アラサーOL クソ日誌。

~タイトルを付け間違えました~

日記(8月26日~9月1日週)。

5年と4か月もブログをやっているのに、書いた記事はその間「37記事」。もはや「細く長く」を通り越して、消えそうで咲きそうなホントに咲かない蕾のままであるこのブログですが、書いたものを読んでいただくことは好きなのです。

なので、リハビリがてらこれから日記を書こうと思います。

 

<8月26日~9月1日週>

 

8月26日  パリで折った歯の修理

 先週・先々週と、夫が赴任しているフランスはパリに遊びに行ったのだが、着いて間もなく「鮭とば」を無心でしゃぶって、前歯を欠けさせてしまった。

「鮭とば」の先端の皮が挟まって、それを力任せに「ふんっ」と両手で引き抜いたら、前歯がパリッと欠けたのである。

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鮭とばと欠けた歯の記念撮影

友人に話したら、「なぜパリでわざわざ鮭とばを食べていたのか」と聞かれたのだけど、それはフランスの食生活が合わなかったからである。世界を代表する酪農大国。チーズを漬物のように食する国。だけど残念なことに、わたしは、乳製品が食べられない。

外食すると、何かとクリームソースやチーズがぶっかけられていたり、パンやパテにチーズが挟まっていたりする。「おいおい、ぶっかけたり挟んじゃうの大好きだなぁ!」と、ひとり突っ込みを入れて悦に浸れるのは良いのだけど、切実な問題として、食べられるものがない。

フランス語は「café」くらいしか読めないので、分からないメニューにチャレンジするのが怖い。ひとりでランチに出ると、言葉が話せないので、店員の塩対応が怖い。一度、メニューを広げて目をつぶって、ここだと思うところを指さして注文するというロシアンルーレット的注文を自分に課してやってみた。目を開き、指で刺した箇所をよくよく見ると、「frites」と書いてある。揚げ物だからさすが大丈夫だろうとタカをくくって待っていたら、フライドポテトにチーズがぶっかけられたものが出てきて、ひとりペーパーナプキンでチーズを拭き取りながら食べるという羞恥プレイに、泣きそうになった。

そんなある日、家で夫がお土産にいただいたという鮭とばを食べていた。これが大変立派な鮭とばであったので、袋ごと横取りし、泥棒猫の誹りを受けながら「ひさびさに出汁とみりんの味がするにゃぁぁぁ(涙)」と喜び勇んでしゃぶっていたところ、天罰が下りこの惨事である。

前置きがビビるほど長くなってしまったけれども、そういうわけで、口腔内の風通しの良さを感じながら、歯医者に行ったのだ。

わたしは新規の病院、特に歯医者に行くときは、いつもビクついてしまう。以前、威圧的なオラオラ系の歯医者に通院していたトラウマである。

その歯科医師は、腕はすこぶる良かったのだが、衛生士さんへの態度はモラハラそのものであった。その光景を目の当たりにするのもツラいし、何か質問や確認するのもおっかなびっくりだし、結局途中で通院を断念してしまった。元々「医者の7割は変人・5割はモラハラ」という偏見と先入観を持っていたため、3割増しで怖く見えたのかもしれない。

打って変わって、最近通い始めた神田駅近隣の歯医者は、とても物腰柔らか。しかもスマホ漫画に出てきそうな、中性的なメガネ男子である。毎回優しくされるたびに「あ~、このお医者さんだったら結婚できるなぁ・・・」とほだされるのだが、できれば彼には奥手であってほしい(何様)。衛生士さん、彼はオススメですぞ!と言いたいところだけど、外面の良いハイスペにこそ、モラハラは存在すると妄想にかられ警戒してしまう程には、twitter漬けの耳年増である。

歯医者の帰りに、神田駅前の「かめや」というワンコイン系蕎麦屋で、なぎら健壱氏も絶賛の「冷やしまかないそば」を食べるのが密かな楽しみ。

夕べもここにいた!―なぎら健壱の東京居酒屋

夕べもここにいた!―なぎら健壱の東京居酒屋

 

8月27日  疲労困憊OL、取引先で噂になる。

社外のパートナー企業のみなさまに、退職の送別会をしていただく。「もう一度、いまの会社で働きたいですか?」という質問に、何の気なしに「そうですね、とても働きやすいので~」と答えたら、全員に驚愕された。

「えっ!しんどいから辞めるんじゃないんですか?」「うちの社内では、にゃんきちったーさん(※実際は苗字)、いつも疲れているの有名で、やっぱり仕事疲れたんだろうね、ともっぱら話題でしたよ!」と言われる。

この2か月半ほど、週3~6で出張が続いており、相当に疲れていたのではある。その最中、出張に行く先々で、展示会やセミナーをご一緒していた皆さん。日ごとに満身創痍になっていくわたしを見て、その顔色の悪さが噂されていたらしい。「疲れた顔を見せない」どころか、取引先でその疲労感が噂になる女・・・。会社としても不名誉というか、ハタ迷惑な社員だと思うが、副腎疲労なので仕方がないよねとひとり開き直るふてぶてしさが、社会人として身につけた財産である。嘘です…申し訳ありません。。

 

8月28日  整体。

整体に行く。雪の日も台風の日も、週2-3で通い続けて10年目。整体師とわたし、二人の間に言葉は不要である。言葉が不要すぎて、この日の記憶がない。

 

8月29日  断食するから金をくれ

友人たちと飲み会。わたし自身は欲望のままに金を溶かしてきた身であるが、知人には、堅実に貯蓄をしたり、投資をしたりというマネーリテラシーがちゃんとしている人が多い。そのなかで、カードローンを利用した自転車操業を、公言している強者が居る。

「ファスティングをするために、Amazonに登録が残っていた親のクレジットカードを使って、ファスティング用のジュースを買ったことが親にバレた」という話は、何回聞いてもその皮肉に染み入るものがあり、大好きだ。ファスティング用のジュースは大概、数日分で4万円くらいする。んなもん買わずに、水飲んで塩でも舐めて断食しろ!である。

彼の実家は土地持ちなので、そのせいか影や暗さが一切なく、宵越しの金は持たないとばかりに毎晩酒を飲んで常に楽しそうだ。日本の若者の閉塞感の影を感じない。彼の財布の中は経済破綻しているかもしれないが、気持ちは新興国の若者である。

実家土地持ちはやはり強いなと、皆を二次会に散々誘っておいて、テーブルの真ん中の席で早々に寝落ちする、彼の横顔を見て思った。

 

8月30日  独身に色々言う男

慕ってる元上司と同僚と送別会。本当にありがてぇ…。そしてその帰りに、友人とLINE。

最近飲み会に行っても、結婚や婚活の話になることに、辟易しているらしい。そうだよね・・・。しかも相手と特に仲が良いわけじゃないと、ぶっちゃけトークにもできないから、面白い話にもなりにくいものだ。

なんなら気の利く女子がその場を和ませようと、少し盛って冗談にして話すと、クソバイスされる始末。いつも身を削ってでも話題を提供するその子らを、健気だとは思わんかね(誰)。でこう言うと、「そんな自虐要らんし」という話になるのだ。だったらあんたら、わしらよりオモロい話してくれるかと詰め寄りたくなる。ふんぬーっ!

話を戻すと、恋愛だの結婚だのという話をする相手も悪意があるというわけでもなく、正直この手の話題しかする話がないのだろう。個人的には、それ以上の話題も提供できない自分への罪悪感を感じるのも、ツラかった。

以前50代の方にその手の話をしたら、「介護や病気の話より、マシよ」と言われ、「まぁ、それは確かに」と思ったけれど、ねぇ・・・。

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以前、「なんで結婚しないの?」と散々聞いてきた男性に、その場で適当に話を合わせていたら、最後に言われたひと言。しばくぞ。

 話題がつまらない時は、「好きなものの話」をしたらよいというのを聞いたことがある。わたしも、最近twitterのタイムラインがなんだが殺伐としている気がするので、料理アカウントだけをフォローしているリストを作って、よく眺めている。

リュウジ@料理のおにいさんバズレシピさんの投稿は、レシピの工数が少ないので、流し読みでも頭に入ってくる上に、投稿に付いているリプライが、「こんなレシピを生み出してくれてありがとうございます!」「最高です!」という感謝に次ぐ感謝。「味の素のうまみ成分まで分解して書いてくれないと、レシピの再現性がありません。丁寧な投稿を期待しています。」というようなクソリプは、ほぼ見たことがない(このクソリプは自作である。念のため…)。

レシピのストックにもなって、一石二鳥。安うまカンタンレシピは、世間を救うね。

 

8月31日   母、正式に改名。

今週はもう普段は行かない飲み会が続いたせいか、身体が辛くて朝方まで眠れず、午前中寝ていたら母親から鬼電。

何度目かの電話に出ると、「ママ、正式に改名しましたぁ〜☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆」と、母の大きなアニメ声が電話の向こうで響き渡っている。
母親は、ずっと自分の名が嫌いだったのだが、この度家庭裁判所に認められ、正式に改名したらしい。って、家庭裁判所でそんな声出しとんのかあんたっ…!
思えば、わたしが物心ついた頃から、家には美容室やコスメカウンターから、見知らぬ女性宛の葉書がよく届いていた。「 ●● 直美 様 」「 ×× 留美 様 」…など、時には名字まで異なるものもあったが(よく届いたな)、微妙な規則性から「これは間違いなく母親宛である」と悟ったものだ。
いくつもの偽名を使い分ける中年の女・・・当時、愛媛県は松山市に住んでいたので、一瞬母親は福田和子」なんじゃないかと疑念を抱いたこともあった。

「ママね、今日から新しい気持ちでまた人生を送るよっ☆」と声を弾ませる母。ちなみに我が家は三姉妹であるが、母親のことを「ママ」とは呼んだことのある娘は誰一人としていない。
人間、親と名前は選べないのだから、自分が好きな名前を名乗ることには、大賛成だと思いながら、二度寝した。

 

9月1日  毛に翻弄される一日。

白髪染めのために美容室へ行き、脱毛(ブラジリアンワックス)へ行き、まつ毛トリートメントを買いに行き、整体に行った。

こういう日を「自分メンテナンス」と言うらしいが、実質「毛」に翻弄される一日。正確に言うと、わたしが翻弄されているのは、毛ではなく自意識なのだが・・・。

東洋医学では「髪は血余」(血の余り)というそうなのだが、血が作れず巡りの悪い「血虚」体質の私は、昔から白髪が多い。特に、30歳になった誕生日と2日後から、こめかみやもみあげに白髪が現れ、抜いても抜いても生えること、雨後の筍の如し。しかもこの場所は抜くと超痛いのだ。とはいえ目立つ場所にあるので、忙しくて放置していると、すぐばれる。夫に「えっ、すごい目立つ場所に白髪生えてるよ!抜いてあげるからちょっと来て!」と言われたときなんかに、こちらの虫の居所が悪いと、「この白髪、抜かせてなるものか」という変な意地が出てきてしまう。「うるせぇ!自分で抜く!」「いや、どうせ抜かないんだから、俺が抜くよ!」「いやっ、自分で抜ぐっ!!」という小競り合いになる。今は夫が単身赴任中なので、安心して白髪を生やしているのだが、果たしてそれもどうなのだろうとふと我に返った。しかし、せっかく安寧の地を手に入れたと思っているだろう白髪を、無残に抜くのも不憫に思えたので、間を取って、朝から美容室に行き、白髪を染めた次第。

ちなみにまつ毛トリートメントは、出張で東京から広島に向かう新幹線の車中、暇過ぎてマツエクを一本残らずむしり取るという暴挙に出た際、地毛もろとも根絶やしにしてしまった、まつ毛への療養である。自分が愚かなばかりに金がかかって、辛い。しかもせっかく買いに行ったは良いものの、妹に勧められたAmazonで買えるこちらの方が良さそうである。

ビューティーラッシュ オリジンTM 4.5ml(Beauty Lush origin) 4.5ml

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そして日曜夜は、毎週の楽しみ、『あなたの番です』。シェアハウスの住人3人で観ていたのだけど、まさかのどーやんが翔太の首を締めるラストにみんな唖然。番組終了後、延々とtwitterの考察パトロール。

次回予告を見ていると、個人的には「愛する黒島に自白を促す状況を作り、そして慕っている翔太を、黒島に復讐する殺人者にさせないため、苦悩したが故の行動」説を推したいが、どうだろう。御察しの通り、どーやん推しである。

『あなたの番です』を観た後の、平日すっ飛ばしてはやく次の日曜の夜になって欲しい感はすごい。最も好きな曜日である、土曜日を差し出しても構わない覚悟だ。

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正直、黒島ちゃんには嫉妬しかない。

 以上、そんな感じの週でした。

 

【今週のハイライト】

中国に居住するイスラム教を信仰する少数民族・サラール族の一家が営なむ、一時閉店中の近所のラーメン屋が、仲間割れか詐欺かクーデターが起こったことを、店に貼ったチラシで近隣住民に訴えるという事案が発生している。

乗っ取られた方と、乗っ取ったとされる方が交互に、相手の貼ったチラシを破り捨て、自分の主張が書かれたチラシを貼るということを繰り返しており、近隣住民はもはや話の展開についていけない。

こういう乗っ取りは、「中国ではよくあること」と聞いたが、どうなんだろう。

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「今後再び違法での営業を行う可能性はありますのでご注意下さい」休業中の本郷蘭州ラーメンの不穏な貼り紙に憶測の飛び交うTL - Togettertogetter.com

 

浜崎あゆみ『M 愛すべき人がいて』の読後感想(※ネタバレ注意) あゆの「はじまり」と「永遠」。

巷で話題になってんだか、なってないんだかわからない『 M 愛すべき人がいて 』を読んだ。

M 愛すべき人がいて

M 愛すべき人がいて

 

この本には、あゆがスターダムに駆け上がるまでのデビュー秘話と、デビューのきっかけをもたらした、松浦専務(当時)との大恋愛とその喪失が描かれている。

いま現在においても、年単位での超ロングツアーなど、新しい挑戦を続けているにもかかわらず、この数年は本業よりもゴシップがフォーカスされることが多いあゆ。

その状況を、少なくない数のファン・元ファンが嘆いているのに対し、ここへきて昔の恋愛を私小説的として、間接的に世に送り出した。

想定の斜め上を行くどころか、ど真ん中かき分けて逆を行く超ストロングスタイルである。

ということで、最初出版の話を聞いた時は「頼むから、そういうのはもう止めておくれやす…」と消極的だったのが、結局読まずにはおれず、発売日に購入したのだった。

 

しかしこの本、予想以上にエモかった。なぜかというと、本を読み進めながら、当時の物悲しそうで厭世的で華奢でキラキラとした、あの頃のあゆが、ありありと浮かぶんである。20年も前の「当時のあゆ」についての記憶が、あまりに鮮明であることに、自分自身驚いた。「ホントに、あゆのこと好きだったんだなぁ・・・」と今更ながら実感。

そして実際なによりも、あの時代のあゆの影響力と惹きつける力が、強烈であったのだと思う。だから当時のあゆの記憶に呼応して、厨二病の危篤患者であった、中学生当時の自分まで思い出され、なおさら懐かしくてエモくて胸が締め付けられたのだ。

 

あゆの恋愛遍歴は、これまで色々取り沙汰されてきたけれど、この本の中には、松浦氏以外、一切登場しない。

7年もの間公然の仲であった長瀬智也、突然ヌード写真集を出版したよくわからないオーストリア人の元旦那、ミュージシャンになったり農家をやったり選挙に出たりと、何がしたいかよくわからない元お抱えダンサー、名門UCLAを中退したという元医大生のよくわからないアメリカ人の元旦那、最近でいえば『 FRY DAY 』で報じられた、20歳歳下のダンサー、その他数名エトセトラも、一切出てこない。

この本は、あゆと松浦氏ふたりによる、ふたりについての本なのだ(この本は、著者の小松 成美さんによる、当事者ふたりへのインタビューがベースとなっている)。 

この本の目次を開いてみると、以下の記載がある。

「序章 Mとの再会」

「第一章 Mとの出会い」

「第二章 Mへの想い」

「第三章 Mと歩む」

「第四章 Mを信じる」

「第五章 Mとの別れ」

「終章 Mとの……」

2000年代初頭のケータイ小説さながらの目次を見て、表紙をそっ閉じした人は多いのではないだろうか。 自分もここで「おっ、おう・・・」と面食らったのだが、ここまで読んでいただけたなら、どうかめげないで、ついて来てもらいたい。

そしてもしよかったら、以下の文中の曲名に、その歌詞と動画が掲載されたページをリンクしているので、お気に入りだった曲があれば、ぜひリンク先に飛んで観てもらいたい。きっとエモさを感じてもらえるはずである...。

 

以下に、章ごとの感想をしたためたいと思う。

「序章  Mとの再会」

遡ること数年前、あゆは件のよくわからない白人男性と結婚し、アメリカに居を移していた。

ここでは「二年前の年末、一人に戻ってマリブにある家を引き払った」と、その1行で、結婚生活が終わったことになっているそして空港に着いたあゆを、ひとり待っていたのは “ M ” こと松浦氏だった。

あゆはここで、松浦氏に積年の想いを伝える。

ずっと会いたくて話したくて、でも会うことも言葉を交わすこともないと決めていた彼は、時を経ても変わっていない。

あゆね…今だから歌える歌を、届けていきたい。いろんな経験をしてきた今だからこそ、歌える歌があると思っているから 

マサ、もう一度、あゆの近くにいて。昔のように二人で一緒にファンが待ってくれている歌を、パフォーマンスを、作っていきたいの。会社はとてつもなく大きくなって、マサの立場も仕事の量もあの頃とは違うとわかっているけど、今は、マサの力が必要なの 

勇気を振り絞った言葉に、マサはたっぷりと時間をかけて答えた。 

もう一度俺がやる。だから迎えにきた

「あゆの目指す場所は、この世界の外にはない。俺たちが立っている世界の、ずっと先にあるんだよ」

「自らの美学を貫き、この世界を去っていくアーティストもいるよ。でも、あゆはそうしない。ステージに立ち続ける。年齢なんかにとらわれない。それがアーティストの姿だから」

序章の時間軸は、約3年前。デビュー20周年に向けて歩き出そうとするあゆが、また羅針盤として松浦氏を頼ったという話だ。

あゆは松浦氏と再会後に「æternal」という曲を書いた。

さよならもうまく言えなくて
ありがとうも言えなかった
どうしてもどうしても
言葉には出来なかった
君といたあの夏の日々を
夢に見て目覚めて泣いた
思い出に変わっていく
僕たちは大人になる

「æternal」

ねぇ、マサ。私たちは大人になったよね。遠い日を振り返ってみても、あれほどの喜びと純粋さと切なさに満ちた時間は、他にはないと思っている。今は、新たな日々の物語を抱き生きていくと決めた私のその人生に、ねぇ、マサ、あなたはそこにいるの?

