アラサーOL クソ日誌。

クソみたいな愛おしい日々。

母の狂気

唐突だけど、わたしの小中学生の頃のコンプレックスは
1.長女である
2.くせ毛
3.母親が変(ヘン)
ということだった。
今となっては自他ともに認める「病的なシスコン」の私だが、片田舎で過ごす小中学校時代は兄姉が欲しくて仕方がなかった。
というのも「あいつのバックには○○さんがついてるぜ」的な不良版スネ夫、マイルドヤンキーど真ん中の会話が日常茶飯事のコミュニティに居り、有力な姉、兄が居ないというのは、生まれながらにしての権力差、損をしたような気分だった。友人の垢抜けたヤンキーのお姉さんを見る度、「あたしもあんなカッコイイおねいさんが居たらなぁぁぁ!」と思ったものである。
しかしそんなチーマーのはしくれ的悩み、長年のコンプレックスであった頑固で残念なくせ毛問題よりなにより、母親の破壊力は偉大であった。
うちは三姉妹だったので、男の子が欲しいばかりに、里親制度でもらって来たオス猫に勝手に「ペニ」と名付ける。妹が大事にしているクマのぬいぐるみに勝手に「ポコ」と名付ける。
クリスマスのプレゼントが置いてあるのはなぜか毎年12月26日の朝、しかも包みには「サンタクロースママより」という謎の痕跡、物心ついた時には既にわたしたち姉妹はサンタの正体を知っていた。
毎夕食の「いただきます」や、入学式や卒業式の写真撮影を、日をまたいで2回ずつやり直しさせられる。母親の嫌いな色や文字や数字は口にしたら使ってはいけない。
自分の名前が嫌いな母親は、芸歴も犯罪歴も無いはずなのにいくつかの名前を操り、美容室や服屋などいろんなところから知らない名前のダイレクトメールが郵便受けによく入っていて「お母さん、今度は瑠美になったんだ…。」もなんとも言えない気持ちになっていた。ちなみにわたしたち姉妹は母親の年齢を未だに知らされておらず、母親の年齢が未だにわからない。
母親は美人でおっとりアニメ声なので、何も知らない他所の家からは「本当に穏やかなお母さんね」とたびたび言われたが、わたしのヤンキーの友人たちからも「あの子の母親はマジで変わってる」と一目を置かれていた、その実どんなヤンキーも黙る天下無敵の絶対君主ハハジョンイルであった。
父親と別居後はさらにドライブがかかり、娘は誰もそう呼んでないのに自分のことを「ママ」と呼ぶ、この世間知らずでお嬢上がりのメルヘンサイキッカーの母親が次何を言い出すかと、娘たちは日々戦々恐々であった。
 
そんな母が、ある日を境に踊り狂うようになった。突然の物音に驚いて、自室の2階から台所に降りると、母親がラジカセでプリンスをかけ、シャウトしていた。包丁やおたまを持ったまま腰をひねりまくり、洗濯物を振り回して踊り、もちろん娘が電話していても容赦無くボリュームをあげて踊る。
わたしの友人を同乗させた車の中でも、サザンをBGMに頭をガックンガックン前後に振りながら運転し、友だちの顔を申し訳なくのぞくと、やはり青ざめていた。
「ママ、音楽に反応しちゃって止まらないのよねぇ。」そう言って来る日も来る日も踊り続けていた。
友人が居る場や子どもの運動会でも踊り狂う母を「ここはラテンの国じゃないから」と妹たちは泣いて嫌がったのに対し、姉の私は日々の自分の素行の悪さに後ろめたさを感じて、無抵抗に受け入れることでそのバーターを画策した卑怯者であった。
「ママが楽しいと思えることなんてこれだけなのよ」と言いながら、踊り狂う母の姿を目の端で捉えながら「シュールだなぁ…」と食卓に並んだ夕食にもそもそと箸をすすめた。
中学2年生のある日の夕方、当時親に内緒で付き合っていた髪がオレンジ色のヤンキー彼氏と、近所のショッピングセンターをぶらついていた。飲み物か何かを買いに売り場をうろついていたら、Jポップのインストを死ねるほどチープにした有線にノッて踊る人の姿があった。
 
