しまずあいみのぽんこつ日誌

~アラフォーになったのでタイトル変えました~

「自分がより自分らしく居れる」という愛

こんなことあまり大っぴらに言うことじゃないが、わたしは結婚式が苦手である。長時間の着席に凝り性末期の身体が耐えられない。さらに自意識過剰なゆえにその演出にこちらまでとても恥ずかしくなってしまうのだ。家族で観る恋愛ドラマみたいなものである。

唯一「ご両親へのお手紙朗読」コーナーは安心して顔を上げて拝聴出来るが、まともに内容を覚えていないような我々が拝聴する必要はなく、親子親族間でめっこり振り返りをしてもらえば済む話だとも思っている。

だいたい、結婚する時は「日頃の感謝を云々」「未熟な私どもに今後もご指導ご鞭撻を」と言っておきながら、離婚時には「二人で決めたことなので」と言うのはなんなのだろうか。だったらハナから他人を巻き込まず、二人きりで始めてほしいものである。
・・・と、もうここまで読んでいただいた時点で、読んでくださった方の半数強に軽蔑されてる気がする。 

だがしかし昨日は、大学時代に愛した後輩のひとりが結婚するというので、迷いに迷って断ることが出来ず、人生で数回目の披露宴に馳せ参じた次第である。 結果、柄にもなく、目頭が熱くなってしまった。

何故かと言えば、5,6年ぶりに再会した後輩である新婦が、彼女が私と出会った18歳の頃のまま、いやそれ以上に無邪気に愛されていることが伝わったからである。 

彼女とは大学のサークルの先輩・後輩として出会った。私の所属するサークルの新入生歓迎コンパに、天然記念物と見まがう天真爛漫さで乗り込んできた九州女子だった。

コンパ会場の居酒屋で他の新入生女子が当たり障りなく先輩たちと盛り上がってる中、何故か居酒屋の畳で突然スライディングをかまし始めた彼女。だいぶ昔に言われた「痩せたら香里奈に似てる」という冗談を間に受け、18時以降は麦茶しか飲まないダイエットを実践していた彼女。

そんな彼女を「逸材だ」と思い「キミはいいね!」と口説きまくった。

他の新入生コンパでも浮いていただろう彼女は、その時目をうるうるさせながら懐いてくれた。そんな無邪気すぎるほど無邪気で、明るくて正直でそしてなによりひとに対し惜しみなく心を尽くす子だった。

そしてそれゆえに誤解されたり、傷つくことも数多くあっただろう。わたしはそんな彼女を自分がかけられるすべての言葉を尽くして、肯定したいと思った。 それは彼女の明るさと無邪気さに、当時の自分が誰より救われていたからである。

そんな彼女と彼女の旦那になった彼の馴れ初めは、エピソードによると新卒の入社同期とのこと。急接近のきっかけは、新婦が誕生日に近所の居酒屋でひとりで飲んでいた(泣ける)ところに、偶然今までまともに会話したことのなかった新郎が同期友人と同じ店に訪れ、彼女は今日はわたしの誕生日だと彼らを巻き込んだらしい。このエピソードもなんだかとことん、彼女らしい。 

彼女を愛しそうに見つめる新郎に嬉しくなり、写真撮影の際に「いい人に出会ったんだね」と声をかけると、彼女は「こんなわたしを好きになってくれた人が居ました~!!」と目をうるうるさせながら言った。

そんなの、当たり前じゃんか(号泣)。

一部始終、あんなにニコニコ心から無邪気に笑ったり、感情のままに涙したり、時に目の前の食事に食い意地を見せる自由な花嫁を初めて見た。

そんな様子を見ながら、私はこの記事のことを思った。

「愛とは、誰かのおかげで自分を愛せるようになること」 芥川賞作家・平野啓一郎氏が説く"自己愛"の正体 | ログミー[o_O]

「愛とは誰かのことを好きになることだ」。この定義自体はもちろん間違っていませんが、今僕が付け加えたいのは、愛とはむしろ「他者のおかげで自分を愛することができるようになることだ」と、そういうふうに考えてみたいと思います。

あの人の前でなら自分は思いっきりリラックスして、素直になれて、いろんなことをさらけ出せる。他の人の前では決してできない。

不幸にして、人間の関係には終わりが来ることがあります。喧嘩別れしてしまうこともあれば、死別してしまうこともあるかもしれません。誰かを失ってしまう悲しみはもちろん、その人の声が聞けない、その人と抱擁できない、いろいろなことがあると思いますが、もう一方で、「その人の前でだけ生きられていた自分を、もう生きることができない」という寂しさがあるのではないでしょうか。

あんなに自由にいろんなことをしゃべれたのはあの人の前だけだった。あんなに素直になれたのはあの人の前だけだった。あんなに馬鹿なことをしてあんなにくだらないことをできたのはあの人の前だけだった。

その人がいなくなってしまって、自分はもう、好きだった自分を生きることができない。それが別れの悲しみなんじゃないでしょうか。

逆ももちろん真なんです。僕は誰かから「あなたのことを愛してます」と言われれば、有頂天になりますね。「やったー!」と。しかし、誰かから「あなたのおかげで自分のことを好きになれた」と告白されたなら、あるいは「他の誰といる時よりもあなたといる時の自分が好き」と告白されたなら、それはなにかもっと胸に迫ってくるものがある気がします。

自分の存在がそんなふうに他者の存在を肯定させているんだということには、なにか感動的な喜びがあります。人間はそんなふうに、好きな自分っていうのを一つ見つけるごとに、生きていくための足場というのができていくんでしょう。

私が今回何よりも嬉しかったのは、彼女が歳を重ねても、精神的に不自由になることなく、むしろ新郎から愛されることにより、さらに自由に彼女らしくなっていることだ。

そして式の間も、「自分を貫いて」「自分らしく!」と、至る場所でメッセージしていた彼女。それは彼女自身の半生の試行錯誤や葛藤が紡ぎ出した答えなのだろう。

その答えを強固な足場の一つとして、これからも夫婦を超え、家族を超え、世の中の多くの人に、その底抜けに明るい笑顔をたくさんの人に見せてほしいと願ってしまう。 

 

老若男女、お金や権力の有無、外見や立場や才能にかかわらず「どんな人からも受け入れられ、愛される人」なんてどこにも居ない。みんな心のどこかで拒まれることを恐れ、受け入れられることを願っている。そのうえでさらに「居心地の良い自分」「自分のことが好きな自分」で居させてくれる人は、ほんの一握りだ。

だからこそ、愛とは特別で、人を自由にするものなのだと思う。ありのままの自分で愛し愛される関係を築いたことで心から自由になった彼女。このうえないほど、本当に美しく、晴れやかで伸びやかな花嫁だった。