しまずあいみのぽんこつ日誌

~アラフォーになったのでタイトル変えました~

ひとの心の成分は変わらない。

 

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先日ある人と話をしていて、「生き方の癖って治らないよなぁ」と思った。

例えば、異性に刺激を求めて、振り回すようなオラオラ系の男と付き合って身も心もボロボロになった子が、仏のようにすくいあげてくれた安定安心無刺激無添加の塩顔の彼を「刺激が無い」「やっぱりわたしオラオラ系じゃないと無理」と不満を募らせるようになったりとか。

もっと辛いのが、ドキドキハラハラが欲しいと、痛くもない塩顔の腹を探ったりいちゃもんのような喧嘩をふっかけて関係自体を壊したりとか。

片や「寂しい、誰かに愛して欲しい」と理解者を求めていたはずなのに、そんな自分を受け入れてくれるやさしい彼女が出来ても結局相手そっちのけで、また自分の世界という押入れに帰っていく何も出てこないこじらせドラえもん男とか。

理想と現実の狭間でふわふわしてたい「万年どうしたいかわからない子ちゃん」も、わかっちゃいながら興奮と刺激を追い求めるドーパミン症候群も、アーティストかぶれの孤独好きも、事故物件ばかり引き当てるだめんず好きも、自称「メンヘラ牧場経営者」も、心は「いつもの場所に落ち着くように」プログラミングされているかのようだ。

あるエステを経営者曰く、ずっと太ってた人が一時的に痩せても、身体は元の体型に戻ろうとしてリバウンドするらしい。整体の経営者も、身体が歪んでる人が一時的にマッサージや整体で正しても、身体がいつものバランスに戻ろうとしてしまうと言っていた。

人間の骨格や性格は4歳・14歳でその多くが形成されて、18歳迄で大概確立されると言われているけれど、人間そこからそう遠くにはいけないらしいのだ。もちろん人は「成長」する生き物だけど、それは枝葉の話で、思考の癖・行動の癖、すなわち生き方の癖はそうなおらないのかもしれない。

人生は、同じところで躓きがちだ。だから「人間なんてみんなバカ」なのかもしれないし、だから「みんなバカじゃない」のかもしれない。 

 

近しい相手の生き方の癖を見て「問題」と感じた時、「愛してるなら、ちゃんと癖を正すために言うべきことを言うべきだ」って思いがちなのだけど、その人だって自分の生き方の癖で社会とのバランスを必死にとってきたかもしれない。

自分自身でその癖といつどう向き合うか、そもそも向き合うタイミングが来るかどうかは当人だってわからない。

昔知り合いに優柔不断の優男が居たのだけど、その人はなんだかんだモテるのに、そして「結婚したい」と誕生日クリスマス盆暮れ正月新年度の度に宣言していたのに、長年結婚を決めなかった。優柔不断をこじらせて、無理に婚約を迫った彼女に婚約破棄をしたこともあった。

何もかもにルーズでお世辞にも結婚に向いてる私生活ではなかったが、母性本能をくすぐる系の男だったので周りの女性は世話を焼いた。「彼の最後の女になりたい」と奮闘していた美人の知り合いも何人か居たが、彼は相変わらず変わらなかった。

そんな彼がひょんなことからある女性と出会い、傍目にも分かるくらいあらゆるだらしなさを自ら変え、速攻で結婚を決めた時は「心の穴に引っかかる人が現れたのだな」と思った。

人の生き方の癖はなかなか変わらない、とするとその彼の生き方も今後どうなるかはもちろん分からないが、それでも現に彼は「自身が変わろうと決めたタイミング」で自身の生き方の癖と向き合い、変わったのである。

「愛しているから変えたい、伴走したい」と他人を変えようとするのはいくらその人にとって望ましいように見えても、ただのお節介だ。

そして確実に言えるのは、その向き合うかもしれないタイミングというやつは「その人を変えようとする他人」には、ほぼほぼ関与できないということだ。

フランソワーズ・サガンの名言に、「愛すること理解すること。理解するというのは見逃すこと…余計な口出しをしないこと」というような言葉がある。

「愛される」ことに比べて「愛する」というのは、格段に無力で「心の癖にただただ寄り添う」とことしか出来ないのかもしれない。

孤独感・劣等感・優越感・怒り・嫉妬・不安・自責・刹那・哀しさ・博愛…成分の配分はひとそれぞれで、その人の心の成分は変わらない。