃあるまいし、いつも女がニコニコしてなきゃいけないの?」と言いたくなる気持ちもよぉくわかるが、逆に言うと女の人の笑顔の力をみくびっちゃぁいけません。

 

【女が泣く時、そのココロ】

純粋な涙だろうが、計算からの涙だろうが、ウザいもんはウザいので優劣はナシ。 

そんなこたぁ誰もがわかっていて、それでも世の中泣いた泣かれたの話が絶えない理由は大きく2つあって、この二点なのではないかと。

 

①相手に泣いて訴えようとしている、満たされない欲や解決出来ない課題がある

 ②涙を流すことでリラックスホルモンのセロトニンを出したいから

 

そもそも泣いてる女子は、彼の言葉尻を捉えたり、態度を非難して、場当たり的・衝動的に泣いてるようでいて、その根元的な理由・目的って大体いつも一緒なのではないかと思う。

「安心したい」とか「早く結婚して欲しい」とか「自分の優先度が低い」とか「元カノが気になる」とか、不安・焦り・劣等感など、なにかひとつ特定の満たされない思いが根っこにあって、そこから派生してるだけではないだろうか。

だから本人が「どうしてわたしはいつも同じことを…」とか、彼が「コイツまた泣いたよ」とか思うんですけど、それはその根本の課題や思いが満たされてないというそもそもの根っこが解決されてないから。

その解決にはお互いの認識を言葉でをすり合わせることが必要なのだけど、そんな感情発散モードの時に要件すり合わせなんてほとんどの人は出来ない。出来るなら最初から悩んでない。だけど、言葉による認識すり合わせは大事だから心が安定している時にやるべきだと思う。

 そして感情発散モードの時は「理性的に、認識をすり合わせる」ことは無理でも、「この突発的に流してる涙は目的に対し効力がない。むしろマイナス。」と自覚することは大事だと思う。

そう自覚するとなんかもうバカバカしくなって、「泣いてるのもったいねーや」って思えて来ないだろうか。女の人は現実的だから。

目的達成するどころか、予期せぬタイミングで振られたりなんかしたら、泣くに泣けないじゃないか。
なので彼と根本解決したい課題をチラシの裏(古いな)にでも書いて、その横に「泣いても無駄」と大きく書いて壁に貼る(実際家に貼ってあったら別の意味で泣ける)と言うのは冗談だけども、「あ、今日やばいな」と感じたら信頼出来る友達に連絡して諭してもらうようにするとか、自分自身の感情の高ぶりと上手く付き合える環境を作る、とか。

ちなみに友だちは「そういう時は日高屋のカウンターでひとりで餃子とビールでちびちびやりながら美容家・神崎恵の本を読んで心を落ち着ける」って言ってた。すげぇアンビバレンス。でもすごい努力。

 

セロトニンの話をすると、誰もが泣いた後スッキリしたという経験あるんじゃないでしょうか。涙を流すと頭頂部のツボが開きセロトニンが分泌されるので、涙を流すことにはリラックス効果があります。特に疲れたり、緊張状態の後に涙が出やすいのは、脳が「やべぇ、セロトニン出さなきゃ」と思うから。

特に、疲れてたりすると、誰かと会話してても言わなくてもいいこと言ったり、無駄に感情的になりがち。セロトニン欠乏状態でコミュニケーションしてもいいこと何もないので、彼とのデート前には泣ける映画や動画でも観て涙を流してスッキリしておくことをオススメって書いても誰もやらないと思うけれど、忙しい時こそ涙を流してガス抜きするのは健康にいいですよ!

とまぁ、長々と書きましたが、結局ひとと付き合いを続けることって【自分自身との付き合い方を知り、身につけること】なんだと改めて思う。その付き合い方を覚えることが、愛する人と自分を幸せにすることなんだなぁと。

そんなこと、わたしが言わなくてもみんな分かってると思うんだけどね。

『嫁ニモイケズ』

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嫁ニモイケズ

 
妥協モデキズ


友達ノキョリカンモツカメズ


常ニ幸セニナリタイト叫ンデイル


独リ身ニナレバオチツキタイトネガイ


イタライタデ恋ガシタイトノタマウ



キズヲオッテモ全クコリズ


自分ヲカエリミルコトモナク


常ニヒトノ話ヲキカズ


ネタニハシッテイル。


Facebookノ投稿ハリア充ナノニ


「ヨイ報告」ハ未ダニデキズ



SATC臭ヲ醸シダシ


シュールナネタト自虐ヲ肴ニ


爆笑シナガラ酒ヲ飲ム



ソウイウアラサーニ



ワタシハナリタイ。



作:にゃんきちったー@3年前の25歳の誕生日を翌月に控えた晩秋に。



「アラサーは第二の思春期」上等論。

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その悩み多き状態を指して、良くも悪くも(どっちかっていうとネガティブな意味で)「アラサ―は第二の思春期」と呼ぶ人がいるけど、歳くってから思春期を味わえるとか最高じゃないか、と最近思う。

 

世間は「女は30まで」とか「アラサーww」とか無駄に焦らすし、それで焦ったり悩んだりセンチメンタルになると「厨二病乙w」とか「病んでる」とか言われたりもするし。

「お前ら中2どころか近所のいじめっ子のクソガキじゃん」(しかも都議会失言よろしく、いい歳こいたおっさんほどクソガキである)と一蹴出来れば良けれど、ジャイ子OL(おれのことか)だって内心傷ついたりもするさ。

 

世間に何か言われなくても、じゅうぶんプレッシャー感じてたりするのである。

外からも内からも、なんやかやわいてくる、多感な時期である。

 

でもだからこそ、言いたい。

「アラサー思春期こそ、感性を磨くとき。」と。

 

これはどの年齢にも言えることだと思ってるのだけど、

「悩み多き多感なタイミング」こそ、感性を磨ける時。

 

そんな時こそ、思い存分悩み、考え、どんどん人に会い、良き友と語らい、名著や名画に出会い、美味しい酒を飲み、彼や旦那とじゃいけないような店にもこっそり行き舌と腹を肥やし、美しいものをたくさん愛でて、楽しければ朝まで仕事をし、感性を磨けばいいのだ。

 

そのための武器(自立できる経済力、可処分所得、そこそこの会話力、良いものと出会うアンテナや引き出し、働ける体力)は持ってるのだから。

 

さらに言うと、多感な人に向かって「そんなことにいちいち悩んでるなんて無駄だよ」と言う人がいるけれど、だって思春期って悩むものじゃんと思う。

 

「中2病」って割といい言葉だと思っていて、後から考えてみれば&周りからしてみれば、とるに足らないことが気になったり不安で仕方ない病気なんすよ。

 

彼氏が居なかったら「結婚出来ないかも」と焦り、居たら居たで「この人でわたしはいいんだろうか」と悩み、産んでもないのに産んだ後のキャリアに悩み、産んだら産んだでまた悩む。

 

働いてたら働いてたらで「ずっとこのままこの仕事を続けるんだろうか」と悩み、引退したら引退したで焦りや退屈を覚える。

「悩むより行動」したらしたで、新たな悩みが生じる。

 

「悩むと考えるは別物」と言うけれど、ただえさえ不器用な状態になってる人間にそんな器用なこと出来るわけないんすよ。

 

それはその多感な時期を「抜けた人」だから出来ることであって、だったらわかってやれよ(くれよ)と思う。


その「抜けた」感性はその感性で、尊く素晴らしいものだけど。

 

例えば結婚した人は、独身で焦ってた気持ちって忘れちゃうじゃないですか。

なんか相談されても「えーまだ大丈夫だよ~、ゆっくり探せばいいじゃん!」って。

 おいおいあんた、夜な夜なバルでワイングラスの持ち手へし折る勢いで「けぇっこんしたいぃぃぃ!」ってくだまいとったやんけって。アヒージョの海老がふっとぶ勢いでフォークぶっさしてたやろと。

 それくらい気持ちも感性も、状況に応じて変わるんすよ。大人になっても。

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「人生に無駄なことは何もない」は半分本当で半分虚実で、「ある事象をその人が無駄と捉えるか捉えないか」でしかない。

 

何を無駄と思うか思わないか、でさえ、その人それぞれの感性に依る。


もっと言えば、「感性」が無いと、人は自分で物事を捉えることが出来ない。

だから、結果「無駄だった」でもいいし「無駄じゃなかった」でもいいから、わたしは自分の拠りどころとなる感性を、磨きたいし、幅を広げたい。

 

十代の思春期には、モテないとか親友が居ないとか、毛がはえて無いやらムケてないやら、可愛くないだの痩せてないだの、親が嫌だ、学校が嫌だ、世間が嫌だ、そんなことを割と誰もが何かしら感じていたと思う。