のっけから、あゆのポエミーな語りが炸裂である。「いい大人が、自分のこと、あゆあゆあゆあゆうっせぇんじゃぁ」とイラっと来てしまったが、それを言うと、あゆは成り立たない。今さらそんなこと思う、わしが悪い。

というか現実では、空白の期間ってほぼなくて、よくツーショットSNSにアップしてたよね?と思いつつ、「事実を基にしたフィクション」ということで、序章はライトに読み進めた。

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「æternal」が収録されているミニアルバム。近年のあゆの曲のなかでも、特に情感のこもった、あゆらしい良曲である。ジャケットに写る男性の手は、松浦氏のものであるが、近年のあゆは「こういうことしなければ…」と思わせる天才である。

「第一章 Mとの出会い」

さて、ここからが本番である。
二人が出会ったのは六本木のクラブのVIPルーム。ある年の大晦日、パリピでごった返すVIPルームの中心に、有名なヒットメイカーである専務(当時松浦氏は専務)は居た。

専務に呼び止められ、電話番号を聞かれた10代のあゆ。専務からの電話を待ちわびる日々のはじまりである。
この頃あゆは、芸能活動のために高校入学と同時に、博多から母親と祖母と中野に引っ越していた。
専務からの電話が鳴るなり、あゆは呼ばれて飛び出てハクション大魔王の速さで専務の元へ駆けつける。
駆けつけるのは、ベルファーレのVIPルームであることもあれば、高級レストランであったり、専務の身内との打ち合わせの席だったりするのだが、あゆはいつも黙って専務の隣に座っているだけであった。

そのうち専務はあゆをミュージックバーに連れ出し、歌わせるようになる。何を言われるでもなく、毎回延々と歌わされ続けるのだ。
これがその辺の男だったら、「ご飯おごってくれるけど無賃で歌わされるだけ」というローリスクローリターンなパパ活であるが、専務が既婚者と知りながら、既に恋心を抱いていたあゆ。そのうち芸能の仕事よりも、専務との時間に重きをおくようになる。

そのうちにあゆは、元々本意でなかったグラビアや、元ヤンのあゆに清純派女優の仕事ばかりさせようとする、所属事務所との契約を解除した。前後して、芸能人が多く通う高校も自主退学する。
突然事務所を辞めてきたというあゆの先を案じた専務は、「You 無職ならうちで歌っちゃいなよ」と言い、そこから二人は二人三脚でデビューを目指すことになる。

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あゆと専務が知り合った頃、元所属事務所・サ●ミュージック時代の、あゆのシングルデビュー時

「第二章 Mへの想い」

あゆは専務からのお達しにより、3ヶ月間、ニューヨークでの修行を課せられることになる。
ひとりで送り込まれた極寒のニューヨークでの武者修行中にも、週に1度かかってくる専務からの電話を楽しみに、スパルタのレッスンに励むあゆ。
そして専務は出張の際、あゆに会いにニューヨークに立ち寄る。二人でニューヨークの街を散歩している折に立ち寄った、5番街のプラダで、専務は「似合うから」と言って、あゆにコートをプレゼントする。
専務と別れ帰路に着いた後、真新しいコートに顔を埋め、専務の名前をひとりつぶやくあゆ。さながらプリティウーマンである。

片思いの相手は、既婚の15歳上のヒットメイカー。自分の知らない新しい世界に、エスコートしてくれる歳上の男性。
こういう非対称性のある恋愛って楽しいだろうなぁ…と思えてならない描写の数々。憧れと恋心の交差は、恋愛の中でも最も甘美な脳内ホルモンを出してくれるんである。知らんけど…。

しかも相手は、“ 誰にも褒められたことのなかった自分 ” を評価してくれ、一度は諦めかけたはずの芸能界で、華々しくデビューさせてくれると言っている。
そんな状況、いつかの剛力彩芽クラスに浮かれて当然であるが、あゆのそれは、秘密の片思いである。「歌手なんて無理」と戸惑うあゆだったが、専務の「俺を信じろ」の言葉に従った。

しかしその後、専務があゆを業界関係者に売り込みはじめたものの、「あの顔は売れないよ」「あの声は売れないよ」などと反対される日々。実際あの頃は、あゆのような目鼻立ちが大きくガチャガチャした顔立ちは、未だ珍しかった。

本によると、芸能関係者との商談の席で、あゆのデビューについて反対されたりコケにされたりする度に、専務はテーブルの下で拳を握っていたそうだ。
そしてあゆは自分のために怒り、拳を握ってくれる専務を見る度に、親愛の念を感じていた。
「あゆは、あゆのままで良い。世間の好みすら、変えてやれ」とあゆを肯定し続ける専務。

実際あゆはその後、「可愛い顔」の価値観まで変えてしまう。

このあたりのことが「 Trust 」や「 TO BE 」の歌詞になっている様子が書かれていることは、この本を読まなくても、当時ファンだった方はご存知だろう。

誰もが通り過ぎてく 気にも止めない どうしようもない
そんなガラクタを 大切そうに抱えていた
周りは不思議なカオで 少し離れた場所から見てた
それでも笑って言ってくれた "宝物だ"と
大きな何かを手に入れながら 失ったものもあったかな
今となってはもうわからないよね
取り戾したところで きっと微妙に違っているハズで

君がいるなら どんな時も 笑ってるよ
君がいるなら どんな時も 笑ってるよ
泣いているよ 生きているよ
君がいなきゃ何もなかった

「 TO BE 」

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…本の折に触れて、当時のあゆの歌詞と、背景にあるエピソードが併載されていて、わたしはもうエモさで胸がいっぱいである。

時を同じくして、ビジネスパートナーであった小室哲哉氏と決別した専務。
その前身は専務が興したレコード屋であったという、小さなレコード会社であったエイベックスが、数年で会社として大きくなったのは小室哲哉氏の貢献であった。
そのてっちゃんの抜けた大きな穴を埋めるという重責を負いながら、あゆのデビューに向けて奔走する専務。
あゆは専務の期待に応えたいという気持ちと同時に、専務への恋心を抑えようと、人知れず格闘する。
あゆと出会った当時、既婚者であった専務は、出会いから間もなく離婚した。が、すぐさま新しい恋人を作り、スタッフやあゆとの打ち合わせや会食に同席させていたのである。

私は、毎晩、目を閉じて心を整えた。
それは、「俺を信じろ」と言ってくれた人への思慕が、その恋心が、決して溶け出るようなことがないよう、固く凍らせる時間だった。

あゆが毎晩、幼い恋心をセルフ冷凍していることを知ってか知らずか、専務はデビュー日を決め、あゆに作詞を勧めた。

そこであゆは専務に伝えられない想いを、ラブレターに書くつもりで歌詞にし、便箋に書き写して専務に渡した。

人を信じることっていつか裏切られ
はねつけられる事と同じと思っていたよ
あの頃そんな力どこにもなかった
きっと色んなこと知り過ぎてた
いつも強い子だねって言われ続けてた
泣かないで偉いねって褒められたりしていたよ
そんな風に周りが言えば言う程に
笑うことさえ苦痛になってた


一人きりで生まれて
一人きりで生きて行く
きっとそんな毎日が
当たり前と思ってた 

「 A Song for XX 」

「第三章 Mと歩む」

本に書いてあるように、10代の少女の作詞一作目が実際に「 A Song for XX 」だったらば、専務もさぞかし度肝を抜かれたことだろう。
専務へのラブレターのつもりで書いた詩を、本人に手放しで絶賛されたあゆは、「poker face」「 YOU 」…と、日々専務への想いを綴るようになる。

いつだって泣く位簡単
だけど 笑っていたい
強がってたら優しささえ
忘れちゃうから素直になりたい
あなたの愛が欲しいよ  

「poker face」

君のその横顔が
悲しい程キレイで
何ひとつ言葉かけられなくて
気付けば涙あふれてるきっとみんなが思っているよりずっと
キズついてたね 疲れていたね
気付かずにいてごめんね

春の風包まれて 遥かな夢描いて
夏の雲途切れては 消えていった
秋の空切なくて 冬の海冷たくて
夢中になっていく程 時は経っていたね

「 YOU 」

しかし物分かりの良いフリをして、叶わぬ恋を貫こうとしても、多くの人は志半ばで爆発するものである。あゆもまた多くの人と同様に、ラブレターに想いを託すだけでは、恋心を抑えられなくなった。

そう、この恋に終止符を打とうと、ある日FAX(時代…)で、専務に想いを伝えてしまうのだ。

一生、隠しておこうと決めていた想いですが、告白します。
あなたが好きです。
ヴェルファーレで出会った時から、ずっと好きです。あなたが好きだから、私は歌手になったのだと思います。
(中略)
もちろん、あなたにとって私はプライベートな意味で必要な人間でないことも分かっています。私は、あなたから愛されることはないでしょう。
だから、今日限り、あなたを諦めます。
(中略)
全力で歌うことを誓います。専務が自慢できる歌手になります。どうか信じてください。

ところがどっこい、専務からも想いを同じくしているという返信が、翌朝あゆの元に届いたのだ。

その日のうちに、専務はスーツ姿であゆの実家のある中野まで、ビャッと高級車で乗り付けた。そしてあゆの母親に交際宣言した後、横浜にある自身の実家に、あゆを連れて挨拶。
盛ってなきゃ逆におかしいという程の展開だが、19歳の新人歌手と34歳のレコード会社役員兼プロデューサーという、二人の蜜月のはじまりである。

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全盛期を迎える前の、華奢で儚げな雰囲気のあゆ、可愛かったな…。

「第四章 Mを信じる」 

親族への交際宣言からまもなく、ふたりは青山で同棲を始め、目まぐるしい日々を送りながらも、愛と熱帯魚を育んだ。
あゆはこれから立派な歌手になり、いつか専務を守れるような存在になりたいという強い思いを込めて、「For My Dear...」の詩を書いた。

その頃、ふたりはスケジュールをやりくりして、やっとの思いで休みを取った。夕方〜翌朝までという短時間ではあったが、その貴重な休日に、ふたりは横浜みなとみらいにあるホテルに出掛ける。薄暗の夏の海を眺めながら、ふたりは、出会いからこれまでの出来事を語り明かした。
そして、この日からあゆは専務を “ マサ ” と呼ぶようになる。ふたりの蜜月がありありと浮かぶような描写に、きっとその夏の思い出は、あゆの心に深く刻まれているのだと思える。

Trust」で、「あなたから見つけてもらえた瞬間 あの日から強くなれる気がしてた」「もうひとりぼっちじゃないから」と歌う、このあたりのあゆは、本当に嬉しそう。
あの頃の、笑うと少し不揃いの歯がのぞく、初々しいあゆが思い起こされて、またもやエモさに押し潰されそうになる、まったくの赤の他人のわたし。

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そう、この時は「Trust」で「恋が皆いつか終わるわけじゃない」と歌ってるのだ…

「第五章 Mとの別れ」

1999年はあゆの代表曲のひとつである「Boys & Girls」が発売され、本格的にブレイクした年である。
が、あゆはこの年に、受け止められないほどの賞賛と孤独を一気に味わうことになる。

専務と、1秒でも長く時間を過ごしたいという望みも叶わず、殺人的なスケジュールを強いる「浜崎あゆみ」という巨大な虚像が、心身ともにあゆを追い詰める。
そしてその状況を作り出しているのは、プロデューサーである “ max matsuura ” こと専務であり、ほかでもないあゆが愛する“ マサ ” であった。
「“ max matsuura ” から逃れたい、助けて欲しい」とあゆが顔を埋める相手には、その叫びは届かない。

あゆは“ max matsuura ” と愛する“ マサ ”の間で立ち尽くすようになる。
また一方で専務も、大きな事業となりつつあった、「浜崎あゆみ」というプロジェクトの仕掛け人の張本人として、計り知れない重圧を背負っていた。

ほどなくして専務は、そのストレスから心身を侵すほどに、アルコールに依存してしまう。

専務の状況を心底心配したあゆは、「依存症」をテーマにした映画を借りてきて、それとなく専務にさし向け、専務はそのメッセージを受け取ったのだが…。

しかしその後もすれ違う、二人の関係。専務と交わした、果たされなかった夏の約束を歌った「 Boys & Girls」がリリースされる頃には、二人の同棲は形だけのものになっていく。
ちなみに、当時の雑誌のインタビューであゆが「 Boys & Girls 」の歌詞に込められた思いについて「ある意味裏切りみたいなものがテーマかもしれないですね」と答えていて、こんなキラキラした曲なのに、なんのこっちゃと首を傾げていたのだが、この本を読んで納得…。

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「 Boys & Girls 」=「松浦勝人 & 浜崎あゆみ」を意味している(驚)。

そんな専務とのすれ違いを重ねた時期のとある日、あゆは、専務が仕事用に借りている部屋に訪れた際、知りたくなかった事実に遭遇してしまう。
専務は、自分と会う時間さえも無い程多忙なはずなのに、実はその部屋で、ベルファーレから連れ帰ったと思われる女性やスタッフたちと、 “ 陳腐なパーティー ” に興じていた。専務が見知らぬ女に、しなだれかかるようにして酔いつぶれているのを目撃したのだ。自分は専務のために、寝る暇も惜しんで仕事をしているのに…。

あゆは失意のまま部屋を出た後、誰にも告げず2日ほど失踪してしまう。これがあゆファンの中では有名な「あゆ失踪事件」であり、このことを契機に、あゆと専務の間の溝は決定的に広がってしまう。

どれだけ泣いても甘えても、ワガママを言って困らせても、仕事関係者としてなだめるばかりで、もう恋人として取り合ってはくれない専務。
専務との間に出来た深い溝を目の当たりにし、身を切られるような失恋の痛みと、孤独を自覚するあゆ。

専務と二人で生きていきたいという夢が潰え、そして専務と二人三脚で作り上げた、モンスター化してしまった “ 浜崎あゆみ ” を、今後はひとりぼっちで背負っていかなければならないという絶望。
その心境を、自身が「絶望三部作」と名付けた「 vouge 」「 Far away 」「 SEASONS 」の詩に託した。あゆは絶望を歌うことで自らを救おうとしたのだ。

