しまずあいみのぽんこつ日誌

~アラフォーになったのでタイトル変えました~

愛なんてクソくらえ、夏。

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※ 本文と写真は何の関係もありません。

 

アラサ―女子のための性愛コラムサイト『AM』というサイトがありまして

AM「アム」|非恋愛時代に未来はあるのだろうか

 そこに「ファーレンハイトさん」という、「男女のモテをアジテーションする」脱力系ヤリチン(しかもイケメンだった・・・)コラムニストが寄稿されてるんですが、

【この方です】

https://twitter.com/fahrenheitize

 そのファーさんがtwitterでこんなことをつぶやいていたの。

【ファーさん6月23日のつぶやき】

ふむふむふむ、これだね。

【人付き合いは「腹六分」で 美輪明宏さん】

人付き合いは「腹六分」で 美輪明宏さん アールグレイはいかが?/ウェブリブログ

「人間関係は腹6分でちょうど良い」そうわかっているはずなのに、人はその目分量を守らない。守れない。

「目分量を守れない」ことのひとつに、人は人との間に「関係性」を作ろうとし、名前をつけたがり、「関係性」に役割を望む(そしてそれは度が過ぎて、押し付けになる)ことがあるんじゃないかと思う。

 

人と人を「点」と「点」のままで許さず、「点」を「関係性」という線でつなごうとし、そして「関係性」を理由に、相手に対して「こうあってほしい、あるべきだ」を望む。 

本当は相手の愛らしいところ、いびつなところ、強さ弱さなど、その人独自に「感じる」ものがあって「もっと一緒に居たい」と思ったのに。その時点で、その人は「点」であったはずなのに。

その人と自分(点と点)をへその緒のごとく当然のように一本の線で結び、その線に「恋人」「妻、旦那」「一番好きな人」「セカンド」「愛人」「親友」「パートナー」など、色んな「なまえ」を付ける。「なまえのない関係」に耐えられないから。「わたしたちっていったいどういう関係なの?」と。

 そしてその名前のある関係性を逆手にとって相手との線の太さ、強度をはかる。「恋人、夫婦だったらこうあるべきでしょ」と。

 

わたし自身、昔はただ「恋されてる」ことを逆手にとって、相手に当然のように糸をくくりつけ、その強度を計ったり試したりしていた。 

そしてそのしっぺ返しかのように、逆の立場にも立つことにもなった。

 「惚れた弱み」というけれど、それはヒリヒリして、楽しくて、刺激的で、しかしとってっつっもっなっくっ疲弊するものだった。

でも、それはわたしが点である彼との間に線を結びたがって、その線を維持したいがために勝手に振り回されていただけなのだ。

それは「愛」ではなく、「自己肯定の低い片想い」だったんだと思う。我ながら。

 

以前、相手の浮気だなんだで悩んでいる時、ある人に「執着してるうちは、それは愛ではなくてただの恋だ」と言われたことがある。

「あなたのしてることは愛じゃないよ、ただの執着、恋だよ」「相手を愛してあげなよ」と。

それを聞いて、あぁ相手と自分を腹の底から切り分けて考えられるようになって、はじめて執着から解放され、「愛する」ことが出来るのかなと思った。 

だとすると、愛するということは「点」と「点」のまま居られる、存在しあえるということなのだろうか。

そんなことをぐるぐると考えた挙句に、でもそんなこと考えなくたって、お互い線で結び合うことが「心地良い」と思えれば、それでいいんだろうな、とも思う。

周りを見ているところ、もっと自然にやきもち焼きあったり、信じ合ったり、支え合ったりしてるもの。

目分量を計り間違えると、大概の関係は破綻に向かう。だけど目分量を間違えても許してもらえる、受け入れられる相手だって居るんだろう。 

わたしにも出来るようになるのかな。

果てしない難題である。

 

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