 

後から考えればそんな「くだらないこと」どうでもよかったな、と思う反面、そうした思春期の心を占めていた「くだらないこと」が、今の自分を作っていたり。

悩みやコンプレックスは、その人の原点、原動力、肥やし、生きるヒントだ。

 

14歳の頃のわたしが、もうすぐ28歳になるわたしをつくり、28歳のわたしが、30代、40代のわたしをつくっている。

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思春期第一派の14歳の頃と違って、今は親の庇護も無いし、体力も年々衰えるかもしれないけれど、そのぶん親の干渉に悩まされる必要もないし、友人同士の幼稚で面倒ないざこざもない。


今なら小金も稼げるし、自由だし、これを最高と言わずして何と言おう。

 

もちろんあの頃と比べて、出世やら年収やら結婚やら妊娠やら育児やら、周りの子たちと歴然と差が着いて焦ったり、「現実」に凹むかもしれない。

 

だけどあの頃だってみんな同じ制服着てたからわかんなかっただけで、そんなの生まれた時から歴然とあったのだ。

 

自分じゃ無いほかの誰かになれるような気がしたり、「何者か」になれる気がしていたのは全て錯覚で、教室の机に浜崎あゆみの歌詞を彫ってたあの頃も、若干物忘れが出ていて会社のデスクにいそいそポストイットいそいそ貼ってる今もなんちゃ変わらず、ただただ「自分」がそこに在るだけなんすよ。

 

そんなこんなで「生まれてから死ぬまで自分を生きる」しかないのなら、自分の感性を磨いて、どうせなら味わい深く生きたいものである。

  

愛はかけ捨て、巡るもの。

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最近、人に心から想われることは、「自己受容」「過去の肯定」「浄化」になるんだなぁとよく思う。
 
それはそういう相手と離れてしまったとしても同じだ。むしろ、時が経ち、執着がなくなり思念が消えた時、「想い想われた」愛だけが色濃く残る、そんな気がしている。
 
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18歳の時から、7年間付き合った人が居た。
 
わたしにとって、初めて甘えられる、頼れる歳上の人だった。
 
その彼に寄り添ってもらい、時には突き放され、だけどすべて肯定してもらったことで、わたしは自分の感性や過去を徐々に肯定することが出来た。
 
自意識が強く、変なところで繊細過敏なわたしを「自分には無い感性で、おもしろい」と言ってくれた。
 
若さ故の自意識とエネルギー過多で、意味もなく人に反発したり、世の中に対して軽口叩くわたしを面白がって、時にたしなめてくれた。
 
自分の出し方が分からなくてぎこちないばかりに、空回りしては気疲れし、それをいちいち気にしているわたしを見て、
「確かに分かりにくいけど、歳を経る毎に絶対ラクになっていくよ。」と言ってくれた。
 
「何を根拠に?」と思ったこともあったけど(口減らず過ぎる)、その場しのぎのごまかしや気休めとも思えないほど、彼の態度は「大丈夫。なぜならね…」と、どんな時も一貫していた。
 
20代そこそこだった、当時の彼の感性と経験を総動員した、わたしに対する受容と肯定だったんだなぁと、今になって思う。
 
「いいじゃない」が口ぐせの彼に肯定してもらい、徐々に自分を受け入れられるようになると、自然と自分を出せるようになってきた。
 
するとだんだん人から受け入れられるようになり、その幅が広がり、そしてまたわたしもまた徐々にたくさんの人を受け入れられるようになった。
 
いつの間にか、あんなに自己嫌悪していた自分の過去を誇らしくさえ思えるようになり、自分のめんどくささえも、彼がわたしにしてくれるように面白がれるようになっていった。
 

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 そして、彼と別れ2年あまり。

 

不思議なことに、時が経つごとに、わたしの中に根付いている彼の愛情を感じるのだ。

自分の言うことを周りに受け入れてもらえず、どこかむなしさを感じた飲み会の帰り道に。

いいな、と思った人にアッサリ振られ自信喪失した夜に。

仕事の成果を、ひとと比べて落ち込んだ会社の喫煙室で。

 自分の毎日や将来が、退屈で代わり映えしないものに思えた日曜の夕方に。

 「大丈夫だよ。なぜならね…」という彼の言葉が、わたしの中から聞こえてくる。

 

そのたびにわたしは、また前を向くことが出来る。

 そしてわたしはまた、彼の愛情のおかげで、別の誰かを愛することが出来る。

 

そうやって愛した人たちは、わたしと彼がそうであったように、何かのタイミングでやはり一歩二歩と離れていき、また別の誰かの愛しい人になっていく。


 彼がわたしの中に残してくれた愛情は、わたしの毎日を絶えず巡りめぐっている。

 

「恋はかけ捨て、愛は積み立て」と言うけれど、「恋」って相手や自分自身に見返りを求め、「回収」しようとするもの。

 だけど本当の本当のところ、「愛」にはそんなことなにも関係ない気もしている。

 

自分の生きてきたありったけの知恵と感性と経験を以って、「その人が幸せにあるように」‘‘出し惜しみなく”見守ること。

 

その意味で、愛はかけ捨てである。

 

たとえ最後望んだ通りの関係、カタチにはならなくとも、一時的に喪失感を生もうとも、愛し、もしくは愛されていたなら、必ず愛だけは残る。

むしろ「今までの関係を失った時こそ」自分本位な欲や執着が消え、結果、愛情は研ぎ澄まされる。
 
それが‘‘無い”関係ならば、たとえフラれたって別れたってなにも泣くこたない。
 
そこに愛が残ったならば、嬉し泣きこそすれ、悲しんだり、寂しがって泣くこたなにもない。

 

そう気付いた時、わたしはどんなに寂しくても辛くても、ひとりで立ってられる気がした。

チンケな未練は、宇宙のどこかに消えてった。

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7年間毎日のように顔を見ていた彼と、もう会うことはない。
 
SNSで近況を知ることもない。
たまにタグ付けされた写真が流れてくるだけだ。

本当の別れとは、二度と近付けないほど切なくて遠いものなのだと思う。

でもいつも目の前にいるかのように、わたしの中で実感だけが残っている。

 
彼との思い出を、もう手繰り寄せたりしない。
記憶というよりは、ただ、実感として、愛情が残っているだけだ。
 
 
人は、愛された実感を糧に生きていくことが出来る。

自分が愛した実感は、生きていく拠りどころになる。 

 
わたしは、いつの間にか自分自身に根付いた「愛」を持って、また歩いていくだけだ。

 

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彼が10年も前に蒔いてくれた種が、遅咲きながらも、徐々に芽吹いて花を咲かせようとしている。
 どんな風雨にさらされてもヘコたれない、強くて美しい花を咲かせたい。

 

それがわたしの彼への愛情なのだと、そんな気がしている。


【追記】

折しも、その7年間付き合っていた彼が一昨日結婚式を挙げたとfacebookのタグ付けで今しがた知った。

 

その時わたしはジェーン・スー著の『私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな』のあとがきをしみじみ読んでいた。

 

この温度差こそ、わたしたちの真髄である。

 

引き続き、いつまでも、幸せでいて欲しいと祈ってます。

 

そしてこの期に及んで話のネタにするわたしを、どうかお許しください。
 
 

浮気と愛情は別物である「浮気をしない人の7つの特徴」

 
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『TABI LABO』を見てたらこんな記事を見つけた。

 

『どうすれば、浮気をしない誠実な人を見分けられるのか・・・
世界で共通している「愛」のコト。』

浮気心は世界共通?!浮気をしない人の「7つの特徴」 #最後がスゴイ | TABI LABO

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(以下文中より転載)

浮気。それは、信じているはずのパートナーへの大きな嘘である。
「あなただけを愛している」と言いながら、実際には他の人にも同じことを言っているのだ。
浮気をされると、もう二度とその人を信頼出来なくなり、場合によっては男性不信・女性不信に陥ることもある。

ここ最近海外サイトで話題になっているのが、浮気をしない人の特徴。
「浮気をしない人と付き合いたい」という万国共通の願いを叶える為に、
海外サイトを参考にまとめたこの記事が少しでも参考になるかもしれない。

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この記事の最後に、例によって頼まれもしないのに、わたしの思う「浮気をしない人の7つの特徴」を書いてるんですが、その前に「浮気」の議論について、わたしは下記のことを問いたい。

わざわざわたしが書くまでもないことだと思うけど、「愛」の有無と「浮気」の有無は別である。

特定のパートナーが居て、その人に愛情もなくさらに浮気をくり返すやつは「論外」なので(この記事上では)大気圏に捨ててくるとして、愛妻家、旦那を愛している人が浮気しているなんてことはよくあることで、本人たちも「妻(旦那)を愛している」と言っていて、それは傍目から見てもウソじゃないんだろうな、と思う(それを、「とか言いつつ本当には愛してないよね」みたいに周りが言うのは超絶野暮だと思っている)。

