浜崎あゆみ『M 愛すべき人がいて』の読後感想 あゆの「はじまり」と「永遠」。
巷で話題になってんだか、なってないんだかわからない『M 愛すべき人がいて』を読んだ。
この本には、あゆがスターダムに駆け上がるまでのデビュー秘話と、そのきっかけをもたらした、松浦専務(当時)との大恋愛と喪失が描かれている。
この数年は本業よりもゴシップがフォーカスされることが多いあゆ。
その状況を、決して少なくない数のファン・元ファンが嘆いているのに対し、ここへきて昔の恋愛を私小説的として、間接的に世に送り出した。
ファンの想定の斜め上を行くどころか、ど真ん中かき分けて逆を行くストロングスタイルである。
しかしこの本、予想以上にエモかった。本を読み進めながら、当時の物悲しそうで厭世的で華奢でキラキラとした、あの頃のあゆが浮かんでくるのだ。
この本は、著者の小松 成美さんというライターの方による、あゆと松浦氏ふたりへのインタビューが全てのベースとなっている、「事実を基にしたフィクション」である。なんのこっちゃ。
目次を、めくってみる。
「序章 Mとの再会」
「第一章 Mとの出会い」
「第二章 Mへの想い」
「第三章 Mと歩む」
「第四章 Mを信じる」
「第五章 Mとの別れ」
「終章 Mとの……」
2000年代初頭のケータイ小説さながらの目次を見て、表紙をそっ閉じした人は多いのではないだろうか。
自分もここで「おっ、おう・・・」と面食らったのだが、ここまで読んでいただけたなら、どうかめげないで、ついて来ていただきたい。
そして、記事中の曲名には、あゆの公式チャンネルをリンクしている。もしよかったらこの記事と併せて久々に曲を聞いてもらいたい。きっとエモさを感じてもらえるはずである…。
以下、章ごとの感想をしたためたいと思う。壮大なネタバレなので、ご注意ください。
「序章 Mとの再会」
遡ること数年前、あゆは医大生のアメリカ人男性と2回目の結婚をし、国外に居を移していた。
この本では「二年前の年末、一人に戻ってマリブにある家を引き払った」と、その1行で結婚生活が終わったことになっている。
離婚後、日本の空港に降り立ったあゆを、ひとり待っていたのは “ M ” こと松浦氏だった。
あゆはここで、松浦氏に積年の想いを伝える。
ずっと会いたくて話したくて、でも会うことも言葉を交わすこともないと決めていた彼は、時を経ても変わっていない。
あゆね…今だから歌える歌を、届けていきたい。いろんな経験をしてきた今だからこそ、歌える歌があると思っているから
マサ、もう一度、あゆの近くにいて。昔のように二人で一緒にファンが待ってくれている歌を、パフォーマンスを、作っていきたいの。会社はとてつもなく大きくなって、マサの立場も仕事の量もあの頃とは違うとわかっているけど、今は、マサの力が必要なの
勇気を振り絞った言葉に、マサはたっぷりと時間をかけて答えた。
もう一度俺がやる。だから迎えにきた
「あゆの目指す場所は、この世界の外にはない。俺たちが立っている世界の、ずっと先にあるんだよ」
「自らの美学を貫き、この世界を去っていくアーティストもいるよ。でも、あゆはそうしない。ステージに立ち続ける。年齢なんかにとらわれない。それがアーティストの姿だから」
序章の時間軸は、約3年前。デビュー20周年に向けて歩き出そうとするあゆが、また羅針盤として松浦氏を頼ったという話だ。
あゆは松浦氏と再会後に「æternal」という曲を書いた。
さよならもうまく言えなくて
ありがとうも言えなかった
どうしてもどうしても
言葉には出来なかった
君といたあの夏の日々を
夢に見て目覚めて泣いた
思い出に変わっていく
僕たちは大人になる「æternal」
ねぇ、マサ。私たちは大人になったよね。遠い日を振り返ってみても、あれほどの喜びと純粋さと切なさに満ちた時間は、他にはないと思っている。今は、新たな日々の物語を抱き生きていくと決めた私のその人生に、ねぇ、マサ、あなたはそこにいるの?