君を咲き誇ろう
美しく花開いた
その後はただ静かに
散って行くから…
気付けば いつでも
振り向けば君が
笑っていました
ha-ha-haaa-
気付けば いつしか
君の事ばかり
歌っていました
ha-ha-haaa-
だけどそれは決して
後悔ではなくて
あの日々が
あった証なのでしょう

「 vouge 」

新しく 私らしく あなたらしく 生まれ変わる…
幸せは 口にすれば ほら指のすき間
こぼれ落ちてゆく 形ないもの
(中略)
人は皆通過駅と この恋を呼ぶけれどね
ふたりには始発駅で 終着駅でもあった
uh-lalalai そうだったよね
もうすぐで夏が来るよ あなたなしの…

「 Far away 」

今日がとても悲しくて
明日もしも泣いていても
そんな日々もあったねと
笑える日が来るだろう


幾度巡り巡りゆく
限りある季節の中に
僕らは今生きていて
そして何を見つけるだろう

「 SEASONS 」

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「 SEASONS」のPVのあゆが喪服だったのは、過去を葬り去るためだったのだ。

あゆは、踏ん張ったのだ。
ハタチそこそこの年齢で、大きな喪失感を抱えながらも、そして作り上げてしまった大きな虚像に戸惑いながらも、それでも生き馬の目を抜く芸能界で、高い山を登り続けた。

時代のカリスマと呼ばれ、あらゆる賞を総ナメにし、街では常にどこかであゆの曲が流れ、コンビニや書店にはあゆが表紙の雑誌が毎月何冊も並んでいた。

そんな華やかで美しい黄金時代を築きながらも、その裏では専務との同棲を解消し、「ひとりの家に帰りたくない」と、ホテルを渡り歩く生活しながら、なんとか大失恋の痛みを乗り越えようとしていたあゆ。夢のように華やかな栄光を享受する気持ちの余裕はどこにもなく、あゆは当時、自分自身を「夢に敗れた敗者」と認識していた。

しかし、あゆは専務に取り残され、ひとりになっても、浜崎あゆみを請け負い続けた。その理由を、「“ マサ ” が世に送り出した“ 浜崎あゆみ ”を葬り去ることが、どうしても出来なかったから」だと、この本で明かしている。
そしてあゆは、専務との別離後も、今回の本の題名ともなった「 M 」で、専務への愛と尊敬を歌いあげた。

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「 M 」はMARIAじゃなかったんかいっ!とずっこけた世代の貴女と、いつか酒を酌み交わしたい気持ちである

デビューから間もなく「 Trust 」で「恋が皆終わるわけじゃないと」と歌ったあゆ。
しかしその約二年後には、「それでも全てには 必ずいつの日にか 終わりがやって来るものだから」と悟ってしまったのだった。

MARIA' 誰も皆泣いている
だけど信じていたい
だから祈っているよ
これが最後の恋であるように
理由なく始まりは訪れ
終わりはいつだって理由をもつ…

この本には、「M」以降の後日談は、松浦氏との再会を果たした「設定」の、2017年以前の事は書かれていない。

実際には、専務との別れから1,2年後、あゆは「 Dearest 」という曲をリリースする前後に、長瀬智也との交際を発表した。
当時「 Dearest 」の歌詞は、長瀬のことを歌っているのではと話題になった。

当時ビジネス オネェキャラだった藤井隆が司会を務める歌番組で、そのことをあゆに突っ込んでいたのを覚えている。
その時もあゆは、「絶望三部作」の時と同様、「過去の自分とのことを、詩に書いた」と答えていたことを記憶している。
今回この本が出るや否や、SNSには「え、「 Dearest 」はさすがに長瀬のことだよね?」と戸惑う声が挙がっていた。
わたしも当時は、あゆが長瀬のことを歌った曲ではないかと胸を熱くしたひとりだ。がしかし今や、「時が経ち、恋の執着を離れたことで、本当の意味で人としてお互いを愛し、思いやれる一番良い関係性に辿り着いたね 」と専務に対して歌ってるように思えてならない。
長瀬との出会いも、あゆが女優をしていた頃からの長い付き合いだというが、この曲の歌詞は、付き合って日が浅いはずの二人の曲とは、個人的には思い難い。そこに一周も二周も経た関係性が垣間見えるからである。

というか、もうこの本を読んでしまうと、あゆの松浦氏への想いが強過ぎて、申し訳ないが、ほかの男性たちがモブキャラに見えて仕方ないのだ。

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「そんな時いつだって目を閉じれば~笑っている君がいる~」の「君」は長瀬じゃなかったんかーいっ!

あゆは長瀬と7年もの間交際する中でも、「 Part of me 」などの曲で、「わたしの魂の半分は、マサで出来ている」と堂々とその関係性を歌い続けていた。

わたしは “ 天然 ” と評されることの多い、長瀬智也の寛大なメンタルを讃えたい(誰目線)。いつの世も、業の深い女には、あっけらかんとした男が必要なのである。いくらアーティストとはいえ、嫉妬深かったり疑ぐりやすいタイプの人間に、当時のあゆの彼氏は務まらなかっただろう。

そんな業の深い曲はいくつかあるが、特に個人的に印象深いのが「 HANABI ~episode II~ 」という曲である。

2003年のa-nationで、あゆはこの曲の最後、とても辛そうな表情してるのだ…。

あゆが何かと歌詞にする「あの夏」。
これまでは「夏に別れた男が、忘れられないんだな…」と勘繰りながら聞いてた。

だが今回本を読んで、あゆと専務が付き合いはじめた頃に、みなとみらいで海を眺めたという描写とつながった。
あゆは折に触れ、専務との蜜月を過ごしたあの夏と、その一年後の別れの夏のことを、歌い続けているのではないだろうか。

 

あゆは本の中で、「わたしは知っていた。マサのように愛せる人が二度と現れないことを」と語っている。

ジャニーズサイドは名誉棄損で軽く訴えた方が良い気がするが、あゆにとっては、松浦氏は恋のはじまりであり、終着点であると同時に、愛のはじまりであり終着点なのだろう。

だから今後、乗る電車(恋人)が変わっても、始発駅と終着駅は変わらない。松浦氏以上に愛せる人が現れないことを、あゆは知っているから。なんと…「 Far away 」の歌詞そのまんまやないか…。

 

序章と最終章で描かれるあゆは、また松浦氏とともに歩めることを、心から喜んでいるように見える。

松浦氏と出会ったことは、あゆにとって最初の「奇跡」であり、松浦氏を愛していることは最後の「永遠」なのだ(「momentum」)。
そして松浦氏とともに在るその地点は、いつだってあゆにとって「はじまり」となり、ともに続いていく。だから二人の関係は、「 TO BE 」で「æternal」なのだろう。きっと「浜崎あゆみ」としても、あゆとしても。

メディアやネットで叩かれようが、もう引退してほしいと非難されようが、「はじまり」がそこにある限り、あゆは歌っていけるのである。

 

今回、ワイドショーやニュースサイトがこの本の出版を報じた際、本の帯にあゆが「自分の身を滅ぼすほど、ひとりの男性を愛しました。」と書いたことが物議を醸した。「ピンピンしてる上に、成功者じゃねぇか」と。
わたしも当初そう思っていたが、読後の個人的な感想としては、「ひとりの男性を徹底的に愛せることを知ってしまったが故に、一生満たされない思いを抱えざるを得なくなってしまった」のだとしたら、それはまさに業を抱えて生きることにほかならず、「自滅」にあたるなということだ。

またなによりもあゆは、唯一心から徹底的に愛した男性から、“ あゆ ” であること以上に「浜崎あゆみ」であることを強いられた。

そしてそれを受け入れ、聴力など身体を犠牲にしてでも、「浜崎あゆみ」であることに人生を捧げた。その意味でも、あゆは自ら「身を滅ぼす」ことを選んだと言えるかもしれない。

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ちなみに表紙の東京タワーの写真は、松浦氏撮影である。

全盛期のあゆの魅力のひとつに、人形のように可愛く、何を着ても似合う外見・才能やセンス・富と名声、そのすべてのものを持っているようなのに、どこか影をまとっている…。その暗さや刹那さがあった。

自分の感情や孤独をエモいほど主観的に綴りながら、冷徹なまなざしで表現する力が、浜崎あゆみの最大の才能であったと、個人的には思っている。
その暗さや刹那さの理由は、あゆの生い立ちやパーソナリティからくるものだとばかり思ってたけれど、何よりもこの本で背景として描かれていたのは、専務への叶わない恋の切なさ、大恋愛の喪失からくるものだったのだ。え、あれっ?普通に失恋じゃん!?
だけど当時、その影こそが多くのファンの心を掴んでたのだから、何が功を奏すかわからないというか、スター稼業は皮肉である。

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全盛期のアルバムでありながら、とにかく暗い 名盤「 Duty 」。当時、とにかく豹柄が流行ったんである。

当時あゆのファンであったわたしは、あゆの影を追い、詩の解釈をすることであゆに近づこうとしていた。
メディアのインタビューでも、あゆの詩のことが取りあげられることが度々あった。そういう時にあゆは先述の通り、決まって「これは過去の自分のことを書いた」と言っていたものだ。
しかしその実、デビューからわたしたちはずっと公開ラブレターを読んでいたのである。

だから、今回の出版にあたって、「あの頃の共感を返して欲しい」という声をSNSで挙げた人たちがいる。いや、その気持ちもわかる…。
でもあゆの詩を媒介者として、「当時の自分しか持ち得ない感性で何かを感じていた」という事実は、何よりも貴重で尊いと個人的には思う。

個人的には、自身の多感な時期に、エモさを引き出してくれる表現力を持つアーティストが居てくれたことは、感謝したい。黒歴史的に恥ずかしい思い出でもあるが、それこそ思春期というものである。

 

「終章 Mとの……」 

そして、ここにきて「終章 Mとの……」について書くのを、失念したことに今更気付く。
「いまが一番幸せ。歌なしの人生は考えられず、これからも歌い続ける」といった内容であったことを最後に補足したいと思う(スタミナ切れ)。

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終章は、これからの決意表明と、松浦氏とのこの壁ドン写真のエピソードでした。 あ、なんかもうちょっとお腹いっぱいです

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

#浜崎あゆみ

 

会社説明会にて思うこと

自分は就活を2年やったのだけど、特に1年目は苦労した。今は数ヶ月後ろ倒しになっているようだけれど、自分が就活していた頃は4月中下旬には周りに内定が出ていたので、この時期割とひとりしんどかった記憶がある。

そのせいか特に悩ましい表情の女子就活生を見ると、当時の苦い記憶が蘇り彼女たちの健闘を祈らずにはいられない。電車の中で、つい隣り合わせたおっさんと一緒に熱い視線を送ってしまう。

あれから数年経ったいま、就活の時期には勤め先の会社説明会や社員座談会的なものに参加している。
イケてる上司や同僚が入社を決めかねてる内定者を人事にあてがわれ、その魅力で以って入社を決めさせようとクロージングに励んでいる姿を尻目に、こちとら母集団形成要員として婚活パーティーと見紛うような大規模集団にぶっこまれ、「学生と社会人」という立場の非対称性を武器にそれらしく見せる活動に励んでいるのである。

勤め先の説明会・座談会の仕立ては毎年、その回に参加する社員を数人の学生が囲み、あらかた決められたお題に沿って、ざっくばらんに会話するというものだ。学生にこちら(会社)を選んでもらう場なので、基本的にどんな質問も受ける。
そのなかで唯一気を揉むのは、学生同士の温度感調整である。意識高い系・醒めた感じのリアリスト系・自信がなかったり奥手な子が混在する場合、こちらのファシリテート力が試される。

 一見して「たぶんこの子は絶対、起業・仮想通貨・AIって言うだろうなぁ」と感じた学生からは、100%そのワードが出てくる。そんなグイグイ来る意識高い系につられてしまうと、リアリスト系の学生が白けたり奥手な子がドン引きしているのが手に取るようにわかる。
一方で、ドン引きしていた子が「御社のワークライフバランスって…」と質問し出すと、そんな小せぇ話をしに来たんじゃないと白けた表情の意識高い系の面々。

普段から同席者のテンションの不一致を気にするあまり、合コン一次会の初っぱなからド下ネタを繰り出すほどにはコミュニケーション力に長けたわたしである。焦りのあまり腰掛けたパイプ椅子への貧乏ゆすりが止まらない。

別の会社に勤める友人は、同じく勤め先の就活イベントに出たところ、その形式が「社員の自己紹介を学生がその場で聞いて、話を聞いてみたい社員のところに学生が集まる」というものだったらしい(社員がかわいそうすぎる)。
自己紹介の際、司会から突然「あなたにとって仕事とは?」という、これまた答えにくい質問をされた友人(趣味バンド)は、ついぽろっと「仕事は自己実現ですね」という、意識高いけどなんも考えてない系にヒットしやすいであろうデッドワードを口走ってしまった。

彼女のもとにはしかるべくして「俺も自己実現って考えてるんっすよ」「やっぱり仕事はそうあるべきっすよね」みたいな学生が集まってきたらしく、「50分で『リスペクト』という単語が30回くらい出た」とゲッソリしていた。
最後は「自己実現したいかーっ?!」「イエーッ!」みたいな掛け合いで彼女の50分間のLIVEはクロージングしたらしい。それはそれで楽しい会社である。

ただ「自己実現」にしろ何にしろ、学生が就活でいきなり問いかけられた言葉にとらわれてしまいがちなのは無理もないと個人的には思う。
面接でよく聞かれる「軸」「価値観」「成長」という言葉も特に一人歩きしがちだ。
この間も学生から「価値観って何ですか」と聞かれ「どんなに可愛くても、金遣いが荒かったり財布を出さない女はダメだとか、どんなにハイスペでも親を大切にしない人はダメとかそういうことだよ」と答えたら、目の前のOLの透けた私生活に学生は益々混乱していた。

あとよく見かけるのは企業が連呼する「成長」という言葉につられて、「成長のために成長を目指すべきなのだ」となってる学生だ。

「何でそんなに成長したいのか」と聞くと「選べる選択肢が増える」と言う。ある意味、現時点が最も選択肢や可能性に溢れているのではとも思えるけど、まぁそうなるよね・・・。

「どこでも通用するビジネススキルを持つ人材」なんて実際のところ、ビジネス要件が鬼高いトップ層に限られる。それ以外の人にとっては、組織風土の相性だったりプライベートとのバランスであったり、その他諸々のことの方が影響値が大きくなるのだけど。

でも「成長」のその先が自身の幸せや、やりたいことにつながってるかどうかなんて今時点でその子には見えないのだから、最大公約数を取りに行くしかないのだろう。

余談だが「成長」といえば、人気ブロガー・トイアンナさんはあるブログ記事で「成長とは、ある文化に適応するだけ」という面白い観点で記事を執筆されている。

※トイアンナさんはこの記事以外にも就活について実践的な記事も多数執筆されているので、うさんくさい化石みたいなおっさんに就活指南を受けるくらいなら、トイアンナさんの記事を読破することをおすすめしたい。

toianna.hatenablog.com

トイアンナさんの記事の観点も思い当たる節があり過ぎるが、個人的には成長とは「夢中」の副産物だと思う。

なので「成長」を望む学生には、夢中になれる、夢中にさせてくれる環境をおすすめしたい。否が応でもバッターボックスに立たされまくり、望まずとも入社してすぐスタメン入りさせられ、ベンチウォーマーになる選択肢は与えられないような環境。

そういう環境で、元々は自分の「成長」とかなんとか小さいこと(失礼)を気にしてたやつがクライアントやカスタマーなど「自分以外のこと」で頭がいっぱいになって、無我夢中でやってたら気付いたらいつの間にかできることが増えて、昔の自分をすこし踏み越えてたりする。

「成長」するのに、キラキラした職場もスゴイプロジェクトも必要ない。「尊敬できる先輩や上司」はあったら良いレベルのオプションで、大事なのは「必死な自分自身」のみ。だからその意味では「必死にさせてくれる」環境は必要だけど、成長そのものは「毎日必死にジャンプしてたら気づいてたら背が伸びていた」くらいのものだとわたしは思う。

意識高い系の学生からよく「夢はなんですか?」と質問されて「特にない」と答えるとあからさまにガッカリされるのだけど、逆にいうと夢がなくったって夢中になれる。「現時点ですごくやりたい、ということがないんですが・・・」と心配している子も何も心配することはない。