浮気してなくても愛してない場合もあるし、浮気していて、かつ愛してない場合もある。

じゃあ何故浮気をするのか。「愛情と性欲の区別がつかないから」である。

だから、よく浮気されたらどうしますか?という質問があるけれど「私のパートナーは、現時点では愛情と性欲の区別もつかないお猿さんなんだ」と諦めるほか無い、が現時点でのわたしの回答である。

愛してる人のすごく悲しい顔より目の前の性欲を優先するとはわたしにとってはそういうことである。

 

また一方で人はよく「あなたを愛しているから、裏切ってほしくない」と言う。


でも「嫉妬」の無い「恋愛感情」は稀だけど、「嫉妬」の源泉は「恋愛感情」ではないのではないか。ましてや愛情でもない。 

 ※その意味で「恋」と「愛」は別物だと考えていて、でもそれについて書くには力量勉強不足だし、読んでて面倒だと思うので割愛しますので、二村さんのコラムを。

「愛」と「恋」とは正反対! 恋愛のカリスマ・二村ヒトシさんに聞く、理想の男性と決別して幸せになる方法|ウートピ

 

嫉妬や独占欲それ自体は「悪」ではないし「正」でもない。でもそれらを刺激されたら、悲しい、傷つく、怒りやネガティヴな感情が湧いてくる。

「なんで浮気するの?!」って正論を主張するかのように責めてしまうんだけど、それは「自分が嫌なことをされた怒り、失望」の上に立って相手を責めているのだ。

 

そうやって、わたしたちは、感情と正義をしばしばすり替えがちである。

自分に相手を責める権利があるように思って責めている間は、相手が何かしらの罪悪感を感じることを期待してしまう。

そうやってるうちは、相手の中にまだ居場所があるような気がして、相手を責めることで、首の皮一枚で繋がろうとしている。

 

浮気する人はするし、される人は大概が、最初から「浮気する人」を選んでいる。

もしくは惚れた弱みや気の弱さや怠惰で、「浮気されてしまう状況」っていうのを自分で作り出しちゃってる。

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ぐちゃぐちゃ小うるさいことは置いておいて「もう、バカ猿は無理っす」という人には、この記事に出てきた「浮気をしない人の7つの特徴」は考えるヒントにはなるかもしれない。

 

※「⇒」部分はわたしのツッコミです。

本文を読みたい方は前述のリンクへどうぞ。

 

浮気心は世界共通?!浮気をしない人の「7つの特徴」 #最後がスゴイ | TABI LABO

  

1.気分転換の方法を知っている
「浮気しない人は、自分の感情をコントロールできる。」

これは脳内麻薬であるドーパミンの出し方を知っていると解釈すると、理解しやすい(余計できねぇよ)。

サーファーや釣り人、ワーカーホリックは、その対象が「自然」や「魚」「仕事」で、ドーパミンを異性に求めないので平和っていうか市民権を得ている。

これが「女」や「セックス」の場合、言わんをやである。

 

2.人に敬意を払う、相手を尊敬する
「敬意をもって人と接することが出来る人は、浮気をしてパートナーを傷つけたりしない。」

確かに彼氏彼女ナメてる人は浮気してるのよく見かけるけど、「敬意がある人は浮気しない」とは限らない。

大概の人が尊敬ってパーツでするもので、逆に全面的に人を尊敬したらそれは「宗教」だけど、その域までいったら信者は浮気しないよね。

一方で教祖である相手が信者をナメたりうっとうしくなって浮気するパターン多し。

 

3.人の価値を理解している
「今まで何人の人と寝たか」誠実な人はそんなことで人の価値が決まらないことを知っている。

異性関係や異性経験にコンプレックスがある人や欲求が高くないのは「浮気しない人」のベースだと思う。

コンプレックスがあったら必ずそうなるわけじゃないのは大前提として、ヤリチンや浮気性って、大概がコンプレックスの追求だと思う。

好奇心旺盛や病的でない性欲旺盛型は徐々に衰えるけど、病的なものは難しいよね。


4.長期的な視座で、理性を大事にしている

浮気をしない人は、自分の人生で何が大事なのかを理解している。

⇒7つの特徴のうち、2番目に同意。
短中長期の優先順位付けと長期の見立てを理性的に出来ることは浮気しない人の重要な要素だと思う。

浮気って言ったって、長くて3ヶ月も経てばドーパミンもエンドルフィンも徐々に出なくなり、ほぼ腐れ縁である。
そんな平常心に至った際に、面倒を感じないか。
結局複数人を相手に出来る人は少数派であり、それなら「最初から手を出さない方が合理的」「早期撤退」と考えるのは合理的だと思う。

 

5.相手を自分のことのように思いやる

パートナーを自分のことのように大事に思い、相手が笑顔でいるように努める人は、当たり前のようだが浮気をしない。

⇒前述の「愛と性欲の区別がつかないお猿さん」理論ですな(なんかもう猿に失礼)。

 

6.傷ついたことがあるからこそ、優しくなれる
⇒5に同じく、想像力と良心の問題。

 

7.別れる勇気を持っている

浮気をしない人は、気の合わないパートナーとは潔く別れる。残酷なようだが、その方がかえって相手を傷つけないこともあるのだ
7つの特徴のうち、これに1番同意。(「気の合わない」っておぃ・・・)
元カレ元カノとずるずる関係を持ったり、新しい人が出来ても旧恋人と関係を終わらせられない、もしくは複数の選択肢から一つを選べないのは(選ばないのではなく)、優柔不断と自己愛の強さ故に、清算と総括が出来ないからである。

実際優しい人が多いんですけどね~・・・優柔手段だと自分から人を切れないし(ましてやお互い好意を持ってるし)。

 自分がそうだから思うのだけど、自己愛強いと自分の感情を宝石の様に扱うから、恋愛に限らず、ただの一時的な感情を、とても大事なものとして扱っちゃう。「ロマンチスト」の中身はしばしばそれじゃないかと思っている。

 

ただの偶然と己の優柔不断さから一時的に生まれた感情や欲情を「もっと早く出会いたかった・・・。」とか「言うても人生の大事な人だから情が・・・。」みたいな一世一代のものにしちゃう。

周りからしたら「あーハイハイ・・・」って。おめでたいと言うかウザいというかどっちもなんだけど・・・。

  

上記を踏まえてわたしなりに考えた「浮気しない人の7つの特徴」

1.脳内麻薬を認識し、そのコントロール方法を知っている。
2.想像力があり、かつ自己中心度合いが高くない。
3.異性関係にコンプレックスや病的な欲求がない(過去にあったとしても、そこそこ昇華されている)。

4.優先順位付けと長期の見立てが理性的に出来る。

5.清算・総括能力がある

6.優柔不断で【無い】

7.自己愛が強すぎない

 でした。

 

人間関係を築いていくというのは、自分自身の問題(愛する技術とか、何を求めてるかとか)がほとんどである。

幸せになる原理原則があるとすれば、自分を変え、それでもダメなら相手を替える(相手を「変える」じゃないよ)。

 

後者の「相手をリスクヘッジ」するという観点では、このまた記事は有効かもしれない。

 

 

【続】永遠の幸福の8秒間(父の死後の昔話)

(「永遠の幸福の8秒間」の後日談です)
 
父に頼まれた病室に置くオーディオを買いに行く途中で、中学2年の終わりまで、ほんの3ヶ月前まで通っていた中学校の前を通った。
 
 
構内を囲む高いフェンスの向こうから、校庭から生徒の声が聞こえる。
体育館で弾むボールの音が聞こえる。
途切れ途切れ、ピアノの音が聞こえる。
 
 
度々呼び出された職員室、
家出がバレて捕獲された渡り廊下(家出中のくせに意味不明な生真面目さで何故か学校には通っていた)、
テニス部女子の噂話を肴に、放課後追い出されるまでだべっていたテニスコート前、
まるで数年ぶりに母校を訪れたような、懐かしい気持ちになる。
 
 
遅刻欠席は絶えなかったが、3ヶ月前まで毎日「行かなければならない」居場所だったのに、今となってはわたしは「部外者」でしかなく、その事実に今更胸が痛くなった。
 
この3ヶ月、転校したことを悔まない日はなかった。
 
 
 
「早く教室に戻りなさい!」
 
 
つい癖でぎっくりとして振り返ると、毎日つるんでいた友だち二人が、保健室の先生と生活指導担当の教師に追いかけられていた。
 
 
 
あっと思ったと同時に友だちもわたしに気がついて、
「えーっ!なんでここに居るん!」とフェンス越しに駆け寄られた。
 
 
 