のっけから、あゆのポエミーな語り炸裂である。しかし元あゆウォッチャーの自分が思うに、現実では、あゆと松浦氏の間に空白の期間ってほぼ無いのではないか。
「だって、よくツーショットを『あゆのデジデジ日記』(雑誌『Vivi』の連載である)とかSNSにアップしてたよね?」と思いつつ、この本自体が「事実を基にしたフィクション」ということで、序章はライトに読み進めた。
「第一章 Mとの出会い」
さて、ここからが本題。
二人が出会ったのは六本木のクラブ、ベルファーレのVIPルーム。ある年の大晦日、パリピでごった返すVIPルームの中心に、有名なヒットメイカーである専務(当時松浦氏は専務)は居た。
専務に呼び止められ、電話番号を聞かれた10代のあゆ。そのことをきっかけに、専務からの電話を待ちわびる日々が始まった。
この頃あゆは、芸能活動のために高校入学と同時に、博多から母親と祖母と中野(なんと、あゆは江頭2:50氏と同じ中野住まいであった…!)に引っ越していた。
がしかし、当時のあゆはいまいち仕事に精を出せず、友人と連れ立って度々ベルファーレを訪れていたのだ。
専務からの電話が鳴るなり、呼ばれて飛び出てハクション大魔王の速さで専務の元へ駆けつけるあゆ。
駆けつけるのは、ベルファーレのVIPルームであることもあれば、高級レストランであったり、専務の身内との打ち合わせの席だったりするのだが、あゆはいつも黙って専務の隣に座っているだけであった。
そのうち専務は、あゆをミュージックバーに連れ出し、歌わせるようになる。あゆに何を言うでもなく、毎回延々と歌わせるのだ。
これがその辺のおっさんだったら、「タダ飯奢ってもらえるけど、無賃で無言カラオケさせられる」というローリスク・ローリターンなパパ活であるが、あゆは専務が既婚者と知りながら、既に恋心を抱いていたのだ。
そのうち芸能の仕事よりも、専務との時間に重きをおくようになり、所属事務所との契約を解除。高校も自主退学した。
突然事務所を辞めてきたというあゆの先を案じた専務は、「You 無職ならうちで歌っちゃいなよ」と言い、そこから二人は二人三脚でデビューを目指すことになる。
「第二章 Mへの想い」
あゆは、専務からのお達しにより、3ヶ月間、ニューヨークでの修行を課せられた。
極寒のニューヨークでの武者修行中にも、週に1度かかってくる専務からの電話を楽しみに、スパルタのレッスンに励むあゆ。
そして専務は海外出張の際、あゆに会いにニューヨークに立ち寄る。
二人でニューヨークの街を散歩している折に立ち寄った5番街のプラダで、専務は「似合うから」と言って、あゆにコートをプレゼントする。
専務と別れ帰路に着いた後、真新しいコートに顔を埋め、専務の名前をひとりつぶやくあゆ。さながらプリティウーマンである。
片思いの相手は、既婚の15歳上のヒットメイカー。叶わぬ憧れと幼い恋心の交差は、恋愛の中でも最も甘美な脳内ホルモンを出してくれるんである(誰)。
しかも相手は、あゆ曰く“ 誰にも褒められたことのなかった自分 ” を評価してくれ(それが本当なら日本一カワイイ「ビリギャル」である)、一度は諦めかけたはずの芸能界で、「お前をスターにする」と言っている。
そんな状況、いつかの剛●彩芽クラスに浮かれて当然であるが、あゆのそれは、秘密の片思いである。「歌手なんて無理」と戸惑うあゆだったが、専務の「俺を信じろ」という言葉に従った。
しかしその後、専務があゆを業界関係者に必死に売り込みはじめるものの、「あの顔は売れないよ」「あの声は売れないよ」などと酷評される日々。
本によると、芸能関係者との商談の席で、あゆのデビューについて反対されたりコケにされたりする度に、専務はテーブルの下で拳を握っていたそうだ。
そしてあゆは自分のために怒り、拳を握ってくれる専務を見る度に、親愛の念を感じていた。
