しまずあいみのぽんこつ日誌

~アラフォーになったのでタイトル変えました~

「アラサーは第二の思春期」上等論。

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その悩み多き状態を指して、良くも悪くも(どっちかっていうとネガティブな意味で)「アラサ―は第二の思春期」と呼ぶ人がいるけど、歳くってから思春期を味わえるとか最高じゃないか、と最近思う。

世間は「女は30まで」とか「アラサーww」とか無駄に焦らすし、それで焦ったり悩んだりセンチメンタルになると「厨二病乙w」とか「メンヘラw」とか言われたりもするし。

「お前ら中2どころか近所のいじめっ子のクソガキじゃん」と一蹴出来れば良けれど、ジャイ子だって内心傷ついたりもするさ。世間に何か言われなくても、じゅうぶんプレッシャーを感じる多感な時期である。でもだからこそ、言いたい。

「アラサー思春期こそ、感性を磨くとき」と。

「悩み多き多感なタイミング」こそ、感性を磨ける時。そんな時こそ、思い存分悩み、考え、どんどん人に会い、良き友と語らい、美味しい酒を飲み、彼や旦那とじゃいけないような店にもこっそり行き、美しいものをたくさん愛でて、楽しければ朝まで仕事をし、感性を磨けばいいのだ。そのための武器や器(自立できる経済力、可処分所得、そこそこの会話力、良いものと出会うアンテナや引き出し、働ける体力)を持ってるのだから。

多感な人に向かって「そんなことにいちいち悩んでるなんて無駄だよ」と言う人がいるけれど、だって思春期って悩むものじゃんと思う。

彼氏が居なかったら「結婚出来ないかも」と焦り、居たら居たで「この人でわたしはいいんだろうか」と悩み、産んでもないのに産んだ後のキャリアに悩み、産んだら産んだでまた悩む。

働いてたら働いてたらで「ずっとこのままこの仕事を続けるんだろうか」と悩み、引退したら引退したで焦りや退屈を覚える。「悩むより行動」したらしたで、新たな悩みが生じる。

 

「悩むと考えるは別物」と言うけれど、ただえさえ不器用な状態になってる人間にそんな器用な区分出来るわけないんすよ。

それはその多感な時期を「抜けた人」だから出来ることであって、だったらわかってやれよ(くれよ)と思う。

例えば結婚した人は、独身で焦ってた気持ちって忘れちゃうじゃないですか。なんか相談されても「えーまだ大丈夫だよ~、ゆっくり探せばいいじゃん!」って。

 おいおいアンタ、夜な夜なバルでワイングラスの持ち手を指でへし折る勢いで「けぇっこんしたいぃぃぃ!」ってくだまいとったやんけって。アヒージョの海老が生き返ってふっとんだかと思うほどフォークぶっさしてたやろと。

 それくらい気持ちも感性も、状況に応じて都合よく変わるんすよ。大人になっても。

 

十代の思春期には、モテないとか親友が居ないとか、可愛くないだの痩せてないだの、親が嫌だ学校が嫌だそんなことを誰もが何かしら感じていたと思う。後から考えればそんな「くだらないこと」どうでもよかったな、と思う反面、そうした思春期の心を占めていた「くだらないこと」が、今の自分を作っていたりする。悩みやコンプレックスは、その人の原点、原動力、肥やし、生きるヒントだ。

14歳の頃のわたしが、もうすぐ28歳になるわたしをつくり、28歳のわたしが、30代、40代のわたしをつくっている。

思春期第一派の14歳の頃と違って、今は親の庇護も無いし、体力も年々衰えるかもしれないけれど、そのぶん親の干渉に悩まされる必要もないし、友人同士の幼稚で面倒ないざこざもない。

あの頃と比べて、出世やら年収やら結婚やら妊娠やら育児やら、周りの子たちと歴然と差が着いて焦ったり、「現実」に凹むかもしれない。だけどあの頃だってみんな同じ制服着てたからわかんなかっただけで、そんなの生まれた時から歴然とあったのだ。

「人生に無駄なことは何もない」は半分ホントで半分ウソだと思う。何を無駄と思うか思わないかは個々人の感性に依る。
確かなことは「感性」が無いと人は自分で物事を捉えることが出来ない。だから、結果「無駄だった」でもいいし「無駄じゃなかった」でもいいから、わたしは自分の拠りどころとなる感性を磨きたいし、幅を広げたい。

感性を磨いて腹も舌も肥やして、どうせなら味わい深く生きたいものである。