こんな風に気安く名前を呼ばれ、駆け寄られたのは久しぶりで、一気に懐かしさがこみ上げる。
 
転校先の学校では、わたしの名前をこんな風に呼ぶ人は居ない。
 
 
 
居るはずのないわたしがそこに居たことに、保健室の先生も指導担当の教師も驚いていた。
 
そして数ヶ月前よりも2トーンほど暗くなったわたしの髪色を見て、教師の方はどことなく口元が緩んでいたように見えた。
 
 
 
父親の事情を話すと、友だちはそうかぁと言って、
「また夏休み愛媛に帰って来んの?」と言った。
 
 
父親が亡くなったら帰る場所もないのだけど、と思いながら
「そうしたいねぇ」と曖昧に頷いた。
 
 
 
久しぶりの再会は驚く程あっさりしていて、あんなに「一生心友」とか言っておきながら所詮一度離れてしまうとこんなものなんだよな、とやり場のない寂しさを感じながら手を振った。
 
 
 
二、三歩あるき出したところで、また名前を呼び止められた。
 
 

振り返ると、私が転校する時に餞別としてハンカチとメッセージカードをプレゼントしてくれた保健室の先生がまだそこに居た。
 
 
 
「お前、強く生きるんよ。」
 
 
「うん。先生もね。」
 
 
と生意気言って手を降った。
 
 
 
危篤と聞いていたのに、高校教師だった父は「早く名古屋へ戻って学校へ通え」と言った。
今日にも亡くなるかもしれないのに。
 
 
 
今となっては何故そうしてしまったかわからないけれど、それが父の望むことだと思い込んで、わたしは2日間居た病院を後に、名古屋へ戻った。
 
 
 
その2日後、父の訃報を聞いた。
 
 

学生服を来て2日振りに愛媛に戻り、通夜会場に着くと、
幼い頃以来ほぼ会ったことの無い、父方の親戚が集まって居た。
 
 
父方の祖母と絶縁した母親は、通夜には来なかった。 
 
 
部屋の一番奥に、幼い頃からの暴力や借金で父親が最も恨んでいた父の長男が見えた。
 
この男の目の前でだけは、死んでも泣くものかと歯をくいしばった。
 
 
通夜の部屋の仏壇に、父の遺影が見える。それを見て初めて、「本当に死んだんだ」と父の死が現実のものとして迫って来た。
 
 
「さだまさしに似とる気がしん?」初めて会った叔父らしき人が話しかけて来た。
 
このタイミングでさだまさしかよと思ったけど、額が広く、痩せこけた頬の写真は、悲しいかなそう見えなくもない。
 
 
「最後げっそり痩せましたからね」
 
 
そもそも写真のセレクトが最悪だと思ったけど、それは言わなかった。
わたしは死に目にも会えていないから、何も言えない。
 
 
顔掛けをめくると、ひんやりと硬直し、やせ細って白くなった父の顔があった。
太い綿棒に水を含ませ、口元を濡らすよう言われた。 
 
 
この人には酒の方がいいんじゃないのか、と思ったけど、極力誰とも言葉を交わしたくなかったので言われるがまま一通りの所作をこなした。
 
 
 
読経を済ませ、住職が帰ると、みな緊張が溶け足を崩し、どこからともなく出前の寿司と酒が運ばれてきた。
 
 
嫌な予感がして、その輪から外れて、隣で父の顔をずっと見ていた。
 
 
酒が入ると間も無く、父の車はいくらで売れたとか、残ったマンションはどうするとか、そんな話からあの人は何年前に亡くなったとか、子どもがいくつになってるはずだとかいう、身内の与太話に入った。
 
 
遺産相続の話になると、祖母がわたしに聞かれたらまずい、と話を遮ったのが背後からでも分かった。
 
 
長男が、この期に及んでしょうもない話を繰り出し、しきりにバカ笑いする。
 
 
通夜に出るのが初めてだったわたしは、ただの酒盛りに興じる雰囲気に耐えられなくなった。
 
 
悔しくて涙が堪えられなくなって、トイレに行く振りをして部屋の外に出た。
堪えていた涙がどっと溢れて、あてもなく歩きつづけていると、見知った道に出た。
 
 
 
映画オタクでもあった父に、度々連れられたレンタルビデオ屋まで歩いていける距離にあるとわかって、大泣きしながらとぼとぼ歩いて行ったけど、当然何もすることがなくて折り返し戻って来てしまった。通夜の部屋には戻りたくない。
 
 
 
憂鬱な気分で建物を見上げる。すると葬儀場の上に屋上が見えた。
 
 
当時のわたしはあらゆる建物の屋上に登るのが得意だったので、親戚と鉢合わせないよう最上階まで階段で登り、梯子を見つけ、よじ登りながら屋上に居場所を得た。
 
 
タンッと屋上に降り立った瞬間、気持ち良い夜風が吹き抜け、制服のシャツとスカートが膨らむ。
 
 
 
この日初めて息を吸えたような気分になった。
 
 
夜もすっかり更けていたが、屋上を照らすライトのおかげであたりが見渡せた。
 
 
屋上を一周しながら辺りを見回すと、
一時期父親と祖母と住んでいたマンションが見えた。
 
 
小学生の頃、父親にたまに連れて行ってもらったショッピングセンターが見えた。
 
ほんの半年前程に、叱られ、喧嘩してひとりでふらついた公園が見えた。
 
 
 
父親が亡くなったのは、自分のせいじゃないかという思いが頭を駆け巡る。
 
 
中学3年生に上がる春、少しだけ荒れていたわたしを更生させるというので、
「孟母三遷」(=まともな人間を育てるためには、住む場所を三度変える必要がある)を母親がリアルに実行し、
長年別居していた父と正式に離婚し、再婚をして名古屋へ移り住んだ。
 
 
 
小学生の頃から続けていた演劇活動を、本格化したいというわたし自身の欲もあった。
 
でも類は友を呼ぶもので、転校して間も無く、ヤンキーの子達に誘われた。 
 
 
 
ここで後戻りしてまたつるむようになっては、さすがに母親や道連れになった妹に申し訳が立たなくて、その子達に一緒につるむのは無理だと告げると、その翌日から色んな噂が出回り、誰も話しかけて来なくなった。
 
 
そうしてわたしが名古屋へ移り住んで3ヶ月後、父は死んだ。


「お父さんも寂しかったやろうねぇ。」
 
 
通夜の部屋でぼそっと親戚がこぼした言葉が何度もよぎる。
 
父親も失い、家族を引っ張り回して、友だちも失い、叶うかどうかもわからない夢を追いかけ、わたしはいったい何をやってるんだろう。
 
 
そんなことをぐるぐる考えながら、延々と泣き明かしていると、空がだんだんと白じんで朝になった。
 
 
葬儀の日に、なってしまった。
 
 
誰かに見つかってはまずいと、梯子を降り、でもやはり通夜の部屋には戻りたくなくて、昨晩屋上から見つけたあの公園へと歩いた。
 
 
最後出来るだけ長く父の顔を見ていたいとも思うけど、あの空間に耐えられそうもない。

「死んだ肉体に意味は無い」、どうか父の魂だけはわたしと一緒に居てくれますようにと言い聞かせた。
 
 
早朝の公園では清掃の仕事かボランティアなのか、ひとりのおばちゃんが居た。
 
学生服のまま泣き続ける不審な中学生をどう思ったのか、おばちゃんは「内緒だよ」と公園に咲いていたヒマワリをへし折って一輪くれた。 
 
 
 
「生きてたら、必ずいいことがあるけんね。」
 
 
 
自殺でもすると思われてしまったのかと思いながら、わたしはその言葉にいくらか救われ、ヒマワリを片手に葬儀場へと戻った。
 
 
昨夜からずっと抜け出していたわたしがしれっと戻っても、何かを言う親戚は居なかった。 
 
 
参列した父の教え子の高校生たちに、「お父さんに似てますね。特に目がそっくりです。」と声をかけられた。 
 
 
うちの家では「母親に似てると言われるのは褒め言葉、父親に似てると言われるのは遠回しの悪口」という暗黙知があって、 
「誰が一番母親に似ているか」は姉妹間では結構重要なテーマだったのだけど、この時はさだまさし風の遺影を見ながら、少し救われたような気持ちになった。
父はわたしの中に生き続けている、そう言われた気がした。
 