「あゆは、あゆのままで良い。世間の好みすら、変えてやれ」とあゆを肯定し続ける専務。
実際あゆはその後、「可愛い顔」の価値観まで変えてしまうのだ。
ファンの方々はご存知の通り、このあたりのことが「Trust」や「TO BE」の歌詞となっている。
誰もが通り過ぎてく 気にも止めない どうしようもない
そんなガラクタを 大切そうに抱えていた
周りは不思議なカオで 少し離れた場所から見てた
それでも笑って言ってくれた "宝物だ"と
大きな何かを手に入れながら 失ったものもあったかな
今となってはもうわからないよね
取り戾したところで きっと微妙に違っているハズで君がいるなら どんな時も 笑ってるよ
君がいるなら どんな時も 笑ってるよ
泣いているよ 生きているよ
君がいなきゃ何もなかった「 TO BE 」
時を同じくして、長らくビジネスパートナーであった小室哲哉氏と決別した専務。
専務は、てっちゃんの抜けた大きな穴を埋めるという重責を負いながら、あゆのデビューに向けて奔走する。
あゆは、重責を負う専務の期待に応えたいという気持ちと同時に、専務への恋心を抑えようと人知れず格闘する。
あゆと出会った当時、既婚者であった専務は、出会いから間もなく離婚した。が、すぐさま新しい恋人を作り、スタッフやあゆとの打ち合わせや会食に同席させていたのである。なにかと同伴を好む松浦氏である。
私は、毎晩、目を閉じて心を整えた。
それは、「俺を信じろ」と言ってくれた人への思慕が、その恋心が、決して溶け出るようなことがないよう、固く凍らせる時間だった。
あゆが毎晩、幼い恋心をセルフ冷凍していることを知ってか知らずか、専務はデビューに向けてあゆに作詞を勧めた。
そこであゆは専務に伝えたくとも伝えられない想いを、ラブレターに書くつもりで歌詞にし、便箋に書き写して専務に渡した。
人を信じることっていつか裏切られ
はねつけられる事と同じと思っていたよ
あの頃そんな力どこにもなかった
きっと色んなこと知り過ぎてた
いつも強い子だねって言われ続けてた
泣かないで偉いねって褒められたりしていたよ
そんな風に周りが言えば言う程に
笑うことさえ苦痛になってた
一人きりで生まれて
一人きりで生きて行く
きっとそんな毎日が
当たり前と思ってた「 A Song for XX 」
「第三章 Mと歩む」
これをラブレターのつもりで書いたのならだいぶ重たい自己紹介だが、10代の少女の作詞一作目が本当に「A Song for XX」だったらば、専務もさぞかし度肝を抜かれたことだろう。
専務へのラブレターのつもりで書いた詩を、本人に大絶賛されたあゆは、「poker face」「YOU」…と、日々専務への想いを綴るようになる。
いつだって泣く位簡単
だけど 笑っていたい
強がってたら優しささえ
忘れちゃうから素直になりたい
あなたの愛が欲しいよ「poker face」
君のその横顔が
悲しい程キレイで
何ひとつ言葉かけられなくて
気付けば涙あふれてるきっとみんなが思っているよりずっと
キズついてたね 疲れていたね
気付かずにいてごめんね春の風包まれて 遥かな夢描いて
夏の雲途切れては 消えていった
秋の空切なくて 冬の海冷たくて
夢中になっていく程 時は経っていたね「 YOU 」
しかし物分かりの良いフリをして、叶わぬ恋を貫こうとしても、多くの人は志半ばで爆発するものである。
あゆもまたプロ彼女…もといプロ片想いを貫くことは出来ず、ラブレターに想いを託すだけでは、恋心を抑えられなくなった。
あゆはこの恋に終止符を打つべく、ある日FAX(時代…)で専務に想いを伝えてしまうのだ。
一生、隠しておこうと決めていた想いですが、告白します。
あなたが好きです。
ヴェルファーレで出会った時から、ずっと好きです。あなたが好きだから、私は歌手になったのだと思います。
(中略)
