先日、ある男性と世間話の延長線上で、「なぜ男は歓楽街に行くのか」という話をした。
もちろん性欲もある。だけどそれだけでもないんじゃないか。
その男性が言った。
「女性に底抜けに優しくされたいから」だと。
歓楽街の夜の蝶・キャバクラ嬢や風俗嬢など、プロの方たちは、めったなことが無い限り「お客さま」を否定しない。
男性にしてみれば、普段なら女性に責められる自分の愚かさもだらしなさも、気持ち悪さもウザささえも、ミーラーボールの如くキラキラくるくる変わる表情で明るく飲んで騒いで、ボディタッチなんてしてくれちゃったりして笑い飛ばしてくれたり、
壇蜜ばりの微笑で「お疲れさまだね」「●●サン(しかも男性の大好きなサン付だったりあだ名呼びである)すごいよ、頑張ってるよ」「大丈夫だよ」と己を全肯定してくれる。
激戦の歓楽街で働く彼女たちは、人一倍プロフェッショナルである。
(壇蜜が世の男性を「殿方」と呼んで労り、おっさんは週刊誌片手に心の目頭を熱くした昨今であるが、彼女は歓楽街の女性たちと同じことを誌面とブラウン管の中で全うしようとしているように見える。)
かたや素人女子たちは、どんなに優しい彼女だって妻だって、
「いついかなる時も彼氏や旦那を優しく、包容し、全肯定してくれる」ことはまず、ない。
全肯定ですよ!全肯定!!(ガタッといきなり立ち上がる)
べつにこちらとて、きついこと言いたくて接しているわけじゃないけど、ホルモンバランスも乱れれば、家事育児仕事もあり、女性が男性をいついかなる場合も全肯定するには、現実があまりにも過酷過ぎるのである。
それを要求するのは「心をなくせホルモンなくせ殺せ己の自我までも」と言ってるもんだからね。(何の標語)
そんなのまず無理ですと。
それに、優しい彼女や妻が居ても、「こんなことを言うと、すると怒られるのでは、嫌われてしまうのでは」と遠慮してしまうのが普通の(性格の良いほうの)男性である…。
以前、下記のエントリに、男性は基本的に「何でも自分を許して愛して肯定してくれる、理想の母親のような(母親にかつて許されていた、もしくは求めていた愛情で包容してくれる)女性=菩薩」を無意識で求めてしまう傾向にあるのでは、と書いた。
「感想:『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』」
http://nyankichitter.hatenablog.com/entry/2014/04/30/013339
そんな無意識の下に隠した母性への幻想を歓楽街に求めてるんじゃないだろうか。
かたやそう言うと決まって、
「彼女やプロの人には勃起とセット、母親には求めない」(当たり前や)
「彼女には愛情を求めるけれど、プロの人には性欲のみ(`・ω・´)キリッ」
という人もいるでしょう。
よかったですね、割り切れてて。。
・・・でもわたしはあえて言いたい。
「実際、そんなに性欲強いですか?」と。
ある作家の方とのLINEで、「男も女も性欲ないのにセックスしようとしすぎ。愛されたさを性欲だと思い込んでますよ、女も男も。」って話をしていたのだけど(しかも朝6時)、わたしは寝ぼけ眼でまさに、とひとり膝を打ったね。
ひとは、「底抜けに優しくされ」て、「自分を全肯定してもらいたい」という気持ちを多かれ少なかれ持っている。
そしてひとは愛されたさ(精神的なさみしさ)と性欲をよく混合する。
そんな混合した夜の翌朝「こんなことをしても満たされない・・・」と気付くこともある。
そう、わかっちゃいるんだけど、今すぐ、確実に愛されたさを解消しようとする。
プロアマ関係なく、このことをお互いに理解しあっている関係、理解しあってなくても一夜限りなら傷も浅いというもんだが、大概は片方がもう片方に執着し出すものである。
(ホルモン分泌の性質上、女性は一度セックスした相手に対して愛情を抱きやすい。そして途端に執着された男性は逃げる。「やり逃げ」と呼ばれるものがこれである。男女逆の場合、女性が追いかけられます。だから女もやり逃げして執着されることも可能)
女のプロであるクラブのお姉さんだって、「枕」ナシにお客を長い間引っ張るのに一苦労なのである(「いかにヤラずに、単価高く、長く通ってもらうか」の攻防戦)。素人娘言わんをや。
男性客はお店で肯定された延長線上で、お店の外の自分も、肯定してほしくてそのお姉さんと関係を持とうとするんだよなぁ。
「オレってただの客なの?」って。
そう、ただのお客なんだけど。
もちろん「入れ込んだ分の投資を回収したい」、という思いもあるけれど。でもそんな損得勘定なら、同じこと繰り返さないでしょ。
底ぬけに優しくされたくて、愛されたくて、自分を全部肯定してほしい。
ただの「性欲」とは言い切れない、そんな不器用な人間の欲求が、歓楽街のネオンを今夜も煌々と光らせる。
もしかしたら歓楽街から離れた町の、ネオンの何万分の一の灯りの部屋でも、誰かが誰かのための歓楽街になっているかもしれない。
明け方、相手を優しく肯定してあげた方は、今度は自分が底抜けに優しくしてもらいたくなるかもしれない。
優しくされた方も「本当はあの人に、底抜けに優しくされたかったな」ってまた泣けてくるかもしれない。(こんなツライ話ないけど)
そんなことを帰りの電車でつらつらと綴り、今宵もわたしは煌々と灯る赤と黄色と白と緑の光の中へ吸い込まれ、「金麦」という「一見、夫婦愛がテーマのCMに見えて実は不倫がテーマ」の快楽装置に手を伸ばす。
(訳:サンクスはわたしにとって平日の歓楽街である)
誰かに底抜けに優しくされたい、そんな夜もある。
でも誰かに連絡したくても、なおさら傷ついてしまいそうで、出来ない。
明日も早い。早く酔っ払って眠りにつかなきゃと、ぼんやりとした頭で何も起こらない携帯を弄ぶ午前1時。