一瞬で母だと確信し、来た道を一目散に逆走するわたしを不思議に思って、わたしの名前を呼ぶヤンキー。呼ぶんじゃねぇクソがと牽制するも、時すでに遅し。後ろから母親の怒声が聞こえる。「あんた目立つんだから、悪いこと出来ないんだからね!」
ショッピングセンターで異様に目立つ母を先に発見したのはわたしである・・・。
 
それから半年、家庭内でたくさんのゴタゴタがあり、母親は狂気を使い果したかのように消耗していった。いつしか「帰ったら母親が踊り狂う」ことは無くなった。
その後田舎から別の地に移り住み、子は親元を離れ、母はいつのまにか「他所の家から見たまんま」の本当に穏やかな母親になっていった。
自分の歳を気にしたり、よく昔の話をするようになった。毎年ひと回りずつ小さくなったように感じる母の姿に、ハハジョンイルの面影はもう微塵も感じられなくなっていった。
 
先日、中学時代の塾の先生とわたしたち三姉妹で14年ぶりの再会を祝して居酒屋で飲んでいた。昔話にひとしきり花を咲かせた後、妹たちがさみしそうな顔で言った。
「お母さん、踊らなくなったじゃん。踊ってた時は本当に嫌で泣いてたんだけど、今になって思うと、何で嫌がったんだろう、もっと自由に踊ってって言えたらよかったって最近思うんだよね。」
「うん、今なら思いきり踊ってって思うよ。」 
 
すかさず「いや、じゅうぶん自由に踊ってたから大丈夫」と言いそうになったけれど、妹たちの言葉にはそれ以上の思いがあるんだと理解した。本当に心の優しい妹たちである。
 
その夜母親から電話がかかってきた。用件が終わり、電話を切ろうとする時、今日のことを話そうか、と一瞬考えた。
「お母さんってさ…」
「なぁ〜に?」(アニメ声)
最近、踊ってるの?と聞こうとしたけど、思いが先行するあまり恥ずかしく緊張して、適当に話題を変えて、電話を切った。
 
昔、わたしが友人関係で悩んでると、母は決まってこう言った。「ママは友だちがひとりも居たことがないから、誰にも相談したことないし、ずーっとそうやってきたのよ。そんなくだらないことで悩んだことない。」
当時はそんなアドバイスあるかよと思っていたけれど、母が「母」になった時には彼女の中ですでに大きな傷があって、わたしたちにはどうすることもできなかった。その傷をなぞるように生きる母を、わたしたちは見ていた。
波乱万丈の母の半生。患った病、叶わなかった夢。思うようにいかなかった結婚生活。娘三人をひとりで育てるプレッシャー。飼い猫に変な名前をつけるのも、狂ったように踊りまくるのも、全部母親の「狂気の発露」だったんだ。
もちろん「満たされない思いを、踊り狂うことで発散させていた」だけではない。そんなちんけな話じゃないよね、母が踊り狂う時のあの光悦の表情を忘れない。
 
複雑な思いがからみあい派生し、その追求は苦しくも甘美。
「狂気」とはきっとそういうものだ。最近よく思う。自分の中に狂気を持っていること、それはとても強く美しいことなのだと。平凡とか非凡とかの話ではない。変えようとしても変えられない。誰もが内側に秘めている「その人たらしめている理由」。
 
そして「自分という狂気に耐える」「自分ひとりでその狂気と向き合う、追求する」その苦しさと難しさを思う。喜びや悲しみ、寂しさ、懐かしさという思念を、人はなかやか自分ひとりで抱きしめることが出来ない。それどころか、今はそれをエサのようにSNSに撒きちらかし、共感や承認を集めようとしている。
そんな「ねぇねぇ聞いてよ!」という行為が、ありふれた日常になった今。自分ひとりで自分という、人生という「狂気」と向き合い、発露し、耐えようとすることは決して容易でないことを知る。
 
母親の狂気は、誰にも理解されないけれど、とても尊く美しいものだと、娘は思っているよ。
何をやってもいいから、あの頃のように自分の狂気を救いあげて、自信満々に突き進んで欲しい。どうか、自分にため息をつかないで。
そんな娘のワガママを今さら伝えない方がいいのかもしれないと思って、今日の電話でも何も言えなかった。