もちろん、あなたにとって私はプライベートな意味で必要な人間でないことも分かっています。私は、あなたから愛されることはないでしょう。
だから、今日限り、あなたを諦めます。
(中略)
全力で歌うことを誓います。専務が自慢できる歌手になります。どうか信じてください。
…ところがどっこい、翌朝専務から届いた返信は「自分もあゆと想いを同じくしている」というものだった。
それから間もなく、専務はスーツ姿であゆの実家のある中野まで、ビャッと高級車で乗り付けた。そしてすぐさまあゆの母親に交際宣言した後、横浜にある自身の実家に、あゆを連れていったのだった(同伴させてた恋人は?)。
この日から、19歳の新人歌手と34歳のレコード会社役員兼プロデューサーの蜜月が始まったのである。
「第四章 Mを信じる」
親族への交際宣言からまもなくふたりは青山で同棲を始め、目まぐるしい日々を送りながらも、人知れず愛と熱帯魚を育んだ。
あゆはこれから立派な歌手になり、いつか専務を守れるような存在になりたいという強い思いを込めて、「For My Dear...」の詩を書いた。
その頃、ふたりはスケジュールをやりくりして、やっとの思いで休みを取った。
夕方〜翌朝までという短時間ではあったが、その貴重な休日に、ふたりは横浜みなとみらいにあるホテルに出掛ける。薄暗の夏の海を眺めながら、ふたりは、出会いからこれまでの出来事を語り明かした。
この日からあゆは専務を “ マサ ” と呼ぶようになる。
ふたりの蜜月が浮かぶような描写に、きっとその夏の思い出は、あゆの心に深く刻まれているのだろうなと、他人事ながら思える(そしてあゆの失恋ソングの多くの曲で、「あの夏」という歌詞が出てくるのだ…)。
「Trust」で、「あなたから見つけてもらえた瞬間 あの日から強くなれる気がしてた」「もうひとりぼっちじゃないから」と歌う、このあたりのあゆは、本当に嬉しそう。
お直し前の少し不揃いな歯がのぞく、当時の初々しいあゆが思い起こされて、またもやエモさに胸が押し潰されそうになる、まったくの赤の他人のわたし。
「第五章 Mとの別れ」
1999年はあゆの代表曲のひとつである「Boys&Girls」が発売され、本格的にブレイクした年である。
が、あゆはこの年に、受け止められないほどの賞賛と孤独を一気に味わうことになる。
専務と1秒でも長く時間を過ごしたいという望みも叶わず、殺人的なスケジュールを強いる「浜崎あゆみ」という巨大な虚像が、心身ともにあゆを追い詰める。
そしてその状況を作り出しているのは、プロデューサーである “ max matsuura ” こと専務であり、ほかでもないあゆが愛する“ マサ ” であった。
「“ max matsuura ” から逃れたい、助けて欲しい」とあゆが顔を埋める相手には、その叫びは届かない。あゆは“ max matsuura ” と愛する“ マサ ”の間で立ち尽くすようになる。
また一方で専務も、大きな事業となりつつあった、「浜崎あゆみ」というプロジェクトの仕掛け人の張本人として、計り知れない重圧を背負っていた。
ほどなくして専務は、そのストレスから心身を侵すほどに、アルコールに依存してしまう。
専務の状況を心底心配したあゆは、「依存症」をテーマにした映画を借りてきて、それとなく専務にさし向け、専務はそのメッセージを受け取ったのだが…。
…しかしその後もすれ違う、二人の関係。
専務と交わした、果たされなかった夏の約束を歌った「 Boys & Girls」がリリースされる頃には、二人の同棲は形だけのものになっていく。
ちなみに当時、雑誌のインタビューで「 Boys & Girls 」の歌詞に込められた思いについて問われると、あゆは「ある意味裏切りみたいなものがテーマかもしれないですね」と答えていた。当時12,13歳だったわたしは「何がだべや」と見当がつかなかったものだが、こういうことだったのである。
んなもん分かるかい!
