しまずあいみのぽんこつ日誌

~アラフォーになったのでタイトル変えました~

「快」に生きる。

友人の小野美由紀ちゃん@MiUKi_None(https://twitter.com/MiUKi_None)が、この度処女作となるエッセイ集を出版した。

 

傷口から人生。 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった (幻冬舎文庫)
傷口から人生。 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった (幻冬舎文庫)

 

  • 作者: 小野美由紀
  • 発売日: 2015/02/10
  • メディア: 文庫

内容はこれからゆっくり読ませていただくので、読後感想はしたためられないのだけど、彼女が処女作の発売に寄せたブログ記事誰かを恨んだり、不幸を人のせいにしないためには、好きなように生きるしかない。ー「傷口から人生。」発売によせて | None.がとても素晴らしかったので、久々にブログを書こうと思った次第。

わたしの独断で、刺さりまくった箇所を勝手に抜粋させていただきます。

 

この本を通して私が書きたかったのは、「他人や社会を恨まないためにも、自分の好きに生きたほうがいいよ」という事だ。
「あなたがもし、自分のことを「イケてない」と感じているならば、それは他人や社会を恨んでいるからだ」という事を突きつけたくて、この本を書いた。
「他人を許さないと幸せになれないよ」とか「親を愛さないと自分も愛せないよ」とか言うことは、「親なんて許さなくていいんですよ!!」と激怒することと、正反対に見えて全く一緒だと思う。
人生の中の、「誰かのせいで好きに生きれないなあ、しんどいなあ」という部分を解決しようとフォーカスするのではなく、「自分の好きに生きる」領域を、少しずつ、押し広げてゆくことが有効なんじゃないかと思う。“どうにもならない今の時点”の中で、「自分の好きな事、快適にいられること」を押し広げてゆく。本当に、1ミリ1ミリでいいから。
だから、今、何かが上手くいかなくて、苦しかったりもやもやしたり、自責感に苛まれている人は、安心してほしい。無理に、元気を出す必要もない。もやもやした人生を、ただ、快なるままに過ごすだけでいいと思う。誰にどう思われるか、他人に迷惑をかけていないか、社会的にどうかなど気にせずに、ただ、すこしずつ、一個一個の不快のスイッチを、快に切り替える作業に淡々と励めばいいと思う。そうしているうちに、人生が自分をどこかに運んでくれる、ということがある。

以下、(美由紀ちゃんの意図と相違があったら申し訳ないのだけど)自分の感じたことを書きます。


わたしは美由紀ちゃんのこの文章を読んだ時、「(自由な)大人の生き方とはこのことだなぁ」と思った。


というのも、幼少期・思春期に「子どもは居場所を選べないから不自由だなぁ」というようなことを考えていたわたしは、どこかで「大人になる=年々自由になること」だと置いていた。 


なのにここ数年、自分に対して、そして他人に対して、不自由を強いていることをうっすら自覚していたのである。


過去の手痛い失敗を恐れ、臆病になった。

過ちを繰り返さないように、手遅れにならないように、要因や傾向を言語化したはいいものの、頭でっかちで理屈っぽく抑圧的になってしまった。

そしてそんな自分を肯定したいあまり、他人にも威圧的になっていった。

さらにそれが回り回って、いつしか社会にうっすら怒り、妬んでいたのではないかと思う。


例えば、「早く結婚しないと売れ残っちゃうよ」「子どもは早く産まないと後悔するよ」と焦らす世間。

そんな「世間」に憤慨しつつ、自由に生きる歳上の人を横目に「ここまで貫く勇気はない」「手遅れになるのが怖い」と、自分は未だセーフゾーンに居るのだと慰めていた。

所詮若さと勢いだけで生きてきたのだろうか。

「無知故の自信と意志」というコンパスをなくし、道に迷うスカスカになったスポンジは、そんな幾多の情報を摂取して、あっという間に情報デブ、チキンな耳年増になった。

「誰も彼も転ばぬ先の杖話ばかりでうんざりだ!」と辟易する一方で、実際には誰よりも不安を感じていたし、自由に振る舞う人たちのこともそれはそれで妬んでいたように思う。

自分の人生を生きやすくする「経験」や「知識」という杖を得たつもりが、その杖に引きずられるように振り回されていた。

選んだものに腹を括ることを考えず、「何を選ぶべきか」ばかり迷っていた。



 

 

そんな「自分自身への抑圧」を考える際に、わたしは自分の母のことを思わずにはいられない。

 


母の狂気 - アラサーOLクソ日誌。

 

わたしの母は、幼少期から学校や親を恨み「わたしは辛いことがあってもひとりで耐えてきた」「やりたいことはたくさんあったけど、そのせいで出来なかったの」が口癖だった。


ここ数年歳を重ねるごとに、そんな母とカオが似てくることに気づく。


自己謙遜する時の卑屈な笑顔、批判された時の憤り方。

ハタから眺める自分は、母とよく似ていて、低い自己肯定と高いプライドがこじれた、泣き顔とドヤ顔が混じったような、行き場をなくした表情をしている。

母と同じ縄が、わたしにもかかっていたことに気付く。母がかけた縄もあるけれど、わたし自身がかけたものもある。


その縄をほどこうと必死になればなるほど、縄は固く結ばれ、わたしは途方にくれた。


しかし、美由紀ちゃんの記事を読んで、わたしがするべきことは躍起になって縄をほどこうとすることではないんだ、と思った。


母が少しでも快く生きることが、結果子どもに大きな影響を与えるように、自分が心地よく生きることが、自身自身を育む。


わたしが最も記憶に焼き付いている母の姿は、母が父と離婚後、欺瞞や抑圧から解放され自由に過ごしていた頃だ。


母が外に働きに出たのはその時期で、一緒に過ごした時間が最も少ない時期のはずなのに、その頃の母が一番美しく印象深く残っている。

母がのびのびと快く生きている、それだけで心が軽くなり、前向きになれた。


自分の母親の話ばかりしてしまったけれど、このことは親子関係だけでなく、自分自身との関係、夫婦や恋人、職場での関係も当てはまる気がしている。


自分に正論を強いること、我慢すること、理解したフリをすること、大人ぶること、諦めること。

その負荷は他人へのそれとつながる。


自分に課しているその重いバーベルの重量は、必ず他者にとっても重しになっている。


美由紀ちゃんの書いているように、「自分の好きなこと、快適にいられることを1ミリずつでもいいから押しひろげ」、「快」のスイッチに切り替えていけば、その縄は少しずつゆるゆるとほどけるかもしれない。


息継ぎなしのクロールや不自然なバタフライを続けなくても、ゆるい平泳ぎをするように、ここちよい方を見つめ、一見流されるようにゆるゆると泳いでいけばいいのかもしれない。

 

通勤電車の中で彼女の記事を読みつつふと窓に目をやると、窓に映る自分が去年より少しだけ老けた気がした。