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アラサーOL悲喜こもごも。

アラサーというかどんサー(30歳)OL。独身モラトリアムを謳歌するアラサーOLの日記です。

「好き」と「大切」がわかる人。

以前、なじみの整体師の方と「パートナー」についての話になった。 

「人間て、“自分ひとりの力で生きてる”と思ってる人間か、“周りに生かされている”と思ってる人間か、大きく分けてそのふたつなんですよ。“周りに生かされている”と本気で思っている人は浮気しないですよね。」

 

「パートナーって最悪の状況からギリギリのところで救ってくれる存在じゃないですか。どんなに追い込まれてても、一緒に寝るだけで救われる時ってあるじゃないですか。そんな人にはやっぱり笑ってて欲しいし、傷ついている顔なんて見たくないですよ。」

 

・・・当時付き合っていた彼と別れた翌日にそんな話をしていて思ったのは、「ひとを好きになる」と「ひとを大切する」は違うんだなということ。

「好き」だけで恋は出来る。だけど、「好き」だけじゃ続かない。結局「好き」は「自己愛」の延長で、その「自己愛」は相手を傷つけることもある。そこからお互いに「大切」と思いあえる関係にシフトしていかないと、二人の関係は耐久レースと化し、いずれ関係性を続けることが出来なくなる。

 

そんなことを思った時に、過去七年間付き合った別の元彼を思い出した。

彼と別れた一年後に、一度再会した。会ってる間中、彼はわたしの言動に「成長したね」と言っては泣いてくれた。

まだ未練があったわたしは、こんなに想ってくれてるのだから、ヨリを戻せるのではないかと思い、心の奥で期待してそれとなく聞いてみたけれど、答えは「NO」だった。わたしのことは「大切」だけど、もう「好き」じゃなくて、ちゃんとほかに「好き」な人が居たからだ。


わたしはその「NO」を聞いて、改めて本当に良い人と付き合えていたのだなぁと思った。別れた後も、わたしをもう「好き」じゃないのに、ずっと「大切な人」として思ってくれたんだ・・・。

今思えば、彼は「好き」と「大切」の違いがわかる人だったのだと思うし、七年の間にわたしは彼から「好き」の後で「大切」にしてもらえていたのだ、と気付いた。

【その彼とのことを書いた記事です】http://nyankichitter.hatenablog.com/entry/2014/08/26/002317

 

そんなことを思い出して、「なるほど今回の彼は、好きは好きだったんだろうけど、大切だと思っていなかったのだな」と合点がいったのである。

「わたしのこと好き?」なんて詮索は、本質的ではなくて、論点は「好き嫌い」ではなかったのだ。

自分以外の誰かのことを「好き」だけではなく、「大切」と思える人はそんなに多くない、というよりも、自分をそんなにも思ってくれる人は、自分が思ってる以上に多くなかったのだなぁとしみじみ思ったのである。

 

「好き」と「大切」の違いの話に戻ると、それは「対相手」の話だけでなく、「対自分自身」にも同じことが言える。

「自分が好き」なことと、「自分が大切」なことは似てるようで違う。むしろ自分が好き過ぎると、「自分を大切にする」ということからは遠ざかってしまう。

それは自分(の感情や好き嫌い)をその都度大切にしているようで、だけどいつまでたっても「満足」することが出来なくて、そしてその満たされない渇望感がさらなる泥沼を生むからだ。強い自己愛や欲を持つ有名人や経営者などが、世間的名声や栄光の陰で自暴自棄なプライベートを送っていることは、何度か耳にするし、実際に目のあたりにした時はその根深さにこれが「業」と呼ばれるものなのかと思った。

 

そんな「自己愛」の追求は、「自己満足・快楽の追求(追究)の旅」とも言えるし、「延々の自滅」ともいえる。

 

一見「相手があってこそ」と思えるような、「共依存関係」も「不安」という病から詮索・束縛してしまう関係もこれにあたるのだろう。

「相手を好きだからこそ」と思って蝕まれるその感情には、実のところ相手は不在で、自身の「不安」や「嫉妬」という感情の追求と支配を止められなくて、自滅していってるだけなのだ。

 

 

突如としてCHAGE&ASKAの話を出したけど、元彼やASKA(並べちゃったよ)を批判したいわけじゃなくて、今からそいつを殴りに来て欲しいわけでもなく(ちょっと殴って欲しい気もするけど)、自分自身に対しても「同類なんじゃ」という疑念を抱くからである。

 

 

アメリカの医学者たちが著した『オルガズムの科学』(作品社)という本に「セックスにおいて快感と満足はまったく違うものであり、快感だけを追えば追うほどむしろ満足からは遠ざかる」といった記述があった。拙著で述べた「恋」と「愛」の違いを、セックスの観点から言い換えたともいえる。そしてまさに、恋愛工学は一時の「快感」を得るための理論ではあるが、決して「満足」にはたどり着かないドラッグなのではないか。

www.gentosha.jp

 

「大切」より「好き」を優先した過去。いつまでも恋愛の欲望や目の前の感情に流される幼稚さ。「好き」を「大切」につなげられない関係構築力。 

もちろんそれらの恋愛から学ぶことは多かったが、不安に思ってしまう。

 

わたしの年代だと、それはイコール結婚で例えられることが多い。「恋愛=好き・欲望」「結婚=愛情・大切」というふうに。

 

もちろんそんなのはわたしの思い込みである。そもそも、それらを区分して考える方がおかしいのかもしれない。

実際そんな方程式に毒されているわたしは、SNSでの結婚式写真を見ると、「自分はいつまで“好き”や“欲”に支配されるんだろう」と自問自答することがある。

何度も恋を繰り返し、その度に恋を失い、傷みと執着にジタバタしている。そして時間が経てば、「あれはなんだったのか」と周囲が呆れるほどケロッとしている。


かと言って恋を卒業して、結婚したいと本気で思えているわけでもなく、以前「恋愛がしたいんですか?結婚がしたいんですか?」と質問された時、答えることが出来なかった。

「恋愛結婚はしたい 」のかもしれないけれど、何のためにしたいのかと聞かれると正直なんのためだろうとも思うし、そんなうまい話も無いだろうなとも思う。

恐らくわたしはまだ「家族が欲しい」わけじゃない。本当はまだ「恋」がしたくて、でも一方で恋愛の斬ったハッタを「アガり」たくて、もっと言うと自分でも結婚できることを証明したい、安心したかっただけなんだ。

(もちろん結婚は「アガり」なんかではないけれど、経験がないから何か言える立場にはない)

 

20代半ばから「好き」と「大切」、「欲望」と「愛」について、壊れた時計の振り子のように、ずっと行ったり来たりを繰り返している。

そんなモラトリアムな状態が嫌いと問われれば、寂しくはあるが、決して嫌いではないのである。わたしの自己愛も相当なものだ。

 

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