 
葬儀中終始寝ていた長男が、喪主の挨拶の時だけ、世にも白々しい泣き真似をしていたことに、顔から火が出る程恥ずかしくなった。
 
 
葬儀の最後、棺桶に最後の挨拶と、思い思いの品を入れていく。
 
 
昨日の夜、数日前に買ったあのオーディオを入れたくて探したけれど、もう既に無くなっていたことが分かった。 
 
 
父が亡くなる前から、すべて長男が手をつけていたらしい。
それらにほとほと嫌気がさして、棺桶へと並ぶ黒い列に入れなかった。
 
 
最後、親戚が居なくなった隙を狙って、父の教え子のみなさんが持って来てくれた千羽鶴の横に、公園のおばちゃんからもらったひまわりを添えた。
 
 
すると横から、幼い頃一度だけ会ったことがあるらしい叔母さんが、ひとりごとを言うように、こっそりわたしに話しかけた。
 
 
「本当に、思ってくれる人だけを信じたらええけんね」
 
 
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その後、相続の件で何度か電話でやり取りした祖母がやたら優しくて、その祖母が気落ちしてないかと、父親と住んでいたマンションに一人で住む祖母を、葬儀の翌々月に尋ねた。  
 
 
 
 
残された父の部屋を見たい、という気持ちもあった。
 
 
 
びっくりさせようと、何も連絡せずに来たので、数か月前まで自分も住んでいた部屋のインターホンを押す手に今さら緊張が走る。
 
 
祖母は急に尋ねてきたわたしを見るなり、玄関先で
 
「何しに来た」と他人を見るかのような目で言った。
 
 
 
 
わたしは何も言えないまま、一時祖母と父と三人で暮らしたマンションを後にした。
 
集合ポストを覗くと、長男宛の郵便物が何通か届いていた。
 
 
そういうことか、と思った。その日以来14年間、連絡を取らなくなっていた祖母が、半年前に亡くなったと先月になって知った。
 
 
結局死ぬまであのマンションで、あの長男と暮らしていたそうだ。
 
 
毎夏、ヒマワリを見るとあの夏の日のことを思い出す。
 
もっと頑張っていれば、諦めないでいれば、分かり合えたかもしれない。
 
でも分かり合えていると思っていたものだって、一瞬で壊れる日が来ることがあるのだけど。
 
後悔と諦めが入り混じった味がする。
 
 
そして見知らぬ誰かに救ってもらった言葉。
 
 
ひとの言葉は、人を深く傷つけることも出来るし、救いの一助となることも出来る。
 
 
下心、うわべの優しさは本質ではない。
心を砕いてくれる、その人の一言だから意味が生まれる。
 
 
 
 
そのことをわたしは十分に学んだはずなのに、未だに時々間違え、流されてしまう。
 
 

聞くべきでない言葉を正面から受け取り一喜一憂し、本当に心を砕いてくれる人の耳の痛い言葉から逃げようとする。 
 
 
そして、通りすがりの誰かでもいい。
 
 
誰かの痛みをほんの少しでも救えるような、一歩を踏み出す力になれるような、そんな言葉をかけられる人でありたいし、そうした言葉をちゃんと受け取ることの出来る人間でありたいと思う。
 
 
そこに、出し惜しみは無用である。
 
 
 
私のあの日々を救ってくれたのは、間違いなくそんな一言たちだった。
 
 
 
 
 
 
 

色即是空 空即是色

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何もかも、もうすぐ思い出になってしまう。

 
少しずつ、確かに、思い出になっている。
 
思い出になって行かないでとひとりすがりつきたいような気持ちになるけど、
夜が更けて朝が来ることを誰も止められない。


空が焼け、暗闇が訪れ、だんだんと空が白じんでひんやりとした空気が徐々に温度を持つ。

 
どんなに激しい雨が地面を打とうが、跡形もなく蒸発し、また日差しが照りつける。

 
この間枯れたはずの木々をいつの間にか若葉が埋め尽くし、色付き、枯れて散り果てる。

 
ここにあったはずの建物は無くなり、
そこに居た人はまた居なくなり、
その家にはもう誰も訪れなくなった。
 

遊んでいた子どもたちがひとりふたり居なくなり、眺めていた人々もどこかへ行った。 

通りでいつも寝ていた猫は、いつの間にか見かけなくなった。

 
 
わたしの座っていた椅子は別の誰かが座り、

忘れたくない出来事は徐々に色褪せていき、

何度も読み返していたあの人からのメールはどこかへいった。

 

探せばどこかにあるのだけど、見つけたところでどうなるというのだろう。 


 
季節は変わって、景色は変わって、ひとの気持ちも移ろいでいく。

 
幼い頃、両親が年々不仲になり、毎年親戚の誰かが逝き、毎春クラスが変わり、好きな男の子や友だちが転校していくのが無性にさみしかった。

 
だから「今居るみんなで手をつないで、みんなでずっとここに留まろう」
そんな約束が交わせる学校か何かが、どこかにあるかもしれないと願った。

作れるかもしれないと思った。

 
そのあと少しして、人間はそんな関係性に耐えられるように、できちゃいないとわかった。

それが強さなのか弱さなのかはわからないけど。
 

大人になれば、どうにもならない不条理な別れは少なくなるんじゃないかと思っていたけど、

大人になればなるほど、どうにも出来なかった別れは増える一方だった。

 

「でもSNSで繋がってるから」

それが何がしかの足しになるくらいの別れだから、今はほとんどの別離を「別れ」と呼ばないのだろう。

近況を知って、だからいったい何になるのかは、実際まだよくわかっていない。

一番見えていたはずの表情が見えない、言葉を交わせるはずなのに交わせない。

「本当の別れとは、二度と近付けないほど切なくて遠くて、でも目の前に居るかのように、心の中で相手を想い、幸福を願っていることだ。」 

わたしは心の底から、まだそう思えずに居る。


移ろいでいく世界を、移ろいでいく人の気持ちを、まだ愛せずにいる。 

 

幼い頃、日が暮れても誰かが来るかもしれないからと、いつまでもひとり公園で待っていた。


空を見上げた

星を見つけた

海を眺めた


その先に、どこかにいるはずのあの人の気配を感じたくて、ずっとひとりそこにとどまっていた。


あの人もわたしも、この海がつくり、空がつくり出した、移ろいでいくもの。

永遠の幸福の8秒間。父の死が教えてくれたこと。

「昨日産まれたばかりのように、一度死に直面したかのように、日々を味わい、慈しんで生きよ」

 
 
どんなに身体に気を使ってたって、私たちは食べ物から、空気から、栄養以上の毒を吸収している。
 
どんなに幸福感(セロトニン)を分泌しても、日々それ以上の不快物質(ノルアドレナリン)を出して生きている。
 
 
その意味で、人間は生まれた時から死に向かう、毒を盛る器でしかない。
 
 
生まれた時から血を噴き出して生きている。その出血は死ぬその時まで止まらない。
 
 
そしてどこかで大量出血して、終わりに辿り着く。
 
 
そんな出血の旅の途中でも、人生には幸福を感じるチャンスが用意されている。
 
 
人間の脳が幸福を感じることが出来るのは、最大8秒間という説がある。
 
 
貴重な最大8秒間の幸福。
 
 
それは一瞬であり、永遠である。
 
 
 
その永遠に過激さや刺激を求めて、「血は流してなんぼ」と、ときに出血を加速させるのか、
 
タモさんのように「現状維持」を人生のテーマに、日々出来るだけ止血しながら、たまに訪れるささやかな8秒間を味わうのか。
 
 
それは人それぞれで、その選択は誰にも止められない。
 
会社帰り、涼しい夜風にあたりながらそんなことを考えていて、ふと懐かしい感覚に陥った。
 
 

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わたしが中学3年の夏、49歳の若さでアル中とニコチン中毒のせいで、食道ガン、肺ガン、胃ガンのトリプルアタックで入退院を繰り返した父親が、突然「危篤」というので急いで見舞いに行った。
 
 
 
三ヶ月前から愛媛と名古屋という距離で別居していた父親との、久しぶりの再会だった。
 
個人病棟で寝たきりの父親の腹は布団の上から判るほどかなり膨れていて、死期が近いのは誰の目にも明らかだった。
 
 
後から祖母や医者に話を聞くと、父はその状況でも自身が自分の死を予感していたかどうかは怪しくて、さすが自分以外のあらゆる人間をバカにし、自分しか信じない人だったなと呆れるばかりなのであるが、その日、CDやレコードを万単位で所有する音楽オタクの父から「病室用にオーディオを買って来て欲しい」と言われ、遣いに行った。
 
「そんなのんきな話あるかい」と思いながら、わたしは渡されたお札を握りしめ街へ出た。
 
そうこうしている間にぽっくりいかれてはどうしようと、冷や汗をかきながら、猛烈に焦りながら、でも予算内で買える出来るだけ良いオーディオを街で探した。
 
 
2〜3日かかるという宅配を断り、大きなオーディオを真夏日にえっちらおっちら抱えて病室に持って帰った。
 
 
 
