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アラサーOL悲喜こもごも。

アラサーというかどんサー(30歳)OL。独身モラトリアムを謳歌するアラサーOLの日記です。

「自分がより自分らしく居れる」という愛

常々公言していることだが、わたしは結婚式が苦手である。

長時間の着席に、凝り性末期の身体が耐えられない。そして、自意識過剰なゆえに、こちらまでとても恥ずかしくなってしまうのだ。

幼い頃、家族でデレビを観ていた際にラブシーンが出てくると、突如食卓下の床に穴を掘って入りたい衝動にかられたものだが、それに近いものを感じてしまう(ケーキカットとかまともに顔が上げられない)。

唯一「ご両親へのお手紙朗読」コーナーは安心して顔を上げて拝聴出来るが、よくよく考えたら二次会の帰りの電車時点でもまともに内容を覚えていないような我々が拝聴する必要はなく、親子親族間でめっこり振り返りをしてもらえば済む話ではある。

だいたい、結婚する時は「日頃の感謝を云々」「未熟な私どもに今後もご指導ご鞭撻を」と言っておきながら、離婚時には「二人で決めたことなので」と言う。だったらハナから他人を巻き込まず、二人きりで始めてほしいものである。


もうここまで読んでいただいた時点で、20人ほどにほ軽く軽蔑されてる気がする。

 

だがしかし昨日は、大学時代に愛した後輩のひとりが結婚するというので、迷いに迷って断ることが出来ず(本音)、人生で数回目の披露宴に馳せ参じた次第である。 

結果、柄にもなく、目頭が熱くなってしまった。

何故かと言えば、5,6年ぶりに再会した後輩である新婦が、彼女が私と出会った18歳の頃のまま、いやそれ以上に無邪気に愛されていることが伝わったからである。 

彼女とは大学のサークルの先輩・後輩として出会った。

私の所属するサークルの新入生歓迎コンパに、天然記念物と見まがう天真爛漫さで乗り込んできた九州女子だった。

コンパ会場の居酒屋で、他の新入生女子がニコニコと笑顔で先輩たちと盛り上がってる中、何故かひとり居酒屋の畳で突然スライディングをかまし始めた彼女を「逸材だ」と思い、「キミはいいね!」と口説きまくった。

他の新入生コンパで浮いていたのかもしれない彼女は目をうるうるさせながら懐いてくれた。

そんな無邪気すぎるほど無邪気で、明るくて正直で、そしてなによりひとに対し惜しみなく心を尽くす子だった。

そしてそれゆえに誤解されたり、傷つくことも数多くあった。そんな彼女を、自分がかけられるすべての言葉を尽くして、肯定したいと思った。 それは彼女の明るさと無邪気さに、当時の自分は誰より救われていたからである。


そんな彼女と彼女の旦那になった彼の馴れ初めは、新卒の入社同期らしい。

きっかけは、新婦が自身の誕生日に近所の居酒屋でひとりで飲んでいた(泣ける)ところに、偶然今までまともに会話したことのなかった新郎が同期友人と同じ店に訪れたこと。このエピソードもとことん、彼女らしい。

 

彼女を愛しそうに見つめる新郎に嬉しくなり、写真撮影の際に「いい人に出会ったんだね」と声をかけると、彼女は「こんなわたしを好きになってくれた人が居ました~!!」と目をうるうるさせながら言った。

そんなの、当たり前じゃんか(号泣)。


一部始終、あんなにニコニコ心から無邪気に笑っている花嫁を初めて見た。

あんなに笑ったり、泣いたり、隙あらば目の前の食事に手を伸ばすほど自由な花嫁を、初めて見た。

 

そんな様子を見ながら、私はこの記事のことを思った。

「愛とは、誰かのおかげで自分を愛せるようになること」 芥川賞作家・平野啓一郎氏が説く"自己愛"の正体 | ログミー[o_O]

「愛とは誰かのことを好きになることだ」。この定義自体はもちろん間違っていませんが、今僕が付け加えたいのは、愛とはむしろ「他者のおかげで自分を愛することができるようになることだ」と、そういうふうに考えてみたいと思います。

あの人の前でなら自分は思いっきりリラックスして、素直になれて、いろんなことをさらけ出せる。他の人の前では決してできない。

不幸にして、人間の関係には終わりが来ることがあります。喧嘩別れしてしまうこともあれば、死別してしまうこともあるかもしれません。誰かを失ってしまう悲しみはもちろん、その人の声が聞けない、その人と抱擁できない、いろいろなことがあると思いますが、もう一方で、「その人の前でだけ生きられていた自分を、もう生きることができない」という寂しさがあるのではないでしょうか。

あんなに自由にいろんなことをしゃべれたのはあの人の前だけだった。あんなに素直になれたのはあの人の前だけだった。あんなに馬鹿なことをしてあんなにくだらないことをできたのはあの人の前だけだった。

その人がいなくなってしまって、自分はもう、好きだった自分を生きることができない。それが別れの悲しみなんじゃないでしょうか。

逆ももちろん真なんです。僕は誰かから「あなたのことを愛してます」と言われれば、有頂天になりますね。「やったー!」と。しかし、誰かから「あなたのおかげで自分のことを好きになれた」と告白されたなら、あるいは「他の誰といる時よりもあなたといる時の自分が好き」と告白されたなら、それはなにかもっと胸に迫ってくるものがある気がします。

自分の存在がそんなふうに他者の存在を肯定させているんだということには、なにか感動的な喜びがあります。人間はそんなふうに、好きな自分っていうのを一つ見つけるごとに、生きていくための足場というのができていくんでしょう。

 

私が今回何よりも嬉しかったのは、彼女が歳を重ねても、精神的に不自由になることなく、むしろ新郎から愛されることにより、さらに自由に彼女らしくなっていることだ。

そして式の間も、「自分を貫いて」「自分らしく!」と、至る場所でメッセージしていた彼女。

それは彼女自身の葛藤や闘いが出した答えなのだろう。

その答えを強固な足場の一つとして、夫婦を超え、家族を超え、世の中の多くの人に、その底抜けの明るい笑顔をたくさんの人に見せてほしいと願ってしまう。 

老若男女、金や権力の有る無し、外見や立場や才能にかかわらず、「どんな人からも受け入れられ、愛される人」なんてどこにも居ない。

 みんな心のどこかで拒まれることを恐れ、受け入れられることを願っている。

「居心地の良い自分」「自分のことが好きな自分」で居させてくれる人は、ほんの一握りだ。

だからこそ、愛とは特別で、人を自由にするもの。

自分自身のままで、愛し愛される関係を築き、本当に自由になった彼女は、本当に美しく、伸びやかな花嫁だった。