しまずあいみのぽんこつ日誌

~アラフォーになったのでタイトル変えました~

自分を「許す」ための「憎む」強さ

最近「大人になる」ってことをよく考えるのだけど、世の中で使われる「大人」ってイコール「他人を許せる人」って文脈が多いなぁと思う。
ひどい親も、支配しようとする異性も、自分が「大人」になって許しましょうと。許す対象はいつも「他者」だ。だけどわたしは、大人とは「自分を許し、そのためにはまず他人を静かに憎む決断も辞さない人」ではないかと最近思う。
「他者を本質的に許すには自分を許さなければ」という話はよく言われるものの、じゃあまず自分を許すためには何が必要なのかということはほぼ語られていないように思う。
わたしはその解のひとつとして、「他者を憎みきる」ということが必要な気がしているのだ。
 
 常々、世間では「他者を許すこと」は成熟と受け取られ、「他者を憎む」は、未熟さと受け取られがちである。「他者への憎しみ」が「悪」と捉えられ理由として、「憎しみは連鎖するから」と言われることが多いが、「健全に」憎みきった時、それは本当に連鎖するのだろうか。
むしろ憎みきれずに、自分を責めたり、自己正当化したり、同情や救いを求めようとすると、その渇望感や満たされない時の失望がエスカレートし「恨み」へとつながる可能性だってある。
その意味で人生の大きな苦しみのひとつは、親を憎むことだと思う。それは容易に「憎みきれない」から。親が開けた心の穴が、その子どもを何かしらの形で生き辛くしている時。心に巣食うその存在に手をかけて殺めようとするけれど、その対象が自分の親そのものであり、そしてそれが既に自分自身になってしまっていることに気付く。こんなにも憎んでいるはずなのに、むしろ憎むべきであるのに、どうしようもなく愛している。すがりついてしまう。その苦しさは、周囲の想像をはるかに超えているのではないか。実際にわたしは親族にそういう思いを抱える人が居るのだが、彼女の苦しみはわたしには一生かけても理解しきれないと思う。

 

他者を「許す」「憎む」ことが出来るのは、ある意味自分以外の誰か、何かのせいに出来てるからだ。だから「他者を許す」なんてことは世の中で言われてる程、特別美しいことでもなんでもなくて、そうすれば生きやすくなるという手段でしかないという考え方は出来ないか。
その意味では「許す」ことも「憎む」こともさほど変わらないように思う。
そもそも「憎んでしまう」「憎んでも憎みきれない」「恨んでしまう」と自覚のある人は、本当は他人のせいになんてしてなくて、むしろ自分自身を責め過ぎている場合が多いんじゃないかと思う。だから、もう自分を許して欲しい。そしてそのためには親だってなんだって憎んで欲しいと思う。他者を許すなんて、いつだって良いのだから。
 
他者を許したくなれば許せばいいし、憎みたければ憎みきったらいい。「憎みきる」と言うのは、「許せない自分はダメなんじゃないか」なんて思わず、「どうしたって無理」と総括することである。出来れば口に出して何百回何千回、何万回でも。
憎みきってしまえば、歳月を経て自分の中で昇華されていく。いつか「許せる」時が訪れたら許してもいいし、許さなくてもなんの問題も無い。
 「自分を許そう」ということは、気休めなんかではなく、むしろ大変に難しいことだと思う。
だからこそ人が弱さを抱えつつも負の連鎖を断ち切り、立ち上がろうとする姿は美しく、後に続く同じ思いを抱えた人は何よりも励まされ、救われるのだろう。
他者を「許す」ことも「憎む」ことも、自分自身の浄化である。わたしが言っても説得力がなく力不足ではあるけれど、わたしはそんな人を全力で肯定したいと思う。