すると父は病室から忽然と姿を消していた。
 
 
もしや既に手遅れだったかと青ざめたのも束の間、どうやら様子がおかしい。
 
 
 
ヤツは居る。
 
 
 
まさか脱走はしてないよなと病室のトイレのドアを開けた瞬間、
 
 
 
彼はトイレでさも美味しそうに煙草を吸っていた。
 
 
 
 
まるでヤンキーである、、、。
 
 
 
高校教師をしている父が、自分や友人と変わらないウンコ座りの姿で、「便所」で隠れて喫煙しているのである。
 
 
 
 
「ダメだこりゃ、、、」
 
 
 
一気に脱力感に襲われたと同時に、その時、なんか哀しくて可笑しくて恥ずかしくなって、わざと手を叩いて笑った。
 
 
 
父親も、決まりが悪そうに苦笑いしていた。
 
 
 
それが最後に見た父親の笑顔だった。
 
 
 
 
その時に思ったんだ。
 
 
 
自分の血は、自分の好きに流すしかない。
 
幸福の8秒間のために、その瞬間、自らの出血を加速させるのだとしても。
 
 
あの父の隠れ喫煙が、彼にとっての幸福の8秒間だったのなら、いいなと思う。
 
 
 
そして、哀しくて可笑しくて父親と笑い合ったあの瞬間は、わたしにとっては幸福の8秒間だった。
 
 
 
そして、どんな思い出よりも、あの8秒間がわたしと父の永遠として生き続けている。
 
 
 
 
あれから13年経った、父親の命日に。
 
 
 
ブログでさらしたからって、化けて出るなよ。
 
 

辛い恋の続け方・終わらせ方

恋愛が「辛く苦しい」ケースに本人が陥った時、周囲に相談するとほぼ99%の確率で「やめときなよ」ってなるじゃないですか。

相談者のことを大事に思ってくれてる人ほど、イバラの道を進もうとするその姿を見て「今すぐやめとけ」「ほかに合う人はいっぱいいる!」って反対してくれる。(一部の人は“面白がって”行くとこまで行け、と言うけど。) 

ただ、それで諦められたら苦労しないんすよね。聞けるならひとのアドバイスを聞いた方が絶対にいいんだけど…。

ただわたし自身は、ハタから見たら身をすり減らすような不毛かつ無謀な挑戦であっても、自分の感情の「ほんの一滴、たったの1ml」を大事にしようと決めた上での行動なら、行くところまで行けば良いと思う。

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 先日、行きつけの整体師さんと深夜施術中に脳内ホルモンの話をしていて(どんな状況)、話していたのが『一滴・1ml追求論』。

今どんなに苦しい恋愛をしていても、ほんの一滴、たった1ミリでも「幸せだな、楽しいな」と心の底から思えるのであれば(=幸せ脳内麻薬が分泌されるのであれば)、まだ好きでいてもいいんじゃないの、とする論です。 

それは「たかだか一滴、たったの1mlが人間に与える影響は、想像以上に大きい」から。

たとえば人間が「嬉しい」「幸せ」と感じる時は、脳内幸せホルモン「セロトニン」が分泌されているのだけど、 人に幸福・快楽をもたらす幸せホルモンの量なんて、大きなプールに一滴くらいの量なのだそうです。

その「たかだか一滴」が人間の「美味しい・楽しい・嬉しい」を作り出す。ドリカムか。

整体で言えば、どんな体の不調を引きおこす骨格のズレや歪みも、元々はたった1mmのズレなのだそう。

わたしはそれを聞いて、「たかだか一滴」、「たったの1ml」が人間に与える影響は、想像以上に大きく、尊いと思ったんです。

頭ではわかっててももうどうしようも止められない恋愛をしているなら、徹底的に限界までやり抜くのもひとつ。「自分を信じる」ということは「いざとなったらわたしは自分でシャッターを下ろせる」という覚悟を持つこと。すべてを終わりにするのは、シャッターを下ろす時で良い。

周りに散々心配・迷惑かけるかもしれないけど、他人からは「愚か者だなぁ」と笑われるかもしれないけれど、本気ならば足は止まらないはず。

そして自分でシャッターを下ろす瞬間は、思いっきり白くて鮮やかな、大きな白旗をあげてやろう。

大きな白旗は、また次に海に出た時に力強い帆となって、風を受けて、次の航路へと導いてくれる。

本気の恋をすると、人は誰かに傷つけられるんじゃない。頭ではわかっていながらも、自分で自分を傷つけるのだ。

だから被害者意識や恨みつらみそねみは、持ち越し禁止。自分を選ばない男に、傷つかせてどうするのだとわたしは思う。

自分の心に本気でつけた傷は、女の勲章である。

「人は結局見たいようにしか見ない」

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「結局人間、自分が理解したくないことはわからないって言うし、してほしくないことをされたら理解できないって怒るんですよ」

 

この間後輩が飲みの席で、

「好きでもないくせに、手をつないだり、夜中に電話してきたりするんですよ。だからといって付き合うわけでもないし、なんなんですかね?」

 

「彼の気持ちがわからない。」

 

と愚痴っていた。

「あの人の気持ちがわからない」

恋愛に限らず、そんな場面、日常で往々にしてあると思う。

 

自分自身にも思い当たるふしが多すぎるのだが、人間は相手が自分にとって望ましくない行動をとったり、はぐらかされたり、意思疎通が出来てないと、「相手が何を考えてるのかわからない」という。

だから“答えを探している体で”いつまでも同じことをぐるぐる考え続けようとしている。

何かしらの手がかりをつかんで、答え合わせをしたいと願う。

 

でも実際のところ、わたしたちはうすうす気付いてるし、もちろん第三者にはとっくにわかっている。

 

相手はなんも考えてないと言えば考えてないし、考えていると言えば考えてるのだ。

 

前者の意味では、相手の心の中に「わたし」なんてほぼ居なくて何も考慮されていない。

後者の意味では、瞬間の気分欲求含め、自分自身のことで頭がいっぱいなのである(それかもっと優先順位の高いほかの誰かが、心の中に居る)。

 

でも人は「自分が見たいようにしかものごとを見れない」から、

「何を考えてるかわからない」

「理解出来ない」

っていう。

「自分のして欲しいことをしてくれない」という、自分勝手にかけた期待から失望したくなくて、絶望したくなくて、思考を停止させるしかないのだ。

 

少し考えればわかることを、いつまでもわかろうとしないのがその子の答えなのかもしれないし、

いつまでもわかろうとしないその答えが、その子にとっての答えなのかもしれない。

 

いつまでもわからない振りを続ける、滑稽でくだらない愚かさも身にしみてわかっていて、

「男って何考えてるかわかんないよね」

「あの人ってなんも考えてないよね」

って同情し、同調し合う。

 

「だから女同士の同情とか同調なんてくだらねぇんだよ」って女子会批判されたり、「男同士の傷舐め合い、立て合い」って揶揄したりするけど、人生のやりきれないものをどうにかやりきろうとする、そうやってみんな生きてるだけなんだよ。

 

いっとき、どれだけわからない振りを続けてようが、

結局「人間は前にしか進めない」と、みんな心の底ではわかっていて折り合いを付けながら生きていくのだから。

 

 

 

 

 

ひとの心を占める気持ちの成分は変わらない。

 

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先日ある人と話をしていて、

 

「生き方の癖って治らないよなぁぁぁ」と。

 

刺激を求めて、振り回すような男と付き合って身も心もぼろぼろになった子が、ナイチンゲールのように泥沼からすくいあげてくれた、安定の塩顔サラリーマンの彼を、「刺激が無い」「やっぱりわたしオラオラ系じゃないと無理」と不満を募らせるようになったりとか。

 

もっとツライのは、塩顔相手に痛くもない彼の腹探ったり、いちゃもんのような喧嘩をふっかけて関係自体が微妙になったりとか。

 

ずっと「寂しい、孤独だ、自分は愛されない」と理解者を求めていたはずなのに、そんな自分を受け入れてくれるやさしい彼女が出来ても彼女そっちのけで、引きこもって趣味に耽ってまたそれで「孤独だ・・・」とかつぶやくエセ三島とか。

 

現実が見えてても夢との狭間でふわふわしてたい「万年どうしたいかわからない子ちゃん」も、わかっちゃいながら興奮と刺激を追い求めるドーパミン症候群も、芸術家気取りの孤独好きも、だめんず好きも、メンヘラ好きも、心は「そうありたいように」プログラミングされている。

 

ずっと太ってた人が一時的に痩せても、身体は元の体型に戻ろうとしてリバウンドする。

肩こりの人が(わたしだな)、一時的にマッサージや整体でほぐしてもまたすぐ身体が固まる。

 