自分は何がやりたいのか、何に人生をかけるべきなのか、働いて数年経ってもそれらを自身の言葉で言語化できる大人がどれだけいるのだろうか。それを腹決め出来ている大人もいるけれど、そうじゃない人も大勢いるから本屋で自己啓発本があんなに平積みされているのだ。

就活生に「軸は?」と聞く大人だって、仮決めと軌道修正の連続で、自己理解と探求を進めてる最中だし、大半の人にとって人生とはそういうものだと思う。

「社会人は大変だ」と大人は言いがちだけれど、家庭にしろなんにしろ集団に所属することは、理不尽に出会うことだと思う。何もその組織が特有なのではなく、人間が集まれば集まるほど固有の「理」が多くなって、固有の事情は通らない。

以前働く人を対象にした何かのアンケートで、ストレスのぶっちぎり1位(80%超)は「職場の人間関係」というのを見かけたことがある。大人になっても人は「人」相手に一番悩んでしまうものだけれど、救われるのもまた人によってである。

上司や同僚・後輩と話してると、自分には及ばない視点や視座にイケてるなぁと思うことがあって、取引先と話してるとすこし報われる瞬間があって、たまに自分のやったことに成果がついてきたりして、そのおかげで最低限「悪くないな」と思える自分がいて、それがどんなにありがたいことかわかるから、わたしは今日も会社に行くのだと思う。

身もふたもない誰得の文章になってしまったけれど、夢見る夢なしOL生活も、まぁ悪くないものだよ。

 

【トイアンナさんの就活系コラム】

www.onecareer.jp

【自分が就活留年した時のことを書いたエントリです】

「小さなOK」を出し合って、人は生きてる。 - アラサーOL クソ日誌。「小さなOK」を出し合って、人は生きてる。 - アラサーOL クソ日誌。

「途中で止める」勇気

実家を出て10年以上テレビがない生活を送ってしまったせいで、情報取得はすべてインターネッツ・娯楽もインターネッツ・休日の人との会話はtwitterという、情報感度が異様に高いOLになってしまった。

年に2,3回しかテレビを観ないせいで(しかもひとの家に寄生して)数年前に観た番組の記憶が時々昨日のことのように甦ることがあるのだけど、なかでもよく思い出すのが、神回と名高い辺見マリさんの『しくじり先生』の回(何年前だよ・・・)。

辺見マリさんがとある霊能者とその取り巻きに「13年間で5億円を搾取された」コトの経緯と背景を取り上げた内容だったのだけど、これがわたしとしては非常に示唆に富んだ内容だった。

番組の中で、辺見マリさんはご自身の性格を分析しながら「洗脳されやすい性格」として以下の特性を挙げている。

・責任感が強いしっかり者
・頑固で負けず嫌い
・完璧主義

僭越ながら「これワシのことや・・・」と思わず膝を打ったね。全国の長女の星に生まれついた同志のみなさん、自分のキャパを超えて仕事をがんばってしまいがちな血ヘド吐きOLな同志のみなさん、いかがでしょうか(勝手に同志扱い)。

今回番組のテーマは「洗脳」だったので、「洗脳されやすい」という観点で上記特性が紹介されていたのだけど、ちょっと卑近な例にひきつけると、そういう特性って「ツライ恋愛(および他者との関係や仕事など)を続けてしまうパターン」にも当てはまるんじゃないだろうか。

論理が飛躍して聞こえるかもしれないけれど、仮に「洗脳」の入り口が「他人への信奉・陶酔・投影」「自己陶酔」であれば、それって色んなことにあてはまるなと。

番組中で辺見マリさんは、「洗脳が解けなかった理由」を「途中で止める勇気が持てなかったから」と仰っていた。

しんどい恋愛や仕事をしている時って、身も心もボロボロになってはじめて「これは・・・やべぇパターンだったのだ」と気づくのではない。

ある段階から自分のどこかで「まずいな」「早めに諦めたら撤退したほうが良いんだろうな」っていう感覚が湧いてきて、不安だったり不調だったり心身に異変が起き始める(心身のセンサーがすでに壊れたり麻痺してしまっている場合は別として)。

それはそのまま自身への警鐘になるのだけど、自分の中でいくら暴風・波浪・大雨・洪水・雷警報が出ていても必ずしも止められないもの。

その理由を他人は、依存心が強いとか根拠なき楽観主義とかいろいろ言うと思うんだけど、自分はいつもこんなことを感じてたんすよ。

「こんなことで今さらあきらめちゃいけない」

「もうすこし自分ががんばったら(その先に)何かあるかも」

「自分がもっとここを直せば・完璧にすれば、良い方向に行くんじゃないか」

・・・ゲェ・・・。書いててそのしんどさに自分で吐きそう。なんかおめでたいというか痛々しいというか恥ずかしいというかそのぜんぶだけど・・・。

少し脇道に話が逸れるけど、「bar bossa」店主でコラムを多数執筆されている林伸次さんも、cakesで『負けず嫌いな人は失恋を認めない』というコラムを執筆されている。こちらは「失恋」にフォーカスした記事だけど、そのメンタリズム、なんか共通するものがあるなぁ・・・と思うのはわたしだけだろうか。

たしかにこの記事が当てハマりそうな友人を思い返してみても、軒並み責任感が強く負けず嫌いなガッツある面々。営業とかやれば全員MVP獲れると思う。

しかし負けず嫌いの人は失恋したことを「自分がこの恋で負けた」と考え、それを認められないわけです。おそらくプライドがすごく高いのでしょう。・・・(中略)・・・普通は「相手が自分を好きではない」と知ったら、もちろんひどく傷つきますが、それを無理して「イヤだイヤだ。そんなのイヤだ。お願いだから好きになって!」なんてことは言いません。ああ、この恋は終わり。縁がなかったんだな、次の新しい出会いを探そうというのが普通の反応です。

こんな感情でまた相手の気持ちが取り戻せたとしても、それを「恋愛」とは言えないですよね。もし、いつまでたっても忘れられない人がいる人は、もしかしたら自分の負けを認めくないだけなのかもしれませんよ。

ちょっと言い過ぎましたでしょうか。でも、「そうかあ、これって負けたくないだけなんだ。負けって認めちゃえばいいんだ」ってちゃんと状況を認識できると楽になれませんか? 負けを認めるって時にはどうしても必要です。株でも会社でもビジネスでも勝負事でもそうなんですよね。負けを認めて次へと動くとそこに次のチャンスが待っています。あなたの失恋もそうです。早く負けを認めて次に行きましょう。

負けず嫌いにも色んな考えがあって、「止める勇気=負けを認める器が無い」ケースや、「止めても負けても、大丈夫」「むしろこんな試合に勝っても仕方ない、勝負するべきではないと思える自己肯定感が無い」ケースもある。「勝てるかもしれない(と本人は思っている)のに、負ける」のが一番悔しいやつで、明らかに勝てない試合が増えるごとに、生きやすさを感じる瞬間が増えたりするのだけれど。

個人的には、負けず嫌いな人が負けを認めるって相当難易度が高いなと思う。なぜならそのひとの人生や現在があるのはその「負けず嫌いさ」、意志や意地の強さ(その根底にある自己肯定感の低さやプライドの高さ、ハングリー精神含め)が良くも(悪くも)作用して、その人をいま居る場所まで連れて来てくれたようなものだから。

林さんご自身は「負けを認めた方がラクだし、その人自身の価値と勝負の勝ち負けは関係ないですよ」ということを仰ってくださっていると思うのだけど、実際その渦中に居ると、「そんなこと言われたら、今までの人生を否定しなくちゃいけない」というような気分になってしまったり・・・。

その一方でヤマザキマリさんは、『とらわれない生き方』という著書のなかで「(恋愛や結婚でどんなツライ関係性を築いていても)本当にダメなときは、女のシャッターはいつか閉まる。だから自分を変に守ったりせず、とことんイケ」というようなことを仰っている(主旨を読み違えていたらごめんなさい)。

 【「生き方が甲斐性をつくる」ということがわかる本】

とらわれない生き方 悩める日本女性のための人生指南書

とらわれない生き方 悩める日本女性のための人生指南書

 
 
個人的には、結局のところ「性(さが)」というものはなかなか変えられないので、変えられないうちは個々人のやり方で自身の納得感を得るしかないと思っている。「ほどほどで止めろ」派と「納得するまでとことんイケ」派はもはや宗教が違う。
だけど二度と立ち上がれないくらいボロボロになってしまうのは、本人としても見ている周りとしても辛すぎる。なので自身の「性」を追求しながらも、最低限致命傷を負う前には「損切り」でコントロールしようと思うわけだ。
 
案外「損切り」を「守り」「放棄」と思わず、「攻めの損切り」「最終的に上手くまとめるための一時停戦」と思えば、途中で投げ出せない性格や負けず嫌いでも、やれるかもしれない。
サイバラ先生はご自身の旦那さんとお子さんとの経験や投資の経験から「いかに逃げ足早く損切りするかが大事だと」とよく指摘されている。
辺見マリさんみたいに5億円持っていなくても、人生「時は金なり」。「見切り千両、損切り万両」と言うけれど「止めるはシャクだが、役に立つ」のかもしれない。
 
【損切りと言えばサイバラ大先生】
家族の悪知恵 (身もフタもないけど役に立つ49のヒント)

家族の悪知恵 (身もフタもないけど役に立つ49のヒント)

 

冷やし中華に思う。

広告業の仕業だと思うけど、世間では何かにつけ「ひと夏の云々」「夏の思い出云々」とか謳われている気がする。

個人的には「夏」というのは、20代前半までは常に「楽しまなくてはいけない」というプレッシャーを感じるシーズンであった。 思春期にギャルやヤンキー文化にひと夏でも身を置いてしまった故の後遺症なのか、とにかく当時その界隈では夏への期待値が異常に高かった。「夏だからテンションアゲ」ていかなければならず、「夏だから思い出作らなければ」ならず、より一層の精神的昂揚を目指すべき季節であった。

中高生の頃は特に夏をエンジョイする友人知人を尻目に、「今年もフェスに行けないわたしは夏を楽しんでない」「浴衣デートに縁のない自分は日本の心を忘れている」「今年も脂肪を着込んで水着を着れないわたしは、限りある若さとそこにある夏をドブに捨てている」と半ば強迫観念的になっていた。

それなのに己の性格やテンションはさて置き「痩せたら夏を楽しめるはず」と、体型の変化にすべての望みを託していた割には、ほんまもんのギャル程の根性も無いので「まだ6月、まだ初夏」「夏本番は8月から」「むしろ9月までは夏」と先延ばしにしているうちに、「秋はごはんが美味しいですね〜( )^o^( )」を繰り返していた気がする。

だから個人的には、甘酸っぱい夏の思い出とは無縁なのだけど(だろうな)、それでも夏も悪くないなと近年感じるのは、こんなわたしにも毎年思い出す風景があることに気づいたからだ。

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 実の父が逝ってから、この夏で16年が経った。

父の誕生日は年の瀬なのだけど、最後の数年は、父はアルコール依存症気味でわたしも思春期真っ只中で、誕生日に何か言葉を交わしても特に反応もなくお互い気まずい雰囲気になる事が多かったからあまり思い出が無い。

だからわたしにとって一番父に近い季節は、夏だ。父の冷たくなった肌に触れた最期の夏、その前年に元気な父と過ごした最後の夏。

風物詩は、季節と記憶を細い糸で繋ぎ呼び戻してくれる。わたしにとって夏の風物詩は「冷やし中華」なのだけど、毎年夏になると自宅でも出先でもつい冷やし中華に手が伸びてしまう。

酒飲みの父が炭水化物を食しているのをほぼ目にしたことがないが、なぜか冷やし中華だけは好んでいた。

中学2年の時、蝉がよく鳴く暑い土曜の昼過ぎに、珍しく家に居た父が起きぬけに作り始めたのも冷やし中華だった。父が手料理をしているのがとにかく珍しくて、面食らっていたわたしに「お前も食べるか」と聞かれて、さらに驚いたのを覚えている。

父の作る錦糸卵は、細切りというより太切り、切ったというよりちぎったという表現が似合う代物で、冷やし中華のキービジュアルは錦糸卵なのだとその時に思った。

昔から病的に話がくどかった父から「ハムの代わりに焼き豚を使った方がうまい」というこだわりを、何度も聞かされながら食べた冷やし中華の味は思いのほかあっさりしていて、当時謎にマヨラーに憧れていた厨二病のわたしはマヨネーズを三周かけて食べた。

その日から、父が家に居る週末に、何度か一緒に冷やし中華を作ったことがある。ハムじゃなくて焼き豚、薄焼き卵は太くて不恰好でもいったんオッケー。トマトは熟れたものが好みで、だから厚切り。キュウリは新鮮なものを千切りで。スープはあっさりしょうゆ。わたしはカロリーハーフなマヨネーズ三周。

 冷やし中華を食べる時だけは、父の片手には酒の代わりに麦茶があった。 

会社の行き帰りなどに、父が生きてたら話せることがあるのになぁと思うことがたまにある。仕事とか男の観点とか。まぁあまりというか、かなりアテには出来ないのだが…それでも父だったら何と言うかなぁと思いをめぐらせてしまう。

あの頃夢見ていた自分とも、二十歳の頃思い描いていた自分とも、かけ離れた感じの大人になってしまった。何も考えてなかったわけじゃないし、頑張ってなかったわけじゃないというよりたぶんそこそこには頑張ってきたのだけど、でもなんか計画性が無かったり詰めが甘かったりして、人生こんな感じになってしまった。

でも最近は人生こんな感じの自分でも受け入れられるというか、もうそれでも引き受けていこうという気がしている。

まぁ気がするだけかもしれないけれど・・・。

 

歳を重ねていくと、耐性がついてキャパが広がったのか、たんに横着になって開き直ったのかわからない事が多々ある。歳を重ねることで色んなものを手放しているのか、単に失っていってるのか、区別がつかなくなる。

それでも年々たくさんのことを見て来たはずなのに、大切な記憶はむしろ限られ、色濃くなっている気がする。

幾千幾万のものを目にしてきたはずなのに、思い出す風景は両手で数えるほどしかない。そしてそれがわたしの人生に彩りを与え、季節に意味を持たせ、これからもわたしを生かし続けてくれる。父にはどんな風景が残っているだろう。

きっと、この夏もあと何食か冷やし中華を食べる。そしてその度に父と一緒に作ったあの日々を思い出すのだ。「飯ついでに思い出すだけじゃなく、ちゃんと田舎に墓参りに来いや」って思うかもしれないけれど。

でも年々、父を思い出しながら食す冷やし中華が美味しくなっているのだ。だから、田舎の山奥にある墓になかなか行けなくても、ちょっと多めに見てほしい。

女と「仕事論 」異論反論オブジェクション

数年前に美容室で読んだ、あるアラサー向け女性ファッション誌の一番後ろに「新卒入社時に優秀なのは女性ばかりなのに、途中で成長が止まり、失速する」という主旨のコラムが載っていたことを、昼間会社の給湯室で焼きそばの湯切りをしていてふと思い出した。

数年前にとったメモを見返しながら書いているので引用が誤っていたら申し訳ないが、著名なコラムニストの方が執筆されたそのコラムは、以下の論旨で展開されていたと記憶している。

『女性は若いうちに「周囲に誉められたい」という「承認欲求起因」の仕事の仕方から早く卒業し、「結果を勝ち取るという過酷なゲーム(=仕事)の面白さに目覚めよ」』
 ・・・果たして読者は「その通りやで!」と突如としてプレイヤーモードに入れたりするのだろうか。個人的には、仕事をする上での大前提は「個々人のモチベーションの源泉=個人が持つエンジンは異なること」だと思っている。
そのエンジンと仕事や役割との接点を探し、成果に結実させることが仕事の難しさ・醍醐味であり、マネジメントの力量ではないか。
もちろんこれもひとつの考え方でしか無いけれど、同じく「仕事はゲームとして楽しめ」的な考えも価値観のひとつであるが、その一択にしか正しさがなかったのが、働く女性にとっての不幸のひとつであったと個人的には認識している。
かつてキン肉マンのごとく「必達」と額に書かれたマスクを被り、行動・成果ともにガチガチの目標でバキバキに鍛えられ、成果を強いられることには抵抗感を感じないわたしでも、ゲーマーになることを強制されるオヤジメントはまっぴらごめんである。
 