そんな専務とのすれ違いを重ねた時期のとある日、あゆは専務が仕事用に借りている部屋に訪れた際、知りたくなかった事実に遭遇してしまう。
専務は自分と会う時間さえも無い程多忙なはずなのに、実はその部屋でベルファーレから連れ帰ったと思われる女性やスタッフたちと “ 陳腐なパーティー ” に興じていた。
専務が見知らぬ女に、しなだれかかるようにして酔いつぶれているのを目撃したのだ。
自分は専務のために、寝る暇も惜しんで仕事をしているのに…。
あゆは失意のまま部屋を出たあと、誰にも告げず2日ほど失踪してしまう。
これがあゆファンの中では有名なかの「あゆ失踪事件」であり、このことを契機にあゆと専務の間の溝は決定的に広がってしまう。
どれだけ泣いても甘えても、ワガママを言って困らせても、仕事関係者としてなだめるばかりで、もう恋人として取り合ってはくれない専務。
専務との間に出来た深い溝を目の当たりにし、身を切られるような失恋の痛みと、孤独を自覚するあゆ。
専務と二人で生きていきたいという夢が潰え、そして専務と二人三脚で作り上げ、瞬く間に(モン)スター化してしまった “ 浜崎あゆみ ” を、今後はひとりぼっちで背負っていかなければならないという絶望。
その心境を、自身が「絶望三部作」と名付けた「vogue」「Far a way」「SEASONS」の詩に託した。あゆは絶望を歌うことで、自らを救おうとしたのだ。「SEASONS」のPVが喪服姿だったのは、専務と自分の過去を葬り去るためだった。
君を咲き誇ろう
美しく花開いた
その後はただ静かに
散って行くから…
気付けば いつでも
振り向けば君が
笑っていました
ha-ha-haaa-
気付けば いつしか
君の事ばかり
歌っていました
ha-ha-haaa-
だけどそれは決して
後悔ではなくて
あの日々が
あった証なのでしょう「 vouge 」
新しく 私らしく あなたらしく 生まれ変わる…
幸せは 口にすれば ほら指のすき間
こぼれ落ちてゆく 形ないもの
(中略)
人は皆通過駅と この恋を呼ぶけれどね
ふたりには始発駅で 終着駅でもあった
uh-lalalai そうだったよね
もうすぐで夏が来るよ あなたなしの…「 Far away 」
今日がとても悲しくて
明日もしも泣いていても
そんな日々もあったねと
笑える日が来るだろう
幾度巡り巡りゆく
限りある季節の中に
僕らは今生きていて
そして何を見つけるだろう「 SEASONS 」
あゆは、踏ん張ったのだ。
ハタチそこそこの年齢で、大きな喪失感を抱えながらも、そして自ら作り上げてしまった大きな虚像に戸惑いながらも、それでも生き馬の目を抜く芸能界で、高い高い山をひとり登り続けた。
当時のあゆは「時代のカリスマ」と呼ばれ、あらゆる賞を総ナメにし、常にどこかであゆの曲が流れていた。
そんな華やかで美しい黄金時代を築きながらも、その裏では専務との同棲を解消し、「ひとりの家に帰りたくない」と、ホテルを渡り歩く生活をしながら、なんとか大失恋の痛みを乗り越えようとしていたあゆ。
夢のように華やかな栄光を享受する気持ちの余裕はどこにもなく、あゆは当時、自分自身を「夢に敗れた敗者」と認識していたという。
しかし、あゆは専務に取り残されひとりになっても「浜崎あゆみ」を請け負い続けた。
その理由を、「“ マサ ” が世に送り出した“ 浜崎あゆみ ”を葬り去ることが、どうしても出来なかったから」だと、この本で明かしている。
そしてあゆは、専務との別離後も、今回の本の題名ともなった「 M 」で、専務への愛と尊敬を歌いあげた。
デビューから間もなく「 Trust 」で「恋が皆 終わるわけじゃないと」と歌ったあゆ。
しかしその約二年後には、「それでも全てには 必ずいつの日にか 終わりがやって来るものだから」と悟ってしまったのだった。
MARIA' 誰も皆泣いている
だけど信じていたい
だから祈っているよ
これが最後の恋であるように
理由なく始まりは訪れ
終わりはいつだって理由をもつ…
全盛期のあゆは人形のように可愛いルックス・才能・成功、女性が望むすべてのものを持っているはずなのに、いつもどこか影をまとっていた。
その暗さや刹那さがあったからこそ、ファンは歌詞からあゆの心の内を想像し、共感していたように思う。
自分の感情や孤独をエモいほど主観的に綴りながらも、冷徹なまなざしで表現する力が、浜崎あゆみの最大の才能であったと、個人的には思っている。
当時はその暗さや刹那さについて、あゆの生い立ちやパーソナリティにばかり理由を求めていたけれど、何よりもこの本で背景として描かれていたのは、専務への叶わない恋の切なさ、大恋愛の喪失からくるものだったのだ。
あれっ?普通に年頃の女子の失恋じゃん!?
