アラサーOLクソ日誌。

整体に家賃の1.5倍ぶっこむ整体ソムリエ兼アラサーOLのクソだけどいとおしい日々を綴った人生日誌です。

少し膝曲げたくらいで、空飛びたがるわたしたち~大人の夢の叶え方~

先日、ふとはぁちゅうさんのブログを読んでたらこんな記事に出会った。

「なんでみんな、すぐに悲劇のヒロインぶりたがるのかな」

lineblog.me

最近noteを始めたっぽい人のつぶやきを

たまたまこの間、見かけたんですけど、

「やっぱ私にはnoteで稼ぐのとか無理…心が折れた…」的なことを

つぶやいてるのみて、

「まあ、本人がそう思うなら無理だろうね」って思いました。

(中略)

それにしても、なんでみんなそうやって始めたばかりのことに、

結果を求めるんだろう?

noteとかそもそも始めてから、お金とかの成果に結びつくのには

それなりに時間がかかる場所では…?

noteのことに限らないけど、すぐに結果を求める人って

なんで人の成功してる部分にばかり目を向けて、

それ以外の努力の部分に、気づかないんだろう?

どうして他の人が、時間をかけて築いたものを

自分は一瞬で得られると思えるんだろう?

そして得られないからといって、悲劇のヒロインぶれるのだろう。

(後略)

 

そのtweetは初見だが、思い当たるふしがありすぎる・・・。

ちょっと膝まげてかがんだくらいで、あの人と同じ空を飛びたいと思っちゃう。思うように飛べなかったら、もう筋肉痛ですやっぱり無理、そいえばわたし生まれつき膝が悪かった気がしますごにょごにょ・・・とジムの初回体験に来てさっそく諦める人(それもわたしである)のようにしゃがみこむ。

自分は屈伸すら続かないくせに、日々地道にスクワットしてきた人の成功を「あの人は××だから。」と勝手に理由づけして納得しようとする。

意志が弱い・計画性がない・継続力がない。おそらくどれも当てはまるけど、根本は自分で人生を「選ぶ」のではなく、「選ばれるのを待っている」その無戦略的シンデレラスタンスではないかとふと思った。

自分の人生の行先を選んでいくという主体性が無いから、いともたやすく「悲観的」になる。だけどやっぱり自分可愛さで、そんな自分のありかたにも光を当てたい。それが「悲劇のヒロインぶってる」と見えるのかもしれない。

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そんなことを考えていた折に、自身が中高生の頃芸能活動を目指し、オーディションを受けていた日々をよく思い出すようになった。

「あの子はスター性がある/ない」「可能性がある/ない」。オーディションでも養成所でもそんな言葉をよく聞いた。「才能は見いだされ、選ばれるもの。」そう思っていた。

何度かオーディションを受けるも、その手ごたえのなさから「自分は『ある』側の人間じゃないんだなぁ」と徐々に自己認識し、最後の方は受かろうと思ってオーディションを受けてるというよりも、諦めたくて受けてるという感じだった。

そんな日々から逃げるため、「もうおじさんたちに品定めされる毎日はコリゴリや!」と挫折の理由をあちらになすりつけ、「ひとに選ばれるのを待つのでなく、自分で人生を選んでいける人間になるんや」と夢に踏ん切りをつけた。

本音は「正直もう諦めて楽になりたい・・・。」に近かった気がするのだけど、周囲にも自分にもその建前を言い聞かせていた。

昔の夢に執着する瞬間が無かったわけではないが、「もう遅い」と言い聞かせ、蓋をした。かと思うとあの夢の続きを夢想して、閉めたはずの蓋をそ〜っとのぞいてみたり。そうやって踏み出せなかった後悔と執着は多額の借金のように膨らんだ。そのリボ払いは延々と続き、自分自身に対する信頼残高はすり減って行った。

「わたしはあの時から何も変わってなかったのだ」と気付いたのは、最近のことだ。わたしはずっと選ばれるのを待っていた。舞踊会に一度行っただけで何か起こると思っていた。人から見出され、それでいいのだと肯定され、引っ張り上げてもらうのを待ち続けていた

それは、自分に自信がないからだと思っていたが、他力本願だからいつまでたっても「自信がない」ということにしているのだろう。

みんなひとを見て、自分自身のあり方を見つめたい。ひとの「ありかた」に惹きつけられて、自分自身に影響を与えたい。人の鏡になるには、相応の力が必要だ。自身のプライドの高さや臆病さに蓋をして安全圏に居ながら、自分の欲やコンプレックスを昇華させるなんてこと出来るはずはないのに。 


今やネットを通じて有名になったり成功する人、その過程を目のあたりにする時代になった。焦ったり比べたり、しやすい時代なのかもしれない。一見すると表に出てくる象徴的な人は、みなシンデレラに見えるけれど、実は日々地味に反復横跳びし続けてきた結果なのだと今ならわかる。


ピカソは売れた、ゴッホは死後になって認められた」という比較論があるけど、二人とも「自分の中の感性やあるがままを追求し続けた人」ではないだろうか。

生きることは、まず自分をあるがままに生かすこと。そして「あるがまま」と「今のまま」は似て非なるもの。そうやって生きている濃厚なエネルギーがひとの役に立った時に、世に評価されるのだろう。

大概の絵は、ポスターにすらならないけど、筆を取らなきゃなにも始まらない。自分という畑を、日々掘り起こして耕し続けていくしかないのかもしれない。

 自戒を込めていろいろ書いたけれど、個人的にはすこしかがんだくらいで空飛びたいと思ってて、飛べなかったら才能や運がどうだのぎゃんぎゃん言う、そんな欲深き怠け者も、人間らしく愛しいなぁと思う。自己擁護するようだけど。

なりたい職業になれなくても、一番好きなひとと一緒になれなくても、キラキラはしていなくても、それでもなんとなく「悪くないな」と思える日常がある。それは自分の嗜好(志向)×能力×環境が奇跡的にマッチしているということで、そんな日常が実は当人の「ありたい姿」に最も近い、ちょうど良い塩梅なのかもしれない。

「夢を叶える」こと。それは大人にとっては「なりたい」よりも「どうありたいか」「どうあり続けたいか」が大事な気がしている。もう「自由な大人」にはなれたのだから。

その時代に合ったやり方で、自身の「あるがまま」を耕し、その先のありかたを自由に描いていく。その権利と責任のクレヨンは、生きてる限り自分自身の手の中にある。

それが「大人の『夢』の叶え方」なんじゃないかと思う。