また先述のコラムでは『入社時に優秀であった女性たちがアラサー期になって男性同期に「追い抜かれる」「成長がストップ」する現象』の理由として、その要因が「家庭との両立」や「男性同士でつるみ情報やポストを独占するホモソーシャル問題」など多岐に渡ることを指摘しつつも、女性の「内的要因」として以下の2つの理由を挙げていた。
まず、「結婚や出産についての迷いから仕事へのモチベーションが落ちたり、パワーをセーブしてしまうこと」。
・・・個人的には、これには思い当たる節がある。「この会社でエラくなれる自信はしないし、他のものを捨ててまでエラくなりたくないし、ていうかそもそも人生どうしたいんだろう・・・。」など迷いや不安があることで、よそ見をしたりブレーキをかけてしまうことは自分自身たびたびあったし、正直いうと今でもある。
20代前半の体力とアドレナリンという「しあわせたまご」を使った成長!進化!爆速ポッポマラソンを経ての20代後半の失速。
すべてを無邪気に先送りできた、20代前半の夢と希望とツケとその他諸々エトセトラを回収・再定義しなくてはならないアラサー期。自分の荷車の荷卸しをしたくても、後輪が思わぬ沼にハマったりして無理やり引き上げるその二の腕もなんだか太ましくなってるし、もう身も心もいっぱいいっぱいに感じる日もある。
そしてそのコラムに「より根が深い要因」として書かれていたのは、以下の内容であった。
『多くの女性は『「わたしを誉めて!」という、真面目な女性が子どもの頃から快感経路を育ててしまった「承認欲求」を断ち切れない。
だが仕事の次元が高くなると、承認欲求を超えた挑戦が必要になる。それが出来なくて、徐々に求められるレベル感とアウトプットにギャップが生まれる。そうするとさらに彼女たちの「仕事エンジン(=誉められること)」が作動しないので、ますます挑戦をせず、評価されなくなる。
翻ってアラフォー近くの仕事が出来る女性は、いわゆる「仕事エンジン」の本質を理解している。
「仕事エンジンの本質」である「結果を出す」という過酷なゲームの面白さに気づき、「ホメられ快感」から「ゲームの勝利快感」へスイッチが切り替わるかどうかで、30代の仕事の面白さと深さが確実に変わる。だから心して今から仕事に取り組んでください』
ここまでメモった当時の自分がもはや気持ち悪いけれど、そのような論調で締めくくられていた。
そこに書かれていることは一理あるかもしれないけれど、個人的には何か特定のものを「エンジンの本質」というのは少し乱暴ではないかと思っている。というのは自分自身、手痛い失敗経験があるからだ。
 
自分が入社数年目の時に、後輩の優秀な女性社員のメンターを担当していた時のことだった。彼女は日頃から「今までの人生、怒られないようにいい子として生きてきました。それでやって来れたし、だからそれ以上のものを求められても困るんですよね」と話していた。「おぅ、これが悟り世代か」と新鮮さを覚えたものだが、実際に仕事はその年次には思えぬほど周囲に気を遣い、ソツなくこなしていた。
ただ企業文化として、若手のうちは周囲に変に気を遣うよりも自分の成長を追求するべし・周囲もそれを支援すべし、という社風でもあるため、お行儀の良すぎる彼女はすこし異色の存在であった。
面談や若手研修の振り返りの際も「成長したい、とか何がやりたいとかは特に無いです。なのでそんなに考えないでください。」という「悟りですが、何か?」的低空飛行トーク。「こんなに優秀なのにもったいない」と感じ入ったわたしは、「とは言うものの、もっとモチベーション高く取り組めば新境地開けるかもしれないよ?」と腐った松岡修造のような熱さとしつこさで挑んだ。
後から思えばその言葉は「メンターとして何かしら価値提供しなければ」という焦りと「こっちがこんなに必死になってるのに、そんなテンションで居られるのが許せない」というエゴでしかなかったのだと思う。
 
彼女が受講した若手研修後は、メンターとともに今期の彼女の成長計画を描くという内容であったが、彼女の心のシャッターはものすごいスピードでガラガラと閉まっていき、取りつく島が無くなっていた。
そこでようやく自分の身勝手さと無理解に気付いたわたしは、一方的かつ独善的なコミュニケーションを詫び、時間をかけて彼女の考えていることを教えて貰った。
時間をかけて掘り下げをしていく中で、彼女は自分自身がどうありたいとか何をしたいという意思は強くないものの、周りの役に立ちたいという思いが言動の根底にあることがわかった。「怒られたくない、誉められたい」という気持ちと同時に、そのようなモチベーションが彼女の人生の根底にあったのだ。
もっと言うと、そもそも「怒られたくない」という気持ちで仕事にあたって何が悪かったのかと今では思う。それを勝手に「つまらない、イケてない」と断罪したのはわたしの人間としての幅の狭さ、余裕の無さからであった。
それならまず彼女の不安や恐れを取り除き、成功体験を重ねて貰うことこそがわたしの役目だったのである。その後彼女にはたくさんのことを教えて貰ったが、あの時のことは申し訳ないなと今でも思う。
 
その一方で、仕事というゲームに参戦するプレイヤーが「勝ち負け」を常に志向するならば、ゲームを楽しんだ結果としてステージが上がり、ゲームクリアという出世を果たすであろうことに異論はない。明確なゴールを設定し、腹落ちさせることができるのは優れた能力のひとつだと思う。
だからといってそのような生粋のプレイヤーにお前もなってくれよな!というのは自身の失敗経験を踏まえても、やはり無理がある気がする。
そもそも働く女性の新しいありたい姿を描くべき女性誌が、そんな旧態依然とした現実に追随してどうするのだとも言いたい。
新作コスメで新しいワタシに生まれ変わったり、1ヶ月着回しコーデのなかでプロジェクトの打ち上げの後に甘顔高身長の後輩に告白されたり、憧れの先輩から壁ドンされたり、長年付き合ってる彼氏とは初月ではマンネリ気味のだったはずなのに突如として月末にはおめかしデートからの指輪パカッされたりさんざん俺たちに(金のかかる)夢をみせてくれたよな?とぶんぶん肩を揺さぶってやりたい勢いである。
 
個人的な妬みソネみでやや脱線したけど、そもそも成長スピードを落とさず仕事を楽しむのが大目的なのであれば、個々人のモチベーションの源泉をないがしろにしては成り立たないのではないだろうか。 
長々と書き並べてしまったが、なんにせよ言いたかったのは「何に仕事モチベーションや面白さを求めてもひとの勝手、ほっとけよ」ということである。
焼きそばの湯切りからのそれを言いたいがためにこの文字数・・・件のコラムと押しの強さは目くそ鼻くそだな。

どうにもならないものをどうにかしようとする女たち〜占い依存な女たち〜

アラサーと一括りにするのは畏れ多いのだけど、都心のアラサー女子の占い受診率(課金型)ってどのくらいなんだろうか。わたしの周りで聞くと、一度きりの経験を含めると約半数以上は経験があるのではという所感。

男性が社会人になったら初任給握りしめて風○デビューをするがの如く、28歳を過ぎた女性は占いの課金に走る、というのは完全なる私見ですが、「アタシはしいたけ占いで充分だから関係ない話♪」と思ったそこのお肌ぴちぴちの貴女。

無料の星座占い・コラムでは飽き足らず、「人間が12タイプで区分出来たら世話ないんじゃい!」とよりパーソナルな傾向と対策を求め対面占いに駆け込み、さらには電話占い・スピリチュアルに進むエリートコースを諸先輩方がひた走ってきたのをいつまで「他人ごと」と言えるかはわからないんだぞ(誰目線)。

 言うまでもなくわたしは肝心なところで他力本願で思い込みが強くかつ予測を後から答え合わせができるものが大好きなので、割と占いが好きである。こんなこと大っぴらに言うもんじゃないというのはさすがのわたしでもちょっと気にするので小さく書くけど、それこそ一時期占いに金を費やした経験がある。 

元来物事に場当たり的かつ極端かつ瞬間的にハマるタイプなので短期間で事なきを得たが(家計は大出血だったけど)、わたしみたいな依頼心の強いタイプは占いにハマったら破産だなと思った。その頃は対面・電話・月額課金型問わず短期間に多様な占いを経験して、ついには占ってもらうことがなくなってしまい

にゃんきちったー:「肩が凝って、ふくらはぎがすぐむくむんです。」

占い師:「恐らく胃腸が冷えて血流が悪くなってるんでしょう」

的な「もうおまえそれは漢方薬局行って来いよ」みたいな会話をするところになって「やっぱりおとなしく整体に行こう」と我に返り、思いの外スパッと止められた。帰る場所(整体)があって本当に良かった。

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 占いの口コミや掲示板をのぞいてみると、占いの熱心な支持層であるリピーターや占いジプシー(様々な占いを転々とすること)になる人は、「復縁成就」「不倫成就」を願う人が多いことに気づく。「元彼にブロックされてしまいました。彼から次に連絡来るのはいつでしょうか」みたいなことが書かれてあって、「あんたそうなるまでいったい何したんや」とハタから見ると思ってしまう。

「占いはエンターテイメント」を超えた期待感を持つ顧客たちに、昼夜問わずして支えられる占い市場はおよそ一兆円規模、非公式なものを足すとそれ以上と言われている。

相手の出した結論や因果応報を受け入れられず、どうにもならないものを我欲でどうにかしようとする。目の前の結末や状況を受け止め、その理由や意味をきちんと理解しようとすることなく、第三者の繰り出すカードや生年月日に、自分にとって望ましい未来を見出そうとする。

目の前にある結末を「わたしが欲しいのはコレじゃない!」と突っぱねて、「辛いです。わたしの望む未来はいつ来ますか?」と聞いて回る。なんというか、「想い」が強いというより「我欲」が強い。もちろん、本人としては自分が囚われているものが「運命の相手」なのではなく「執着」であること、自分の思い込みで自身の首を絞めているだけだと、とっくに気づいている人がほとんどだ。

「諦められたらラクになるのに」。そう、そうしたらラクになれるとわかっている。この関係性で妥当な結末はそうすることでしか導き出せないとわかっている。お互いの役目がとっくに終わっていることに気付かないふりをしている。だから余計に辛い。

占いに限らず、巷の「復縁本」や「略奪愛の恋愛テクニック」的なものにあまり意味が無いだろうなと個人的に思うのは、それが人間関係のつまずきを本質的に解決するための人格の成長に寄与しないからだ。人間関係はいつもどこか同じポイントで躓いたり綻んだりしている。

自分か相手どちらかが圧倒的に成長・変化しない限り、何度手をつなぎ直してもまた同じところでコケてしまうのは目に見えてる。

たまに双方がなんの成長もしていないのに復縁・不倫が成就したり、別れ・復縁を繰り返すカップルもいるけれど、それはお互いの人格が良くも悪くも同等で、いわゆる「割れ蓋に綴じ蓋」を地でイケる稀有な組み合わせなのだろう。それも「相性の良さ」のひとつである。

 占い自体は今でも面白いと思うし非難するつもりは毛頭ないし、復縁や不倫の成就を願う気持ちを否定する気持ちもまったく無い。そんなこと言ったらわたしなんか特大ブーメランに首の骨髄までふっ飛ばされてしまう。 そういう状況は当人にとって本当に辛いのではないかなと察するし、現にわたしはとっても辛かった。

 

だけど 個人的には「一世一代のなんとか」なんて無いと思っている。もちろん「こんな人初めて…!」と感動する出会いはあるし、そう思わせてくれる人には陶酔してしまう。

しかし幸か不幸か、一度経験したことは、大概のことはまた経験できてしまうものだ。そして悲しいかな、自分の感性だって変わっていく。大金はたいて追いかけた恋が、後々どうでもよくなってくるからこそ、わたしたちは今日も生き続けることができる。

・・・ということで占いにハマって我に返った後にメモした「占いに費やさなかったら買えたであろうものリスト」を抱きしめながら今夜は眠りにつきたい。

 

【後記】

「自分を突き放したい時」におすすめのぱぷりこちゃんの著書

なぜ幸せな恋愛・結婚につながらないのか 18の妖怪女子ウォッチ

なぜ幸せな恋愛・結婚につながらないのか 18の妖怪女子ウォッチ

 

 女性のタイプを18の妖怪タイプに区分し、徹底分析した本。ぱぷりこちゃんの面白すぎる言葉のセンスと容赦ない筆圧が炸裂。身に覚えの無い章では友人知人の方が浮かんできて「なるほどな」とほくそ笑み、身に覚えのある章では今すぐ死になるという稀有な本。

この本をちゃんと理解すると、己が恥ずかしすぎて結末が見えすぎて下手にひとに恋愛相談出来なくなる、という副作用がある。特にこの記事にピンと来た方はもしかしたら以下の章に身に覚えがあるかも…?

1.恋愛相談マニア女子

15.ずっとセカンド女子

16.私はあなたの信者女子

17.私が彼を救う女子

18.それはモテじゃないカモだ女子

 

 【「占いに費やさなかったら買えたであろうもの5選」(誰得)】

「翌日の朝が楽しみになる感動トースター」

落ち込んでる時は無駄に夜型になるので、食欲ドリブンで生活サイクルの改善を。

BALMUDA The Toaster(バルミューダ ザ・トースター) | 感動のトースター | バルミューダwww.balmuda.com

⚫︎「肌よりも老化が怖いのは髪である」

気持ちが病むと風呂入るのも髪を乾かすのも嫌になるのでダイソンの突風ドライヤー

www.dyson.co.jp

 

「男一瞬、老舗浴衣一生。」

竺仙さんが謳っているわけではないですが、天保13年創業  竺仙の浴衣。紗栄子さん愛用。

www.chikusen.co.jp

 ●「こんなに手をかけた自分が粗末に扱われるのは許せない」

という自己愛に浸れるかもしれないホテルスパといえば。わたしは整体無しで生きられない身体なのでこのお金を出すなら雑居ビルの整体の回数券を買いますが、そんな必要無ければ年に一度は受けてみたいご褒美。

マッサージ嫌いな人は高級下着で代替可。

www.mandarinoriental.co.jp

 

「自分と一生付き合っていくのは己の体質だけである」

「ディスカバリー」というオプションを付けて先祖に思いをはせるのもよし。

mycode.jp

 

お金と時間は大事に使いたいものである。

愛を残す生き方

会社の昼休み、小林麻央さんの訃報を知った。

「幼いお子さんを残して、辛いだろうなぁ・・・」「このような若すぎる死は、防げないのだろうか」と、様々な思いが頭をよぎりにわかに感傷的になった。

なんとなく卑しいのではないかと自分でも思うのだけれど、つい反射的に他人の死に学ぼうとしてしまうところがある。翻って自分はどう生きるべきなのか、考えてしまう。

 「日々を丁寧に、大事に生きるべきだ。」
同じように訃報にショックを受けた同世代の女性たちも、様々な想いをSNSに投稿していた。

「日々を丁寧に、大事に生きる」。その言葉にケチをつけるつもりは全くないのだけれど、それがどういうことか、自分自身にはなんとなく実感が持てなかった。
何をしていても思考や感情の一部が明後日の方向に飛んでしまう自分は、なかなかその瞬間や時間を大事にするということが出来ていない気がする。

「小さな幸せを大事にする」「今日が最期の日だと思って生きる」なんてことを決意してもすぐ毎日をうだうだと流すように生きてしまう。だからってそれが「雑に生きてる」ことにはならないとは思うけど。
それでもこうやって感傷的になる以上に、わたしがいま感じるべき何かがある気がする。それが何であるのかと思考を巡らせた。

 

そもそも考えてみると、彼女は自分のたった4つ上、34歳という若さでたくさんのことを成し遂げたのである。
学生時代から生き馬の目を抜くような芸能界で頭角を現し、20代前半で第一線で活躍するトップランナーになり、20代後半には潔い決断を下し新しい世界に飛び込み、34歳の若さで世間に影響を与えた。
芸能人で、梨園の妻で、そして若くして闘病生活を強いられたというストーリー以上のものを、彼女は力を振り絞るようにさらにさらに紡ぎ出していった。

そんな折に彼女のBBCへの寄稿文を読んで、わたしは彼女の「最期」以上に、彼女の「生き方」に学ぼうと思った。

がんと闘病の小林麻央さん、BBCに寄稿 「色どり豊かな人生」 - BBCニュース

2年前、32歳の時に、私は乳癌であることを宣告されました。娘は3歳、息子はまだ1歳でした。

「治療をして癌が治れば、元の自分に戻れるのだから、大丈夫!」と思っていました。

けれど、そんなに簡単ではありませんでした。

今も、私の身体は、がんと共にあります。

私は、テレビに出る仕事をしていました。

病のイメージをもたれることや弱い姿を見せることには「怖れ」がありました。

なので、当時、私は病気を隠すことを選びました。

隠れるように病院へ通い、周囲に知られないよう人との交流を断ち、生活するようになっていきました。

1年8か月、そんな毎日を続けていたある日、

緩和ケアの先生の言葉が、私の心を変えてくれました。

「がんの陰に隠れないで!」

私は気がつきました。

元の自分に戻りたいと思っていながら、

私は、陰の方に陰の方に、望んでいる自分とはかけ離れた自分になってしまっていたことに。

何かの罰で病気になったわけでもないのに、私は自分自身を責め、それまでと同じように生活できないことに、「失格」の烙印を押し、苦しみの陰に隠れ続けていたのです。

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それまで私は、全て自分が手をかけないと気が済まなくて、全て全てやるのが母親だと強くこだわっていました。

それが私の理想の母親像でした。

けれど、病気になって、全て全てどころか、全くできなくなり、

終いには、入院生活で、子供たちと完全に離れてしまいました。

自分の心身を苦しめたまでのこだわりは失ってみると、それほどの犠牲をはたく意味のあるこだわり(理想)ではなかったことに気づきました。

そして家族は、私が彼らのために料理を作れなくても、幼稚園の送り迎えができなくても、私を妻として、母として、以前と同じく、認め、信じ、愛してくれていました。

私は、そんな家族のために、誇らしい妻、強い母でありたいと思いました。

私は、闘病をBlogで公表し、自ら、日向に出る決心をしました。

すると、たくさんの方が共感し、私のために祈ってくれました。

そして、苦しみに向き合い、乗り越えたそれぞれの人生の経験を、(コメント欄を通して)教えてくれました。

私が怖れていた世界は、優しさと愛に溢れていました。

今、100万人以上の読者の方と繋がっています。

人の死は、病気であるかにかかわらず、いつ訪れるか分かりません。

例えば、私が今死んだら、人はどう思うでしょうか。

「まだ34歳の若さで、可哀想に」

「小さな子供を残して、可哀想に」

でしょうか??