だけど当時、その影こそがあゆの最大の魅力であり、多くのファンの心を掴んでたのだから、何が功を奏すかわからない。スター稼業は皮肉なものである。
この本には、「M」以降の後日談は、松浦氏との再会を果たした「設定」の、2017年以前の事は書かれていない。
実際には、専務との別れから約1年後、あゆは「Dearest」という曲をリリースする前後に、長瀬智也との交際を発表した。
当時「 Dearest 」の歌詞は、長瀬智也との関係を歌っているのではと話題になった。
当時ビジネス オネェキャラだった藤井隆が司会を務める歌番組で、視聴者を代表して歌詞の意味をあゆに突っ込んでいたのを覚えている。
その時もあゆは、「絶望三部作」の時と同様、「過去の自分のことを、詩に書いた」と答えていたことを記憶している。
それを聞いた当時は、そりゃ「現役のジャニーズについて書きましたわい」なんて言えんだろうなぁ…なんて思っていた。
しかし待てよ、当時のあゆの発言は、あながち誤魔化しでは無かったのではないか。
今回この本が出るや否や、SNSには「え、「 Dearest 」はさすがに長瀬のことだよね?」と戸惑う声が挙がっていた。
先述の通り、わたしも当時はあゆが長瀬のことを歌った曲ではないかという妄想に胸を熱くしたひとりだ。
だがしかし今やあの歌詞は「時が経ち、恋の執着を離れたことで、本当の意味で人としてお互いを愛し、思いやれる一番良い関係性に辿り着いたね 」と、昔のあゆ自身と専務について書かれたように思えてならない。
「 Dearest 」… お前もかっ…!!!
あゆと長瀬はその昔ドラマで共演しており長い間知人関係ではあったが、しかしこの曲の歌詞は、恋人関係になって日が浅いはずの二人の曲とは個人的には思い難い。
だって「 Ah 出会ったあの頃は 全てが不器用で 遠回りしたよね 傷つけあったよね(ラストサビでは、遠回りしたけど 辿り着いたんだね)」という歌詞。
付き合ったばかりなのに、そんな許しと愛と諦観の境地に辿り着くとは、あんたらPDCA回すの早すぎやしないか?
