アラサーOL クソ日誌。

クソみたいな愛おしい日々。

冷やし中華に思う。

広告業の仕業だと思うけど、世間では何かにつけ「ひと夏の云々」「夏の思い出云々」とか謳われている気がする。

個人的には「夏」というのは、20代前半までは常に「楽しまなくてはいけない」というプレッシャーを感じるシーズンであった。 思春期にギャルやヤンキー文化にひと夏でも身を置いてしまった故の後遺症なのか、とにかく当時その界隈では夏への期待値が異常に高かった。「夏だからテンションアゲ」ていかなければならず、「夏だから思い出作らなければ」ならず、より一層の精神的昂揚を目指すべき季節であった。

中高生の頃は特に夏をエンジョイする友人知人を尻目に、「今年もフェスに行けないわたしは夏を楽しんでない」「浴衣デートに縁のない自分は日本の心を忘れている」「今年も脂肪を着込んで水着を着れないわたしは、限りある若さとそこにある夏をドブに捨てている」と半ば強迫観念的になっていた。

それなのに己の性格やテンションはさて置き「痩せたら夏を楽しめるはず」と、体型の変化にすべての望みを託していた割には、ほんまもんのギャル程の根性も無いので「まだ6月、まだ初夏」「夏本番は8月から」「むしろ9月までは夏」と先延ばしにしているうちに、「秋はごはんが美味しいですね〜( )^o^( )」を繰り返していた気がする。

だから個人的には、甘酸っぱい夏の思い出とは無縁なのだけど(だろうな)、それでも夏も悪くないなと近年感じるのは、こんなわたしにも毎年思い出す風景があることに気づいたからだ。

f:id:nyankichitter:20170725125006j:plain

 実の父が逝ってから、この夏で16年が経った。

父の誕生日は年の瀬なのだけど、最後の数年は、父はアルコール依存症気味でわたしも思春期真っ只中で、誕生日に何か言葉を交わしても特に反応もなくお互い気まずい雰囲気になる事が多かったからあまり思い出が無い。

だからわたしにとって一番父に近い季節は、夏だ。父の冷たくなった肌に触れた最期の夏、その前年に元気な父と過ごした最後の夏。

風物詩は、季節と記憶を細い糸で繋ぎ呼び戻してくれる。わたしにとって夏の風物詩は「冷やし中華」なのだけど、毎年夏になると自宅でも出先でもつい冷やし中華に手が伸びてしまう。

酒飲みの父が炭水化物を食しているのをほぼ目にしたことがないが、なぜか冷やし中華だけは好んでいた。

中学2年の時、蝉がよく鳴く暑い土曜の昼過ぎに、珍しく家に居た父が起きぬけに作り始めたのも冷やし中華だった。父が手料理をしているのがとにかく珍しくて、面食らっていたわたしに「お前も食べるか」と聞かれて、さらに驚いたのを覚えている。

父の作る錦糸卵は、細切りというより太切り、切ったというよりちぎったという表現が似合う代物で、冷やし中華のキービジュアルは錦糸卵なのだとその時に思った。

昔から病的に話がくどかった父から「ハムの代わりに焼き豚を使った方がうまい」というこだわりを、何度も聞かされながら食べた冷やし中華の味は思いのほかあっさりしていて、当時謎にマヨラーに憧れていた厨二病のわたしはマヨネーズを三周かけて食べた。

その日から、父が家に居る週末に、何度か一緒に冷やし中華を作ったことがある。ハムじゃなくて焼き豚、薄焼き卵は太くて不恰好でもいったんオッケー。トマトは熟れたものが好みで、だから厚切り。キュウリは新鮮なものを千切りで。スープはあっさりしょうゆ。わたしはカロリーハーフなマヨネーズ三周。

 冷やし中華を食べる時だけは、父の片手には酒の代わりに麦茶があった。 

会社の行き帰りなどに、父が生きてたら話せることがあるのになぁと思うことがたまにある。仕事とか男の観点とか。まぁあまりというか、かなりアテには出来ないのだが…それでも父だったら何と言うかなぁと思いをめぐらせてしまう。

あの頃夢見ていた自分とも、二十歳の頃思い描いていた自分とも、かけ離れた感じの大人になってしまった。何も考えてなかったわけじゃないし、頑張ってなかったわけじゃないというよりたぶんそこそこには頑張ってきたのだけど、でもなんか計画性が無かったり詰めが甘かったりして、人生こんな感じになってしまった。

でも最近は人生こんな感じの自分でも受け入れられるというか、もうそれでも引き受けていこうという気がしている。

まぁ気がするだけかもしれないけれど・・・。

 

歳を重ねていくと、耐性がついてキャパが広がったのか、たんに横着になって開き直ったのかわからない事が多々ある。歳を重ねることで色んなものを手放しているのか、単に失っていってるのか、区別がつかなくなる。

それでも年々たくさんのことを見て来たはずなのに、大切な記憶はむしろ限られ、色濃くなっている気がする。

幾千幾万のものを目にしてきたはずなのに、思い出す風景は両手で数えるほどしかない。そしてそれがわたしの人生に彩りを与え、季節に意味を持たせ、これからもわたしを生かし続けてくれる。父にはどんな風景が残っているだろう。

きっと、この夏もあと何食か冷やし中華を食べる。そしてその度に父と一緒に作ったあの日々を思い出すのだ。「飯ついでに思い出すだけじゃなく、ちゃんと田舎に墓参りに来いや」って思うかもしれないけれど。

でも年々、父を思い出しながら食す冷やし中華が美味しくなっているのだ。だから、田舎の山奥にある墓になかなか行けなくても、ちょっと多めに見てほしい。