私は、そんなふうには思われたくありません。

なぜなら、病気になったことが、私の人生を代表する出来事ではないからです。

私の人生は、夢を叶え、時に苦しみもがき、愛する人に出会い、

2人の宝物を授かり、家族に愛され、愛した、色どり豊かな人生だからです。

だから、与えられた時間を、病気の色だけに支配されることは、やめました。

なりたい自分になる。人生をより色どり豊かなものにするために。

だって、人生は一度きりだから。

 
小林麻央さんの「闘病」を軽んじているわけではないのを大前提として、それでも「闘病」は彼女の人生の「一部」であるという認識で居たいと思う。

自身が持って生まれたものを磨き上げ、若くして身を立て、自ら望んだものを手に入れた。そして手に入れた大切なものを、育み続けることは生半可な努力では成し得なかっただろう。

どんな境遇でも自らが強くあろうとし、強くなることによって愛を会得した過程こそが彼女の人生なのではないか。というのはわたしの身勝手な解釈だけれども、わたしは彼女の「生き方」にこそ、感化されたいと思う。

わたしには麻央さんのご家族の事情や心情を知る術もないが、だけど彼女の生き方を見ていると、「愛は強さの元に育つ」のではないかと感じる。

愛は周りのひとの様々な感情をも引き出し、織り成していく力がある。その織り成された模様の美しさに、人は心を打たれるのかもしれない。
同じ時代に同世代として生きている者として、わたし自身も出来る限り、美しく、強くありたいと思う。
そして同じ時代に、美しく、そして強く強くあろうとした人、そしていまこの瞬間もそうあろうとしている人に、心から敬意を表します。

  

※「母の愛」が周囲の人の感情や力を引き出し、織り成していく映画です。とてもおすすめです。

atsui-ai.com

 

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少し膝曲げたくらいで、空飛びたがるわたしたち~大人の夢の叶え方~

先日、ふとはぁちゅうさんのブログを読んでたらこんな記事に出会った。

「なんでみんな、すぐに悲劇のヒロインぶりたがるのかな」

lineblog.me

最近noteを始めたっぽい人のつぶやきを

たまたまこの間、見かけたんですけど、

「やっぱ私にはnoteで稼ぐのとか無理…心が折れた…」的なことを

つぶやいてるのみて、

「まあ、本人がそう思うなら無理だろうね」って思いました。

(中略)

それにしても、なんでみんなそうやって始めたばかりのことに、

結果を求めるんだろう?

noteとかそもそも始めてから、お金とかの成果に結びつくのには

それなりに時間がかかる場所では…?

noteのことに限らないけど、すぐに結果を求める人って

なんで人の成功してる部分にばかり目を向けて、

それ以外の努力の部分に、気づかないんだろう?

どうして他の人が、時間をかけて築いたものを

自分は一瞬で得られると思えるんだろう?

そして得られないからといって、悲劇のヒロインぶれるのだろう。

(後略)

そのtweetは初見だが、思い当たるふしがありすぎる・・・。

ちょっと膝まげてかがんだくらいで、あの人と同じ空を飛びたいと思っちゃう。思うように飛べなかったら、もう筋肉痛ですやっぱり無理、そいえばわたし生まれつき膝が悪かった気がしますごにょごにょ・・・とジムの初回体験に来てさっそく諦める人のようにしゃがみこむ。

自分は屈伸すら続かないくせに、日々地道にスクワットしてきた人の成功を「あの人は××だから。」と勝手に理由づけして納得しようとする。

意志が弱い・計画性がない・継続力がない。おそらくどれも当てはまるけど、根本は自分で人生を「選ぶ」のではなく、「選ばれるのを待っている」その無戦略的シンデレラスタンスではないかとふと思った。

自分の人生の行先を選んでいくという主体性が無いから、いともたやすく「悲観的」になる。だけどやっぱり自分可愛さで、そんな自分の在りかたにも光を当てたい。それが「悲劇のヒロインぶってる」と見えるのかもしれない。

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そんなことを考えていた折に、自身が中高生の頃芸能活動を目指し、オーディションを受けていた日々をよく思い出すようになった。「あの子はスター性がある/ない」「可能性がある/ない」。オーディションでも養成所でもそんな言葉をよく聞いた。「才能は見いだされ、選ばれるもの。」そう思っていた。

何度かオーディションを受けるも、その手ごたえのなさから「自分は『ある』側の人間じゃないんだなぁ」と徐々に自己認識し、最後の方は受かろうと思ってオーディションを受けてるというよりも、諦めたくて、そのための烙印を押されたくて受けてるという感じだった。

そんな日々から逃げるため、「もうおじさんたちに品定めされる毎日はコリゴリだ!」と挫折の理由をあちらになすりつけ「ひとに選ばれるのを待つのでなく、自分で人生を選んでいける人間になるのだ」と夢に踏ん切りをつけた。本音は「正直もう諦めて楽になりたい・・・。」に近かった気がするのだけど、周囲にも自分にもその建前を言い聞かせていた。

昔の夢に執着する瞬間が無かったわけではないが、「もう遅い」と言い聞かせ、蓋をした。かと思うとあの夢の続きを夢想して、閉めたはずの蓋をそ〜っとのぞいてみたり。そうやって踏み出せなかった後悔と執着は多額の借金のように膨らんだ。そのリボ払いは延々と続き、自分自身に対する信頼残高はすり減って行った。

みんなひとを見て、自分自身のあり方を見つめたい。「憧れのあのひと」の在りかたに惹きつけられて、自分自身に影響を与えたい。でも他人の「鏡」になるには、相応の力が必要だ。自身のプライドの高さや臆病さに蓋をして安全圏に居ながら、自分の欲やコンプレックスを昇華させるなんてこと出来るはずはないのに。 

今やネットを通じて有名になったり成功する人、その過程を目のあたりにする時代になった。焦ったり比べたり、しやすい時代なのかもしれない。一見すると表に出てくる象徴的な人は、みなシンデレラに見えるけれど、実は日々地味に反復横跳びし続けてきた結果なのだと今ならわかる。

【安室ちゃんの言葉は芸能界随一重い】

www.vivi.tv

「だけど、継続は力なりの道を選ぶならものすごい信念が必要だし、すごく時間もかかると思った方がいいんじゃないかな。一日二日、1年2年ではどうにもならないものもあるから。継続は力なりは本当に地味な作業なんですよね。今うまくいかないと悩んでる人たちは、きっとその地味な作業を上手に乗り越えられてないんだろうなと思う。成功に近道はないんですよね」

「ピカソは売れた、ゴッホは死後になって認められた」という比較論があるけど、二人とも「自分の中の感性やあるがままを追求し続けた人」ではないだろうか。

生きることは、まず自分をあるがままに生かすこと。そして「あるがまま」と「今のまま」は似て非なるもの。そうやって生きている濃厚なエネルギーがひとの役に立った時に、世に評価されるのだろう。

大概の絵は、ポスターにすらならないけど、筆を取らなきゃなにも始まらない。自分という畑を、日々掘り起こして耕し続けていくしかないのかもしれない。

 自戒を込めていろいろ書いたけれど、個人的にはすこしかがんだくらいで空飛びたいと思ってて、飛べなかったら才能や運がどうだのぎゃんぎゃん言う、そんな欲深き怠け者も、人間らしく愛しいなぁと思う。自己擁護するようだけど。

なりたい職業になれなくても、一番好きなひとと一緒になれなくても、キラキラはしていなくても、それでもなんとなく「悪くないな」と思える日常がある。それは自分の嗜好(志向)×能力×環境が奇跡的にマッチしているということで、そんな日常が実は当人の「ありたい姿」に最も近い、ちょうど良い塩梅なのかもしれない。

「夢を叶える」こと。それは大人にとっては「どうなりたい」よりも「どう在りたいか」「どう在り続けたいか」が大事な気がしている。そしてその在り方を決めるのは、間違いなく毎日の過ごし方・生き方だ。自分の生き方に言い訳せず、スクワットを続けていく。それが「大人の『夢』の叶え方」なんじゃないかと思う。

 

ベッキーについて妄想あれこれ~彼にイイコぶっちゃう問題~

先月の『週刊文春』に、ベッキーから届いたという手紙が掲載されていた。

事実の詮索や是非は置いておいて、わたしがこの騒動の当初からずっと感じていたこと・・・「ベッキーにとって、今回の相手の男は心の穴だったんだろうな・・・」ということである。

流出したLINEのやりとりは、不倫真っ最中の温度感で送られたものなのだろうが、圧巻なのは事が公になった後も、不倫相手に対して感情的にならず、健気かつ気丈にも振る舞う彼女の態度だ。 

不自然に感じるほどの一貫したスタンスに、空恐ろしいものを感じた。

ベッキーに肩入れするわけでもないし(出来ないし)、サンミュージックに借金があるわけでもないが、さすが生き馬の目を抜く芸能界で17年も生き残ってきた人。その善悪は置いておいて、突き抜けている。

いくら楽観的な気質だとしても、記者会見を開くほどの事態にまで発展すれば、「あんたが優柔不断で脇が甘いせいで、こっちは吊るしもんなんだよ!」くらいのことを言いたくもなる。

いわんやその後に及んでさらに「逆に堂々と出来るキッカケになるかも」とか言われたら、どんなに好きでも「じゃお前も晒し者になれや・・・」と怒髪天ものだ。

「憧れのミュージシャンと不倫」なんて設定はわたしのような身分では想像できない程、ドーパミンがドバドバ出て、思考・感情がマヒするのかもしれない。元来の気質に因るものであるにせよ、そうやって一時の感情に溺れたものであるにせよ、あの状況であの振る舞いは並大抵のメンタルでは出来ないと思うのは買い被りだろうか。

本音や弱音が吐けない関係性は不安を募らせる。恋人だろうが夫婦であろうが「本当に愛し合ってるとは言えないんだろうな・・・」と卑屈になってしまう。

その意味で、ベッキー自身が関係性の危うさを認識し、あえて「恋人未満」だと置きに行っていたとしたら、件の「友達」発言も、本人の認識としてあながち全て嘘じゃないのではと思ったり・・・いや、ホントただのミーハーの勘ぐりなんだけど。

 

いずれにしろわたしがどうこう言える筋合いはないのだが(じゅうぶん言っとるがな)、この件を見るにつけ、「言いたいことの言えない恋愛はどっちに転んでも地獄谷」と、己の閻魔帳(別名:恋のべからず帳)に鬼の形相で筆圧強めに書き足すのである。

ベッキーがそうだったかどうかはさておき、自己欺瞞を続けながらでもある人と一緒に居たい、という感覚は残念ながら理解できる。

他の人と付き合っているときはそうでもないのに、その人を前にすると、もはや条件反射的に無理したり、媚びたり・・・。心の穴に引っかかっちゃう相手っているんだよなぁ・・・。

私事かつかなり昔のことになるが、ある元彼にわたしは「夜のスターリン」(もはやよく付き合ったな)と呼ばれていたのだが、その数年後に付き合った別のある人はわたしを「女神」と呼んだ。ある友人は、元来誰と付き合ってもマリーアントワネットが大阪のおばちゃんに転生したかのような、極上のワガママと安っぽい世話焼きをある意味黄金バランスで共存させていたのだが、とある別の彼の前では、常に微笑をたたえた壇蜜崩れ(失礼)を演じており、常に彼を立て、動静はたおやか。「彼から古風な女と言われる」というノロケを聞かされた時は友人一同噴飯した。

そして蓋を開けてみると、スターリン時代は数年に及ぶ長期政権を樹立したが、エセ女神は数ヶ月であっけなく自滅。壇蜜崩れもたった三ヶ月あまりでスピード解雇である。

わたしたちはとても落ち込んだ・・・エセ女神&壇蜜崩れ@磯丸水産で、イカの肝をつぶしつつ大反省会である。

当時はとても落ち込んだ。イカの肝かアンコウの肝しか喉を通らないくらい落ち込んだが、3ヶ月後には「いやー、そもそもの初期設定からして無理ゲーでしたわ!」と益々肥大化した肝を座らせホッピー片手に開き直るスターリンとオバネット。

当時その彼に支配的な態度を取られ、自分は唇噛み噛み我慢していたかというと、そんなことはない。その人に好かれたくて、好意的な反応が嬉しくて、もう条件反射的に常にポジティブな態度を取り続けたのはわたしの依存心からである。最後の女に選んでもらいたかったのかもしれない。

相手の理想(というか都合の良い)の女性像を演じ、媚びることである程度関係は継続するかもしれない。でも泣いたり怒ったり「感情を持つ生身のわたし」が生き場を失くしてしまう。「好きなら仕方ないじゃん。」その通りなのだけど、アラサー以上の身にはこれが結構しんどくて、首が詰まるのだ。

 ・・・なんかベッキーの話から自分の話に・・・畏れ多くも前座にしてすみません・・・。

話が拡散してしまったけれど、ベッキーが今回最終的に出会ったものが、びっくりキノコ頭の男性ではなくて、初めて出会った己自身、であったら良いなと思う。

【以下中村うさぎさんのインタビュー記事を引用】

am-our.com

依存によって最も醜い自分に出会うことは
いい経験になる

中村うさぎ AM 恋愛 甘えと依存
©AM編集部

 

 

 

 

 

 

―依存をしたことですごくいい体験をしたことはありますか?