その歌詞に、その時すでに一周も二周も経た松浦氏との関係性が垣間見えて仕方ないのはわたしだけだろうか。
というか、もうこの本を読んでしまうとあゆの松浦氏への想いが強過ぎて、申し訳ないがあゆの歴代元カレたちがモブキャラに見えて仕方ないのだ。
あゆに内緒で際どい写真集を出したオーストリア国籍の元旦那も、「ダメ男」の称号が日本一似合う元専属ダンサーも、あゆの専務への想いの前ではモブofモブ、なんなら無かったことにされているように見える。
あゆはその後、長瀬智也と7年もの間交際する中でも、「 Part of me 」などの曲で、「わたしの魂の半分は、マサで出来ている」と堂々とその関係性を歌い続けていた。
わたしは “ 天然 ” と評されることの多い、長瀬智也の寛大なメンタルを今こそ讃えたい(何様)。
いつの世も、業の深い女には、あっけらかんとした懐の広い男が必要なのである。
そんなあゆの業の深い曲はいくつもあるが、特に個人的に印象深いのが「HANABI ~episode II~」という曲である。
ねぇどうしてまた
振り返ってる足跡辿って
ねぇあれからもう
夏は何度も巡っているのに
何もかもまだ覚えているよ名前呼ぶ声
(Yeah oh) 何気ないクセ
(Yeah oh) 忘れたいのに
(Yeah oh) 忘れたくない
あゆが何かと歌詞にする「あの夏」。
冒頭に書いた「æternal」もそうだが、あゆは折に触れ、専務との蜜月を過ごしたあの夏の日々とその一年後の別れの夏のことを、歌い続けているのではないだろうか。
あゆは本の中で、「わたしは知っていた。マサのように愛せる人が二度と現れないことを」と語っている。
ジャニーズサイドはそろそろ名誉棄損で訴えた方が良い気がするが、実際あゆにとって松浦氏は「愛のはじまりであり終着点」なのだろう。なんてこったい、「Far a way」の歌詞そのまんまやんかぁ…!
序章と最終章で描かれるあゆは、また松浦氏とともに歩めることを、心から喜んでいるように見える。
松浦氏とともに在るその地点は、いつだってあゆにとって「はじまり」であり、そこに松浦氏がいる限り、ともに続いていく。
だから二人の関係は、「 TO BE 」で「æternal」(永遠)なのだろう。きっと「浜崎あゆみ」としても、「あゆ」としても。
ねぇ、二人はどうして再婚しないの…?
今回、ワイドショーやニュースサイトがこの本の出版を報じた際、本の帯にあゆが「自分の身を滅ぼすほど、ひとりの男性を愛しました。」と書いたことが物議を醸した。
わたしも当初は「それを言うなら明菜と朋ちゃんに断ってから」と思っていた。
がしかし、「ひとりの男性を徹底的に愛せることを知ってしまったが故に、一生満たされない思いを抱えざるを得なくなってしまった」のだとしたら、それはまさに業を抱えて生きることにほかならず、ある意味「自滅」にあたるなというのが本書の読後感想である。
またなによりもあゆは、唯一心から徹底的に愛した男性から、“ あゆ ” であること以上に「浜崎あゆみ」であることを強いられた。
そしてそれを受け入れ、聴力など身体を犠牲にしてでも、「浜崎あゆみ」であることに人生を捧げた。その意味で、あゆは自ら「身を滅ぼす」ことを選んだと言えるかもしれない。
当時あゆのファンであったわたしや友人らは、あゆが書いた詩の真意を知ろうと勘繰ったり推察することで、少しでも憧れのあゆの心情に近づこうとしていた。
しかしその実、デビューからわたしたちはずっと公開ラブレターを聞いていたのである。
だから、今回の出版にあたって、SNSでは「あの頃の共感を返して欲しい」という声があがった。もっともである。
だけど、あゆの詩を媒介者として、「当時の自分しか持ち得ない感性で、何かを感じていた」という記憶は、何よりも貴重で尊いと個人的には思う。
鍵が無いと、引き出しは開かないのだ。例えその引き出しに黒歴史しか詰まってなくとも、もうあの頃のように純粋にエモくなれることは2度とない。思春期の醍醐味である。
個人的には、自分の多感な時期にエモさを味わわせてくれたアーティストが居てくれたことに感謝している。勿論私の引き出しも漆黒だ。
「終章 Mとの……」
そして、ここにきて「終章 Mとの……」について書く尺がないことに気づいてしまった。
雑に要約すると「いまが一番幸せ。歌なしの人生は考えられず、これからも歌い続ける」といった内容であった(スタミナ切れ)。
あゆ世代の方、最高にエモい気分に浸れるこの本おすすめです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
#浜崎あゆみ
#M愛すべき人がいて