人間の骨格・性格は18歳までで大概確立されると言われているけれど、4歳、14歳で多くはデフォルトが形成されてて、人間、そこからそう遠くにはいけないのだ。

 

人は「成長」する生き物だけど、それはどこの筋肉鍛えますかという枝葉の話で、思考の癖、行動の癖、すなわち生き方の癖はそうなおらない。

 

誰もが同じ過ちを繰り返す。

だから

「人間なんてみんなバカ」なのかもしれないし、

 

だから「みんなバカじゃない」のかもしれない。

 

ハタから見たら

「絶対こうしたほうがいいじゃん」とか「あーあ」とか思うんだけど。

「愛してるなら、ちゃんと癖をなおすために言うべきことを言うべきだ」って思いがちなんだけど。

 

そんなの他人が口はさんでなおるならとっくの昔になおってて。

 

その人だって「自分の生き方の癖」と社会とのバランスを必死にとってきたわけで。

自分自身でその癖といつどう向き合うか、そのタイミングが来るか来ないかはわからないよ。

その時に自分がそばにいるかも、わからない。

だから約束や見返りを求めても仕様が無い。

 

だから「愛する」というのは、心の癖に寄り添うということなんだと思う。

 

その人の心を占める気持ちの成分はほぼ変わらない。

 

その前提に立つなら、

 

充実感、安定、欺瞞、虚しさ、孤独感、劣等感、優越感、嫉妬、不安、自責、刹那、回顧・・・

 

その成分の配分はひとそれぞれで、それを「個性」と呼ぶんだろう。

 

 

 

 

愛なんてクソくらえ、夏。

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※ 本文と写真は何の関係もありません。

 

アラサ―女子のための性愛コラムサイト『AM』というサイトがありまして

AM「アム」|非恋愛時代に未来はあるのだろうか

 そこに「ファーレンハイトさん」という、「男女のモテをアジテーションする」脱力系ヤリチン(しかもイケメンだった・・・)コラムニストが寄稿されてるんですが、

【この方です】

https://twitter.com/fahrenheitize

 そのファーさんがtwitterでこんなことをつぶやいていたの。

【ファーさん6月23日のつぶやき】

ふむふむふむ、これだね。

【人付き合いは「腹六分」で 美輪明宏さん】

人付き合いは「腹六分」で 美輪明宏さん アールグレイはいかが?/ウェブリブログ

「人間関係は腹6分でちょうど良い」そうわかっているはずなのに、人はその目分量を守らない。守れない。

「目分量を守れない」ことのひとつに、人は人との間に「関係性」を作ろうとし、名前をつけたがり、「関係性」に役割を望む(そしてそれは度が過ぎて、押し付けになる)ことがあるんじゃないかと思う。

 

人と人を「点」と「点」のままで許さず、「点」を「関係性」という線でつなごうとし、そして「関係性」を理由に、相手に対して「こうあってほしい、あるべきだ」を望む。 

本当は相手の愛らしいところ、いびつなところ、強さ弱さなど、その人独自に「感じる」ものがあって「もっと一緒に居たい」と思ったのに。その時点で、その人は「点」であったはずなのに。

その人と自分(点と点)をへその緒のごとく当然のように一本の線で結び、その線に「恋人」「妻、旦那」「一番好きな人」「セカンド」「愛人」「親友」「パートナー」など、色んな「なまえ」を付ける。「なまえのない関係」に耐えられないから。「わたしたちっていったいどういう関係なの?」と。

 そしてその名前のある関係性を逆手にとって相手との線の太さ、強度をはかる。「恋人、夫婦だったらこうあるべきでしょ」と。

 

わたし自身、昔はただ「恋されてる」ことを逆手にとって、相手に当然のように糸をくくりつけ、その強度を計ったり試したりしていた。 

そしてそのしっぺ返しかのように、逆の立場にも立つことにもなった。

 「惚れた弱み」というけれど、それはヒリヒリして、楽しくて、刺激的で、しかしとってっつっもっなっくっ疲弊するものだった。

でも、それはわたしが点である彼との間に線を結びたがって、その線を維持したいがために勝手に振り回されていただけなのだ。

それは「愛」ではなく、「自己肯定の低い片想い」だったんだと思う。我ながら。

 

以前、相手の浮気だなんだで悩んでいる時、ある人に「執着してるうちは、それは愛ではなくてただの恋だ」と言われたことがある。

「あなたのしてることは愛じゃないよ、ただの執着、恋だよ」「相手を愛してあげなよ」と。

それを聞いて、あぁ相手と自分を腹の底から切り分けて考えられるようになって、はじめて執着から解放され、「愛する」ことが出来るのかなと思った。 

だとすると、愛するということは「点」と「点」のまま居られる、存在しあえるということなのだろうか。

そんなことをぐるぐると考えた挙句に、でもそんなこと考えなくたって、お互い線で結び合うことが「心地良い」と思えれば、それでいいんだろうな、とも思う。

周りを見ているところ、もっと自然にやきもち焼きあったり、信じ合ったり、支え合ったりしてるもの。

目分量を計り間違えると、大概の関係は破綻に向かう。だけど目分量を間違えても許してもらえる、受け入れられる相手だって居るんだろう。 

わたしにも出来るようになるのかな。

果てしない難題である。

 

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「なぜ男は歓楽街に行くのか」

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先日、ある男性と世間話の延長線上で、「なぜ男は歓楽街に行くのか」という話をした。

もちろん性欲もある。だけどそれだけでもないんじゃないか。

その男性が言った。

「女性に底抜けに優しくされたいから」だと。


歓楽街の夜の蝶・キャバクラ嬢や風俗嬢など、プロの方たちは、めったなことが無い限り「お客さま」を否定しない。

男性にしてみれば、普段なら女性に責められる自分の愚かさもだらしなさも、気持ち悪さもウザささえも、ミーラーボールの如くキラキラくるくる変わる表情で明るく飲んで騒いで、ボディタッチなんてしてくれちゃったりして笑い飛ばしてくれたり、

壇蜜ばりの微笑で「お疲れさまだね」「●●サン(しかも男性の大好きなサン付だったりあだ名呼びである)すごいよ、頑張ってるよ」「大丈夫だよ」と己を全肯定してくれる。

 激戦の歓楽街で働く彼女たちは、人一倍プロフェッショナルである。

壇蜜が世の男性を「殿方」と呼んで労り、おっさんは週刊誌片手に心の目頭を熱くした昨今であるが、彼女は歓楽街の女性たちと同じことを誌面とブラウン管の中で全うしようとしているように見える。)

 

かたや素人女子たちは、どんなに優しい彼女だって妻だって、

「いついかなる時も彼氏や旦那を優しく、包容し、全肯定してくれる」ことはまず、ない。

 

全肯定ですよ!全肯定!!(ガタッといきなり立ち上がる)

 

べつにこちらとて、きついこと言いたくて接しているわけじゃないけど、ホルモンバランスも乱れれば、家事育児仕事もあり、女性が男性をいついかなる場合も全肯定するには、現実があまりにも過酷過ぎるのである。

それを要求するのは「心をなくせホルモンなくせ殺せ己の自我までも」と言ってるもんだからね。(何の標語)

そんなのまず無理ですと。


それに、優しい彼女や妻が居ても、「こんなことを言うと、すると怒られるのでは、嫌われてしまうのでは」と遠慮してしまうのが普通の(性格の良いほうの)男性である…。

 

以前、下記のエントリに、男性は基本的に「何でも自分を許して愛して肯定してくれる、理想の母親のような(母親にかつて許されていた、もしくは求めていた愛情で包容してくれる)女性=菩薩」を無意識で求めてしまう傾向にあるのでは、と書いた。

「感想:『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』」

http://nyankichitter.hatenablog.com/entry/2014/04/30/013339

 

そんな無意識の下に隠した母性への幻想を歓楽街に求めてるんじゃないだろうか。


かたやそう言うと決まって、

「彼女やプロの人には勃起とセット、母親には求めない」(当たり前や)

「彼女には愛情を求めるけれど、プロの人には性欲のみ(`・ω・´)キリッ」

という人もいるでしょう。

 

よかったですね、割り切れてて。。

・・・でもわたしはあえて言いたい。

 

「実際、そんなに性欲強いですか?」と。


ある作家の方とのLINEで、「男も女も性欲ないのにセックスしようとしすぎ。愛されたさを性欲だと思い込んでますよ、女も男も。」って話をしていたのだけど(しかも朝6時)、わたしは寝ぼけ眼でまさに、とひとり膝を打ったね。