中村:恋愛で男に依存したことで、いい経験をしたことなんて一度もないと思う。

依存って執着なので、しすぎると苦しいからね…。
しいていうとしたら「私ってこんなにばかなんだなー」と最も醜い自分と出会ってしまう体験ができることかな。
そういうコントロールできない自分を発見していくことは、とても貴重だと思うんですよ。


 恋愛って最も自分を知るチャンスだと思うのね。
やっぱり人ってきれいごとをいってしまうし、きれいごとを言っている自分が本当の自分だと思ってしまう。


 心の中でドロドロしたことを思っていても、そんなことは口には出さないし態度にも出さず、
そんなこと思っちゃだめ! って自分に言い聞かせて、もっとポジティブに考えよう!  とかさ。
そんなことができる間は依存じゃないから。
でも恋愛でバカになって、私はこんなに愚かだし、こんなに醜いし、こんなに視野が狭くて、だめな人間なんだ、ということをちゃんと知らないといけないと思うんだよ。
自分をきれいにきれいに美化したままでいたら、「己を知らない」という理由でどっかでつまずくから。

「人間って『自分がいかに下らない人間か』ということを思い知ることで、スーッと楽にもなれるんじゃないかな」とは敬愛してやまないかのタモさんの名言である。もしかしたら自然体とは、己の醜悪さに気付いたその先にしか無いものかもしれない。

 ・・・と、ここまで書いてベッキーが昨夜のテレビ番組に出演したことを知った。

「金スマ」でベッキーが中居に明かした本音 涙声で語った「記者会見のウソ」【書き起こし】 - ねとらぼ

特にファンではないし、フォロワーシップも持ち合わせていないけれど、同世代の同性として、お互い少しでも生きやすく生きれたらいいよなぁ、と一方的に思う。

醜くてどうしようもなくても、自分自身を抱き締めずにはいられない。周りにその醜さを気づかれてるんじゃないかとビクビクしながら(そして大概気付かれている)、だけど時々その醜さのおかげで愛されながら、生きていく。

 

まぁそれこそ友人でも何でもないので、一方的な妄想なんだけれど・・・。

男は縦幅・女は横幅、最終的には経験の幅がそのまま魅力になる。

男女のもつれは芸と女の肥やし、と陰ながらエールを送りたい。

「小さなOK」を出し合って、人は生きてる。

友人に勧められて、遅ればせながら漫画『サプリ』を読んだ。よくある恋愛ご無沙汰OLが、部屋着で干物食べながら上司と同じ家に住んで納豆巻き食べながらたまにやる気スイッチ押すとハイパー労働者モード入る系のやつか(色々混ざっている)…と半信半疑で読み始めた。

ぅぅぅっ・・・っこれはビジネス経典である(目頭を押さえながら)・・・。

話のあらすじを言っちゃうと

①深夜残業当たり前・休日出勤ご褒美です状態広告代理店勤務の27歳女性が、仕事が激忙しくて学生時代から付き合ってる彼と別れる(身に覚えあり)。

②別れて間もなく、元彼が他の女性と結婚(身に覚えa(ry)⇒失恋後、不倫中の同期のイケメンやさ男が異動してきて再会し、お互いの傷を癒しあうも、恋愛に不器用過ぎる主人公は結論うまくいかず。

③そのあと振り回す危なげオラオラなコワモテ系の男(職業カメラマン)に惹かれたんだけど・・・(普通コレで婚期遅れる)

④どっこい!二人の関係は成就+継続し、なんと子どもを授かりました!

⑤しかし主人公は彼に子どもが出来たことを言えないまま、カメラマンの男は自意識炸裂し中田英寿よろしく自分探しに海外に行ってしまう・・・

⑥数年後再会。主人公は未婚の母。子どもは産みましたけど、お前はこれからこの子とわたしと一緒に生きていく覚悟はあるか、と彼にビンタ!母は強し!持つべきものは己の経済力!さすが電通社員!(電○とは言ってないけど)

・・・まぁそんな話なんだけど(サマリが雑ですみません)、わたしがことごとく刺さったのは、上記の主人公の恋愛云々というよりも、主人公と先輩社員のやりとりである。

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 「仕事は女を救わない」とはよく言われるけど、半分その通りだと思うし、半分そうじゃないのかもと思う。

と言うのも、わたしは今仕事をしている会社に、人間として育てられた感がある。会社は第ニの親だ。そう書くと社蓄感みなぎっているけどホントにそうなのだ

わたしは新卒で入社した今の会社に、2度目の就職活動で内定をもらった。1度目の就職活動では最終面接で落ちた。落ちた理由を、自分なりに理由を分析すると一言で言うと「自信が無く、危うかったから」だと思う。

その頃の私はとにかく自信が無くて、自信がないくせに完璧主義でプライドが高かったから、相手によって自分の出し方を変えてしまう「わかりにくい子」「危うさのある子」だったのではないかと思う。結果、就活留年させてもらったわたしがやったことは、社会と自分自身に「慣れる」ことだった。慣れない存在である大人に対して自分自身を言語化し、その中で自己理解を深め、不要な自責や背伸びを止めようとしていった。

そんなこんなで述べ100人強の大人の方にお時間を頂き話をする中で、自己開示や自己受容を少しずつではあるがうっすら体得していき、結果二度目の就活で希望の会社に入社することが出来た。たくさんの人のおかげで、その一年で若干の成長を遂げたものの、もちろんそう簡単に人間が変われるはずもなく、入社当初は全く自信が無く自分の言葉で話せなかった。人の表情を見ることだけに長け、自分はと言うと臆病なポーカフェイスで「何考えてるかわからない」とよく言われた。

だけどその一方で、どうしようもなく真面目だったので、仕事では目の前の仕事を精一杯こなし、お客さんに応え続けた。

業務内外、苦手な営業も宴会芸もとにかくコミットすることで、お客さんや上司に「おまえは(泥臭いけど)いいなぁ。」と言ってもらえた。初めて他人から貰った「いいなぁ。」のつぶやきに、わたしは思いの外励まされた。徐々に自分を受け入れられ、自然と自分を出せるようになった。

すると徐々に自分の引き出しを開けていくことを覚えた。辛いことも苦しいことも、「人間の引き出し、幅をつくるための経験だ」と思えるようになった。生きるのがなんだか年々楽になっていった。

就活面接でオドオドしていた女子大生は、いつの間にか聞かれてもいないのにインターネッツ上で持論を主張するアラサーになっていた(良いやら悪いやら)。 

そんな風に仕事を始めて6年目になったいま振り返ってみると「若いうちにたくさんの成功体験を積むこと」の大事さを痛感する。若いうちからたくさんの打席に立つ×「小さな成功体験」を積むことで、自分の引き出しを増やしていく。引き出しの数と幅がそのまま自信になる。

そのためには小さな「OK」をくれる人たちに出会うこと。そんな環境に身をおくこと。特に自己肯定感が低くなりがちで、内省傾向の強い女性には、とても大事なことだと思う。とは言うものの、年次が上がれば周囲からの期待値や越えなければならないハードルは当然上がり、「自分の能力で、ここで働き続けることは難しいな」とか「後輩の方が全然優秀じゃん・・・」とかしょっちゅう卑屈になっては落ち込んでいる。そんな自分自身こそが、限界作っているんだなともよく思う。完璧主義のくせして承認欲求の高い性質はなかなか治らない。 

でもその度に前を向くのは、「わたしなんか・・・」の先には何もなく、誰も救わないし、救われないんだということを知ったからだ。それは恋愛も仕事も一緒である。

強く想い、がむしゃらにでも頑張ったその先には必ず何かがあったし、それはそのまま自分の肥やしとなっている。

そしてその肥やしで、後輩だったり「この人の背中を押してあげたい」そう思う人が居たら、自分の経験と感性を総動員して小さな「OK」を出して受け容れる。それは仕事に限らず、友人・恋愛・家族でも。そんな「力のあるOK」を出せる人であり続けるために、わたしは日々いろんなことを乗り越えながら生きている。

そうやって巡りめぐって「小さなOK」を出しあって、人は生きてるのかもしれない。

 【ご参考】

特に女性のキャリア形成、自己肯定感の持ち方という観点で、すごく参考になる、岡島悦子さんの記事です。

careerhack.en-japan.com

「好き」と「大切」がわかる人。

以前、なじみの整体師の方と「パートナー」についての話になった。 

「人間て、“自分ひとりの力で生きてる”と思ってる人間か、“周りに生かされている”と思ってる人間か、大きく分けてそのふたつなんですよ。“周りに生かされている”と本気で思っている人は浮気しないですよね。」

「パートナーって最悪の状況からギリギリのところで救ってくれる存在じゃないですか。どんなに追い込まれてても、一緒に寝るだけで救われる時ってあるじゃないですか。そんな人にはやっぱり笑ってて欲しいし、傷ついている顔なんて見たくないですよ。」

・・・奇しくもその話をしたのは当時付き合っていた彼がなぜか酔っ払ったついでに詮索もしてないのに浮気をゲロってきた翌日であった。

クソ彼氏が引き起こしたテロに参っていたわたしはそのタイムリーな話題に頷き過ぎて顔が鎖骨に埋もれるほど思ったのは「ひとを好きになる」と「ひとを大切する」は違うんだなということだった。

「好き」だけで恋は出来る。だけど、「好き」だけじゃ人と人との関係は続かない。結局「好き」は「自己愛」の延長で、その「自己愛」は相手を傷つけることもある。そこからお互いに「大切」と思いあえる関係にシフトしていかないと、二人の関係は耐久レースと化し、いずれ関係性を続けることが出来なくなる。

そんなことを思った時に、過去七年間付き合った別の元彼を思い出した。

その彼とは別れた一年後に、一度再会したことがある。会ってる間中、彼はわたしの言動に「成長したね」と言っては泣いてくれた。別れた後も、わたしをもう「好き」じゃないのに、ずっと「大切な人」として思ってくれたんだ・・・。

http://nyankichitter.hatenablog.com/entry/2014/08/26/002317 

そんなことを思い出して、「なるほど今回の彼は、わたしのことは好きは好きだったんだろうけど、大切だと思っていなかったのだな」と合点がいったのである。思えば当時なんとなく不安になって、「わたしのこと好き?」なんて聞いていたのだけど、その問いは全く本質的ではなくて、論点は「好き嫌い」ではなかったのだ。

自分以外の誰かのことを「好き」だけではなく、「大切」と思える人はそんなに多くない。というよりも、自分をそんなにも思ってくれる人は、自分が考えていた以上に多くなかったのだなぁとしみじみ思ったのである。「モテ」とは次元の違う話である。

「好き」と「大切」の違いの話に戻ると、それは「対相手」の話だけでなく、「対自分自身」にも同じことが言える。「自分が好き」なことと、「自分が大切」なことは似てるようで違う。むしろ自分が好き過ぎると、「自分を大切にする」ということからは遠ざかってしまう。

それは自己愛から人や自分に求めれば求めるほどいつまでたっても「満足」することが出来なくて、そしてその満たされない渇望感がさらなる泥沼を生むからだ。強い自己愛や欲を持つ有名人や経営者などが、世間的名声や栄光の陰で自暴自棄なプライベートを送っていることは、時々耳にするし、実際に目のあたりにした時はその根深さにこれが業というものか、と思った。そんな「自己愛」の追求は、「自己満足・快楽の追求(追究)の旅」とも言えるし、「延々の自滅」ともいえる。

「不安」から相手を詮索・束縛してしまう関係もこれにあたるのだろう。実のところ「自分を不安にさせる相手」は不在で、自身の「不安」や「嫉妬」という感情の追求と支配を止められなくて、自滅していってるケースも多い。

 

 

アメリカの医学者たちが著した『オルガズムの科学』(作品社)という本に「セックスにおいて快感と満足はまったく違うものであり、快感だけを追えば追うほどむしろ満足からは遠ざかる」といった記述があった。拙著で述べた「恋」と「愛」の違いを、セックスの観点から言い換えたともいえる。そしてまさに、恋愛工学は一時の「快感」を得るための理論ではあるが、決して「満足」にはたどり着かないドラッグなのではないか。

www.gentosha.jp

突如としてCHAGE&ASKAの話を出したけど、元彼やASKA(並べちゃったよ)を批判したいわけじゃなくて、今からそいつを殴りに行って欲しいわけでもなく(殴って欲しい気もするけど)、自分自身に対しても「同類なんじゃ」という疑念を抱くからである。

「大切」より「好き」を優先した過去。「好き」を「大切」につなげられない関係構築力。 

もちろんそれらの恋愛から学ぶことは多かったが、「大切にする力」は一向に身に付いていない気もする。

何度も恋を繰り返し、その度に恋を失い、傷みと執着にジタバタしている。そして時間が経てば、「あれはなんだったのか」と周囲が呆れるほどケロッとしている。

20代半ばから「好き」と「大切」、「欲望」と「愛」について、壊れた時計の振り子のように、ずっと行ったり来たりを繰り返している。我ながらバグってるんじゃないだろうか。

そんなモラトリアムな状態が嫌いと問われれば、寂しくはあるが、決して嫌いではないのである。わたしの自己愛も相当なものだ。

 

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「何があれば、産めるの?」

「子どもが欲しくないというキミに、これ以上時間を費やせない」

 

そう言って、付き合っていた彼にフラれた。

そもそも、これまでの人生で、「子どもが欲しい」と思えたことがなかった。

友人や知人に、子どもを持ちたいかを尋ねると、「欲しい!」もしくは「まぁ、いつかは・・・。」と返事がかえってくる。
私自身はそんな「いつかは・・・」という感覚さえ持てなかった。

「アタシなんてこれからって時に子どもが出来ちゃって~!」と笑い飛ばすタフな女性に遭遇すると、「ななななんで避妊しないの?!そこは調整出来るはずでは?!」とその思い切りの良い「ウッカリ」にひっくり返り、そんな「ゆるい許容範囲」を持てる彼女たちをうらやましく思った。

 

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とは言うものの、クソ天邪鬼なことは承知の上で書くと「子どもは一生欲しくない」と言い切れるかというと、そう言い切ることも出来ない。

どうして当たり前の様に「子どもが欲しい」と思えないのだろう、と何度も考えた。

何のために産むのか?

育てたいために産むのか?

誰のために産むのか?

子どもは産んでくれなんて頼んじゃいない。

その問いに答えが出ないからだ。

自身の自我との折り合いも付いてないように思う。

幼い頃から演劇や舞台に没頭し「何者かになりたい願望」が人一倍強かった。十数年前、地方の片田舎で、もはや憧れを通り越して強迫観念に近いものに追い立てられていた中高生時代。

自分の人生を思うように生きられず、かつシングルマザーとして追い詰められていた母親がたまらずこぼした「子どもなんて産むもんじゃない」というぼやきは、それ自体にショックを受けたというよりも、「自分の人生で実績を作らないまま子どもを産んでしまうと、後悔と手遅れ感で恐ろしいことになる」という強迫観念をより強いものにした。

 

そんな家庭環境を「しんどいな」とは思っても「不幸だ」と思ったことはない。どんな愛情深い母親でも、追い詰められるとそのようなことを思わないわけではないだろう。加えて、母親は不安定で幼かったから口に出してしまったのだと思う。

 

✳︎

「あなたくらいの年頃はみんなそう言うのよ。でもみんな早く産めばよかったって後悔している」

説教したいだけのおっさんのみならず、本当に心配をして経験談のシェアを厭わない諸先輩方にそう言われると、「こんなこと言ってる間に手遅れになるんじゃないか」そんな気持ちだけが迅る。

ある大先輩には「キャリア女性は勢いじゃないと結婚しないし、産まないから!」と一刀両断され、あぁ爽快だなぁと圧倒された。でもそれでもその後もぐじぐじと、踏ん切りはつかない。

冒頭の彼とのやり取りに話を戻す。

お前は結局どうしたいんだと問われ、答えた。

「一生欲しくないと決まっているわけじゃないけど、欲しい・産みたいと言い切れない」

すると彼はこう続けた。

「それはいつ決まるの?何があったら決められるの?」


「・・・わからない。」

 

「逆算して設計すれば答えが出るんじゃないの?出ないってことは、やっぱり欲しくないんじゃないの?」

 

「…欲しくない。」そう答えたら彼に別れを告げられるだろう。するとわたしは「あんなに言ってもらえたなら、彼の子どもを産んでも良かったんじゃないか」と後悔するんじゃないか。

でもわたしのことだから、そんな後悔は半年も経てば薄れ、次の恋や仕事にまい進しているという予想はつく。いつものことだ。

 

「子どもが居ない将来を想像したことが無いんだよ。」と彼は言った。わたしは逆に、居る未来を想像したことがない。

自分の人生にOKを出せたら、そう思えるのだろうか。いったんここまでやれたからOKだよと、決められる日が来るのだろうか。


何が実現すればわたしは後ろ髪惹かれることなく、後悔や罪悪感を感じることなく「子どもが欲しい」と思えるのだろうか。純度100%そう思える人こそ、少ないのかもしれないけれど。

 

だけど一方でこんな気持ちがフツフツと湧き上がる。「手遅れになりたくない。」そんな気持ちで、ものごとを選択するようにいつからなってしまったのかと。子どもだって、そんな理由で産み落とされちゃたまったものでは無いだろう。

 

どんな状況になっても、自分自身の在り方に腹括りをし、受け容れることが大事だとわかっている。そうしないとどんな選択をしても、一生無限ループの「タラレバ地獄」だ。

 

