アラサーOL悲喜こもごも。

アラサーというかどんサー(30歳)OL。独身モラトリアムを謳歌するアラサーOLの日記です。

自分を「許す」ための「憎む」強さ

最近「大人になる」ってことをよく考えるのだけど、世の中で使われる「大人」ってイコール、「他者を許せる人」って文脈が多いなぁと。
 
ひどい親も、支配しようとする異性も、自分が「大人」になって許しましょうと。
許す対象はいつも「他者」だ。
 
だけど、そもそもつまり、大人って「自分を許すことが出来る人」だと最近思う。
 
 
というのも、他者を許してる人は自分を許してる人だと思うから。
そして他者を許せる人は、他者を憎みきれる人でもある。
 
常々、世間では「他者を許す強さ」については語られるのに「憎む強さ」についてほぼ語られないと感じる。
 
「許す」方が美しく、そして生きやすくラクだと潜在的に理解しているからだろうか。
 
「他者を許す」は成熟、愛情と受け取られ、「他者を憎む」は、未熟さ、感情の未消化、こじれと安易に受け取られる。
 
 
「他者への憎しみ」が「悪」と捉えられる場合、「憎しみは連鎖するから」と言われるんだけど、健全に憎みきることが出来れば、実はそれは連鎖しないのではないか。
 
むしろ憎みきれずに、自分を責めたり、自己正当化したり、救いを求めようとすると、その渇望感や満たされない時の失望がエスカレートし、「恨み」に変わる。
そして恨みは連鎖する。世の中の争いごとは恨みの連鎖から起こる。
自分にとっても周りにとっても、一番不幸なのは「恨む」ことである。
 
 
その意味で人生の大きな苦しみのひとつは、親を憎むことだと思う。
それは「憎みきれない」から。
 

親が開けた心の穴が、その子どもを何かしらの形で生き辛くしている時。

親が確かにあの頃のまま、自分の中で生き続けている、自分自身が脈々と受け継いでいることに気付く。
 
本当はその親を自分の中で生かしたって殺したっていいんだけど、人は自分にとって大事な存在を殺しきれない。
 
その存在に手をかけて殺めようとすると、その対象が親であり既に自分自身であることに気付く。
憎むべきなのに、どうしようもなく愛している。すがりついてしまう。
 
その苦しさは、周りの想像をはるかに超えているだろう。
 
 
 
他者を「許す」「憎む」ことが出来るのは、ある意味自分以外の誰か、何かのせいに出来てるから。
その意味でこの二つは同一だと思う。 
 
だから「他者を許す」なんてことは世の中で言われてる程、特別美しいことでもなんでもなくて、そうすれば生きやすくなるという手段でしかない。
 
そして「憎む」ことも、世の中で言われてる程、悪いことじゃない。
その意味で、「許す」ことも「憎む」ことも、生きやすくする手段のひとつだ。
 
「憎んでしまう」「憎んでも憎みきれない」「恨んでしまう」人は、本当は他人のせいになんてしてなくて、むしろ自分自身を責め過ぎている場合が多いんじゃないかと思う。
 
 
だから、もう自分を許して欲しいと思う。
他者を許すなんて、その次でいいから。
 
 
まず自分自身を許すために、他者を許したくなれば許せばいいし、憎みたければ憎みきったらいい。
「憎みきる」と言うのは、「許せない自分はダメなんじゃないか」なんて思わず、「どうしたって無理」と総括することである。口に出して何万回、何億回でも言ってみる。
もちろん許したり、憎んだりの二転三転やグラデーションの幅はあるけれど。
 
憎みきってしまえば、そして時間が経てば自分の中で消化されていく。
いつか「許せる」時が訪れたら許してもいいし、許さなくてもなんの問題も無い。
 
 
人が弱さを抱えつつも負の連鎖を断ち切り、立ち上がろうとする姿こそが本当に美しく、後に続く同じ思いを抱えた人は何よりも励まされ、救われるはず。
 
他者を「許す」ことも「憎む」ことも、自分自身の浄化である。
 
「自分を許そう」ということは、気休めなんかではなく、むしろ大変に難しいことだと思う。
でも、本当の「救い」とは「自分自身を許す」こと以外に無いのだ。