ひとは、「底抜けに優しくされ」て、「自分を全肯定してもらいたい」という気持ちを多かれ少なかれ持っている。

そしてひとは愛されたさ(精神的なさみしさ)と性欲をよく混合する。


そんな混合した夜の翌朝「こんなことをしても満たされない・・・」と気付くこともある。

そう、わかっちゃいるんだけど、今すぐ、確実に愛されたさを解消しようとする。

プロアマ関係なく、このことをお互いに理解しあっている関係、理解しあってなくても一夜限りなら傷も浅いというもんだが、大概は片方がもう片方に執着し出すものである。

(ホルモン分泌の性質上、女性は一度セックスした相手に対して愛情を抱きやすい。そして途端に執着された男性は逃げる。「やり逃げ」と呼ばれるものがこれである。男女逆の場合、女性が追いかけられます。だから女もやり逃げして執着されることも可能)

女のプロであるクラブのお姉さんだって、「枕」ナシにお客を長い間引っ張るのに一苦労なのである(「いかにヤラずに、単価高く、長く通ってもらうか」の攻防戦)。素人娘言わんをや。

男性客はお店で肯定された延長線上で、お店の外の自分も、肯定してほしくてそのお姉さんと関係を持とうとするんだよなぁ。

「オレってただの客なの?」って。

そう、ただのお客なんだけど。

もちろん「入れ込んだ分の投資を回収したい」、という思いもあるけれど。でもそんな損得勘定なら、同じこと繰り返さないでしょ。 


底ぬけに優しくされたくて、愛されたくて、自分を全部肯定してほしい。

ただの「性欲」とは言い切れない、そんな不器用な人間の欲求が、歓楽街のネオンを今夜も煌々と光らせる。 

もしかしたら歓楽街から離れた町の、ネオンの何万分の一の灯りの部屋でも、誰かが誰かのための歓楽街になっているかもしれない。 

明け方、相手を優しく肯定してあげた方は、今度は自分が底抜けに優しくしてもらいたくなるかもしれない。

優しくされた方も「本当はあの人に、底抜けに優しくされたかったな」ってまた泣けてくるかもしれない。(こんなツライ話ないけど)

 

そんなことを帰りの電車でつらつらと綴り、今宵もわたしは煌々と灯る赤と黄色と白と緑の光の中へ吸い込まれ、「金麦」という「一見、夫婦愛がテーマのCMに見えて実は不倫がテーマ」の快楽装置に手を伸ばす。

(訳:サンクスはわたしにとって平日の歓楽街である)


誰かに底抜けに優しくされたい、そんな夜もある。

でも誰かに連絡したくても、なおさら傷ついてしまいそうで、出来ない。


明日も早い。早く酔っ払って眠りにつかなきゃと、ぼんやりとした頭で何も起こらない携帯を弄ぶ午前1時。



アラサーOL華金徒然草。

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朝、貧血の身体をよよよと引きずりながらすっぴんで出社して、この年次になってもトイレで化粧直しも出来ないチキンなわたしは昼過ぎに一番奥の個室でとりあえず眉毛書いて、よよよとおぼつかない足どりで再びフロアに戻った。

お昼過ぎになっても頭働かないからコンビニでアリナミン注入して、夕方頃やっと本調子だぜって仕事し出すんだけど後ろ倒しにした仕事は当然終わらない雰囲気を醸し出してて体力の限界が仕事の限界という言葉が脳裏をよぎる。


後輩には先輩風吹かせて脚を組み、当時のわたしには到底理解出来なかったであろうことをくどくどとのたまわり、上司には苦笑いしながらへぇ頑張りますと応え、夕飯がわりにちょっとした野菜とドーパミン分泌のためのお菓子を食べて仕事をやっつける。


ドーパミン効果もむなしく残務との戦いに負け、マルイもルミネも閉まった時間に、仕事帰りの買い物なんてコンビニかドンキしか行ったことないなと思いながらあー脚痛いと無理に履いたヒールをひきずりならす帰り道。コツコツ。


iPhoneで聞いてるのはなんとglobeで「小室哲哉にとってKEIKOは何がほかと違ったんだろ」「ってか長年ユニット組んでて気付かないってどういうことや」とか思いながら今時globe聞いてる人ってどんだけ居るんかな恥ずかしいなまぁいいけどってひとりごちてナチュラルローソン寄って金麦とおツマミ買って、家帰る直前にプシュッとして、部屋に入ってとりあえず服脱いで倒れこむ。つかれたー。


小一時間程弄んだ携帯には当然何も起こらなくて、この時間が無駄なんだよないい加減風呂入らなきゃと重い身体を起こそうとして腹筋しなきゃいけないのに、とか思う。お風呂に入ろうと下着に手をかけたところでしまったお風呂入るまで金麦ガマンしておけばよかったと、後悔がちょっとにじんだ湯船に顔うずめて何が悲しいかわからないけどいやほんとはぜんぶ悲しくてさみしくて一瞬泣いたような気分になるけど泣けなくてたぶんこの気持ちは金麦のせい。


お風呂上がって友だちから「結婚したい!」ってLINEきてて、「どした!」って返したらやつもやっぱり家で金麦飲んでて、お前もか、みたいになって、「一人飲みは危険だ」と意見合致するものの多分来週も金麦買ってるんだろう、お互い。

「なんなら帰りにglobe聞いた」って言ったら「きみのなまえはー」って返ってきてそこでperfume of loveを打ってくるあたりさすがすぎるなと思って今度ははほんとに涙が出そうになった。
そんな親友がいることがやっぱり幸せで、そんな自分も悪くないんじゃないかと思った、そんな夜。





高望みは、せつない。

 

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この間居酒屋で飲んでたら、隣で30代の男性グループが「女はアラサーになったら条件ばかり高望みして、かわいげがない。終了!」「結婚してれば別だけどね~」みたいな話で盛り上がってたんですよ。

27歳文京区シングルの部アラサー代表(なんの競技?)として、その得意におっぴろげた鼻の穴にテーブル上の焼きそら豆を房ごと突っ込んで差し上げたい怒りで二の腕がぷるぷるしたんですが、おぼつかない足どりで(酒で)とぼとぼと帰りましたよ。

 

くっ!!(悔しくて歯ぎしり)

プシュッ(金麦で飲み直す@自宅)

「女は歳を取るほど条件を高望みする」といわれる。年齢、学歴、年収だけじゃなく、「こんなタイプじゃないと話が合わない」「結局見た目がタイプじゃないと続かない」とか。OKが少なくなるというよりはNGが多くなっていく。

それは経験値に比例して、相手や自分に対して期待値が高まって要望が多くなったり、「出し惜しんでるから」と見る向きがあるがそんな理由だけじゃないんだよとわたしは思う。

むしろ、そこまで自分の価値を信じて、要望欲求に振り切れる人は、逆に今までの経験値(交際経験など)が少ない人の方が多い気がする。

過去にある程度の経験値がある人は、「あの人ともうまくいかなかった」って失恋の度に自信喪失しているし、ほかの女の子と比較もしてきたし、過去の「タラレバ」は死ぬほど考えてきた。

そんな自分自身と「男性」に対して、徐々に諦めていってる、もしくは絶望していってるからこそ「この際条件に転ぶか、、、」(最低限そこは頑張らんと、今まで恋愛で泣いたり悩んでたりしたわたしがうかばれんやないか)と思う心理もあるんじゃないかと思うんです。

それを一緒くたに「高望み」と呼ぶなら話は別ですが、冒頭のソラマメ野郎ども(なんか別の悪口みたいだな)がこの背景を理解しているとは思えない。 

もちろん経験と比例して「これなら昔の彼の方が・・・」という心理は、存在します。

「大好きな人と恋愛して結婚したい」という欲求「若くもなくなっているし、早く手を打たなければ」という焦り、「でも最低限は頑張らないと、自分がうかばれない」というプレッシャーの混在

 ハタから見たら、条件で男を見ているように見える女性のなかには、もし好きな人に愛されるなら、条件なんか度外視で一緒に居たいと思う人だっているわけです。

だけど、それが一番難しいって分かってるから、その諦める気持ちに、せめてスペックで価値をつけるのです。とか。だからね、高望みってほんとは切ないんすよものすごく。

他人の悲しみとせつなさは笑っちゃいけないという家訓にのっとると、「他人の高望みを笑う前に、己の想像力に思いを馳せろ」と思うわけです。

もちろん一番良いのは、年齢とか世間体とか他人の評価なんか気にせず「自分は自分!」と思って人生を楽しむこと。自己受容、自己肯定出来たら、恋愛だって結婚だってぽんぽん出来るし、それが出来なくっても、もっと楽に生きていける。過去の恋愛も執着なくリリース出来る。

とは言っても、さみしい夜も不安になる夜もあって、そんな時は月でも愛でながら金麦飲みましょう。そら豆の塩茹ででも酒の肴にしてさ。