たくさんのものを失い、選び、逃しては得て拾っては捨てる。「選ぶことは捨てること」そうやって人は人生を作っていく。

もっと言うと「選ぶことイコール捨てること」にしかならないものなんて、所詮それまでなのかもしれない。恋も、仕事も、人生も。

そんな啖呵はいくらでも切れるのに、いつまでも選択肢をあげつらうことだけが楽しくて、タラレバばかり考えている。あれから、十数年経った後もこの東京で。

【感想】愛する技術は女の業を助く。『愛は技術 何度失敗しても女は幸せになれる。』

今回は先日発売された川崎貴子さんの『愛は技術』を読んだ感想をしたためたいと思う。

愛は技術 何度失敗しても女は幸せになれる。
愛は技術 何度失敗しても女は幸せになれる。
 

 川崎さんと言えば、ブログ「酒と泪と女と女」が大人気。女性に特化した人材紹介業の経営者であり、仕事恋愛結婚、悩める女性たちを1万人以上フォローしてこられた、人呼んで「女のプロ」。プライベートは2児のママ・執筆活動をされている素敵な方。

 川崎さんを存じ上げたのは、1年前にブログを拝読したことがきっかけ。

心をえぐられるようなアラサ―女性のリアルを愛のムチでビシバシ浮き彫りにされ、しかもそれが割と笑えない現実なのに、思わず他人事のように笑っちゃう面白さだ。

ご本人も“愛しかないけど、媚びも甘えも無い”、良い意味で本当に「ブログや著書そのまま」の方。下記リンクでは川崎さんの特に反響のあった記事を特集されているので、ぜひご一読をお勧めしたい。

ninoya.co.jp

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【読後感想】

さて、本題の『愛は技術』。28歳・独身OLのわたしは読者対象ど真ん中。

本の概要は、ライター・福田フクスケ氏のレビューがうまくまとめられているなぁと思うので、そちらを引用させていただこうと思う。

news.mynavi.jp

モテテク本や恋愛自己啓発本にすがってしまいがちな女性にこそ、手に取って欲しい本。愛されないからといって、自己反省や自己責任で自分を責めるのではなく、"自分が愛するに値する男を自分から選ぼう"と説く本書は、そのための"男の見きわめ方"をスキルやライフハック(=技術)として授けてくれるのである。
著者の川崎貴子氏は、女性のための人材コンサルティング会社の社長として辣腕を振るってきたゴリゴリのバリキャリ女性。加えて、バツイチ・子持ちの末に、8歳年下のダンサーと再婚したという波瀾万丈な経歴の持ち主だ。そんな人生経験から彼女が導き出した結論は、とにかく「自分の人生を他人マターにしない」こと…(中略)…「条件の良い完璧な相手に見初められる」「信念も価値観も相性もすべて合う運命の相手」と出会える、といったロマンチシズムもばっさりお捨てなさい、と川崎氏は喝破している。相容れないのは当たり前。大事なのは、お互いの欠損を埋め合わせ、価値観の違いをすり合わせようと努力できる男性かどうか。相手がそれに値しないとわかったら、執着や依存をせずに鮮やかにリリースするのも肝要だと言うのだ。

たとえば第1章では、パートナーの選び方として、「『結婚向きの男』5つの条件」というものを下記のように掲げられている。

「『結婚向きの男』5つの条件」

(1) 「ありがとう」「ごめんなさい」が言える
(2) 「会話力」「傾聴力」に長けている
(3) 相談力がある
(4) 心に何かの傷を持っている
(5) 情緒が安定していること

上記に年収や学歴などのスペックや、いわゆる「頼もしい男らしさ」が一切採用されていないのは、フクスケ氏が先述のレビューにて下記のように指摘している通りだと思う。

裏を返せばこうした古めかしい"男らしさ"が、これまでにいかに男女間の対等なパートナーシップを阻害してきたか、ということでもあるのだろう。

「『結婚向きの男』5つの条件」を挙げつつも、現時点で「5つすべての条件を満たす男性を探そう」もしくは「そんな男性に選ばれよう」なんてハナ想定していないのがこの本の大前提である。コミュニケーション次第で良好なパートナーシップを築くことが出来る可能性のある男性を見極める、そして育てられる女性になることを指南している。

川崎さんの再婚されたお相手も、川崎さん曰く当時はほとんど当てはまっていなかったとのことだが、連合艦隊司令長官・山本五十六さながら「やってみせ 言って聞かせて させてみせ 褒めてやらねば 人は動かじ」と呪文のように唱えながら遂行した結果、6年の歳月をかけて良好なパートナーシップを築かれたとか。

女性向けまとめサイトの「男性が結婚を考える女性の特徴まとめ」的な「芸人の妻と同レベルに頑張れ」的なプロ彼女・プロ嫁指南は鼻ほじりながら「無理ゲーだわー」で以上終了の生臭坊主なわたしでも、マネジメントのプロのリアルな語り口に、思わず姿勢を正してしまう。

男性についてばかり書いてしまったけれど、わたしがこの本記事で言及したいのは上記のように「育てることのできる女になる技術」についてである。男性が子どもだなんだといつまでも文句をつけるのは、「自分の幸せを他人(男性)マター」にしていることにほかならない。そのためにはまず女性自身の自立が肝要なわけだが、第4章(P.171)に、『自分を幸せにする技術』として、以下の5つのトピックスが記載されている。

こじらせ女子の末路/「女を不幸にする思考」5パターン/薄情女の言い訳/「痛い女」になってしまう魔の瞬間/アラサ―の選択「大人の女道」

『こじらせ女子の末路』については下記のブログ記事がベースになっており、この記事は昨年秋に、わたしが最も心をえぐられた文章である。

ninoya.co.jp

(前略)…年下の友人達、特に恋愛相談に来る若いお嬢さん方は真逆。彼女達は大抵「こじらせ女子」だ。
可愛くてスタイルも良く、学歴も高いし仕事もデキる。そんな非の打ちどころのないお嬢さんにいったい何のお悩みが?と思い話を聞いていると、途中から雲行きはバンバン怪しくなり、彼女達の奇行の数々が露わになってくる。その度に、
「うわ!めんどくさっ!」
と、私は彼氏、もしくはデートのお相手男性の代わりに心の中でシャウトしている。…(中略)…「こじらせ」は、恋愛、結婚市場においてはデメリットばかりなので早々に卒業をお奨めし、卒業できる方法をアドバイスさせていただいている。
何故なら「こじらせ女子」は長く患うと完治しない病だから。
若いうちに自覚し、思考パターン+行動パターンを改めないと、「こじらせおばさん」「こじらせお婆さん」と、健やかに成長を遂げてしまうからである。その生き証人が私の母だ。

 えぐられた理由は2つ。記事中で語られた川崎さんのお母様についての描写に、自身の母の姿を見たから。わたし自身が20数年、目の当たりにしてきた、「こじらせてしまった女性」が孤独を極めていくさまそのものだった。

そしてもうひとつは、わたし自身に流れるその血脈が年々色濃いものになっているという、うっすらとした自覚が確信として突きつけられたからだ。

低い自己肯定感と高いプライド、せき止めようにもダダ漏れる支配的で独善的な性格。頼まれもしないのに、強がりと自虐で塗り固めた鎧をまとう一方で、心の内戦・少女性を垣間見せるという救われたがりの幼稚さ。

わたしはいつの間に、こんな風に「痛い自我」が固まってしまったのだろうか。自らの行く末を思い、途方にくれてしまった。

bokurasha.hatenablog.com

現代女性は多様な生き方を選べる訳だが、その選択を迫られる時期が結構早いという事、そして、個人の社会的能力に関係なく、選択によっては人生がドラスティックに変わっていく事、などが男性とは未だ決定的に違う。自分の選択を信じ、捨てた他の道を振り返らず、果敢に生きていけたらそれは幸せな事だ。しかし現実は、自分が捨てた他の道を幸せに生きている女性達の姿ばかりが目につく。
特に、選択した道が上手く行かなくなったり、体調がすぐれなかったり、孤独にさいなまれたり、そんな「魔の時」に、ある女達は「痛い女」に変貌を遂げる。痛い女の何が悪いと、思う人もいるだろう。でも、周囲に迷惑をかけるだけじゃなく、その「痛み」は本人に何十倍にもなって帰ってくる。そして、痛い女は更に孤立し、もっと痛い結末へと自分を導いていくのだ。

『愛は技術』の根底には、その根本にある女性の「自己肯定感」についての思想が流れている(「母親の呪縛~自己肯定できない女たち」P.214)。

自己肯定感を持ち幸せに生きるためにどうすればよいか。最近はそのアンサーとして「ありのまま生きる」的な論調が取り上げられるが、川崎さんは必ずしもそういう論調を是としていないように思う。わたしが冒頭で川崎さんの執筆されたものを良い意味で「甘え」がないと評したのは、こういうところでお茶を濁さない、甘やかさないからだ。

むしろ幸せに生きるためには、コントロールしなければならないことの方が多い。内からせりあがってくる苦しみや辛さをありのまま発露することではないし、身に降りかかる辛苦をいたずらに我慢したりするのではなく「正しくコントロールする」ことを要される。

特に川崎さんの読者に多い「キャリア系女性」や真面目な女性ほど、我慢してはならないところで持ち前のガッツや強い責任感で自身を犠牲にし、その反動で時に独善的な甘えが露呈したり、ぷっつり糸が切れるところがある。

わたしはそれを当人の気質が劣っているのはなく、人よりも理想と根性を持つ特性と、普段厳しく甘えられない環境に身を置いているという結果の裏面だと思うのだが。

そんなキャリア系女性が「ダメんずという事故物件を引き受けてしまう件」「イイトシした男の母親代わりになってしまう件」などの「あるある現象」にも本著でフォローされているのも、キャリア女性を幾多フォローしてきた川崎さんならではだと思う。(第2章『愛しい男を育てる技術』「男をだめにするキャリア女性たち」)

【大人には「大人の女道」】第4章『アラサ―の選択「大人の女道』にこんな記述がある。

一歳でも若く居たいという女性自意識から逆行するかもしれませんが、ライフステージに何かとリミットがある女性側が、とっとと腹を括って大人化した方が圧倒的に合理的なのです。

ninoya.co.jp

この記事を最初に読んだとき個人的には、「選ばれる客体からの脱却を目指し、愛され女子HOW TOをむりやりマネしようとすることと、大人の女になるための痩せガマンは根本的に何が違うのだろう?」という疑問と窮屈さを感じてしまった。

その疑問は今回『愛は技術』を読んで腹落ちした。人間にとっての幸せは、究極「人を愛し、愛されること」であり、その手綱を握る主体が誰であるかが重要だと理解したからだ。

誰もが「幸せになりたい」と思う。しかしどれだけの人が「自分の幸せ」に対して腹を括れているだろうか?川崎さんは本著で「自分の人生を他人マターにするな」(=だから「白馬に乗った理想通りの男性を待つのではなく、愛する技術を身に付け、愛する人・自分自身を育む」ことや、そのためのキャリアアップが必要)という主張を一貫してされている。 

人は一時の感情や脳内ホルモンに翻弄され、時として「不幸せ方面」に流されやすい。

しかし選択肢と迷いの多い女人生の岐路に居ても、自分自身の手綱をしっかりと握りしめていれば、例え一度や二度方向を間違えたとしても、必ず幸せになれる。そして道に迷うことを、手綱をゆるめる理由にしてはいけない。本著を読んでいるとそんな気がしてくる。あとがきにこんな一文がある。

「「何度失敗しても大丈夫。幸せになれるよ。だって女だし!」というメッセージをひとりでも多くの女性たちに届けられるように、私自身も失敗を恐れずチャレンジし続け、これからも「女の生き様」を刻み続けたいと思っております。」(『愛は技術』P.247)  

「ロールモデルが周りに居ない」「あの人みたいになりたくない」ということを口にする女性ほど、自分以外の女性の生き方をよく見ているように思う(反対によく見ていない人ほど、「憧れ」という言葉を誰にでも簡単に口にしている気がする)。

自分にも他人にもシビアで裏も表もよく見えるからこそ、そう思うのだろう。

どんな人も、キラキラしている時もあればしていない時もある。美しさもあれば醜さも併せ持つ。女性たちがそんな自分たちの生き様を、女性同士で出し惜しみなく見せ合い、経験を言葉にし、本音で語り合う。そんな女性たちのカッコ良さにシビれ、刺激を受け合いながら愛を育んでいく。そんな人の周りに、人は集まってくる。それさえできていれば、孤独な「痛い女」にはなりきれない。孤独になっても、なんの良いことも無いから。

裏も表もあって当たり前。女の業が深くても、愛する技術は身を助く。いつの間にか「女子」ではなくなっていたアラサ―世代。歳下から見れば「アラサ―になりたくない」で、上から見たら「まだまだ経験不足」なのかもしれないが、「大人の女の人生」を歩みはじめるのも悪くないな、そう思わせてくれる一冊だと思う。

アラサーOL徒然日誌

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早朝に目をさまし、二度寝したら仕事でやらかす夢をみた。よくない夢のせいで、低血圧の身体がいっそう重い。ふらふらと起きて、代謝を上げるために白湯を飲むべく、机上のティファールをにらみつけ、携帯で時間を確かめる。毎朝まいあさ、湯も沸かせない時間まで起きれない自分がうらめしい。枕元の飲みかけのペットボトルに手を伸ばしてなんとか目を覚ます。

タンスの引き出しを開け、ねじれた黒いかたまりの中から、生地をつまんで確かめ、ひとつ選ぶ。裏起毛のタイツは、数年以上前から市場に出回っていたのだろうか。

涙袋製造シャドウや国籍不明のカラコン、矯正下着。しかるべき世代のアンテナにしかヒットしない「奥の手商品」というものがある。

一昨年までは、80デニールのタイツにも抵抗があった。加齢とは、媚びや気まずさに開き直りが勝つことなのか。いま手にしている裏起毛のタイツは150デニール、50デニールの実に3倍。開き直った後の加速は誰にも止められない。

電車待ちの間、駅の自販機でホットのお茶を買い、カイロ代わりにするのが日課だ。乗りこんだ電車では、目の前のシートに座る8人中7人がスマホを見ていた。これじゃ交通広告も商売あがったりだわなと週刊誌の中吊りを見やると、かつてはよくCMで見かけたタレントが袋とじになっていた。あっという間だったな…。手のひらの中の液体はもうぬるくなっていた。 

 

始業時間、気配を消してデスクに滑り込む。昨日の自分が残タスクを殴り書きしたポストイットが解読できずに、ひそかに2秒停止する。昨日のわたしがうらめしい。

時計はいつの間にかもう14時を回っていて、取りそびれたランチをコンビニで調達しようと財布を持ってフロアを出た。なかなか来ないエレベーターを待っている間、2年半前に別れた元彼の結婚がふと頭をよぎる。

エレベーターがやっと来るも、混みあっていたので、見送る。こういう時は無理やり乗ってもわざわざ止まらせたくせに見送っても、どちらにしろ気まずい。

目の前に来たタイミングで乗らないと、またしばらく待たなければならないのは、何事も同じなのだろう。そして乗り過ごせば乗り過ごすほど「気長に待ちさえすれば、いつか乗れるだろう」と横着に構えてしまう。
先週末とある会で「女性の生き方指南」のような本を何冊も出している著名人に、「あなたは頭でいろいろ考えすぎなのよ。」と言われたことを思い出す。

目の前に座っていたわたしより2つほど上の、髪をきれいにアッシュに染めた主婦が言った。「プライドが高いんですかねー。」「そうね、ごちゃごちゃ理屈並べて、足がすくんでんのよ。」

 

ショーケースに並んだ炭酸水に手を伸ばす。きっと今日も帰りは遅くなる。

すこし前、大学時代の後輩が「恋愛と結婚は別ものとわかってるけど、結婚向きの人を好きになれない。」とこぼした。すると既婚者の先輩が「結婚に夢見すぎじゃないの」と言った。後輩は一瞬表情をこわばらせた。

みんな、自分の生き方を肯定したい。自分の生き方を肯定しようとして、ほかのだれかの芽を意識的・無意識的につもうとしてしまう。ぺしゃんこにしてしまう。

店内を回遊するも、目ぼしい商品がはけてしまったランチ後のこの時間に特段惹かれるものもなく、ブロッコリーとタコのサラダに手を伸ばす。アンチョビで和えたら、どんな組み合わせもなんとかなるのだろう。何が「マリアージュ」になるのかなんて、食べてみなければわからない。それはそうなのだけど。

フロアに戻りメールを起動すると、同期の退職報告のメールが届いていた。女はいつも迷っているようで、腹を決めてからは周りがついていけないほど行動が早い。同期間でお互いの近況報告が続くが、わたしの近況・・・はなんだろう。返信を打つ手が止まったまま、メールを閉じる。

 

夕方から夜まで、後輩から立て続けに仕事の相談を受けた。独善的で説教臭くて高圧的。そういう自分をさいきんよく見かける気がする。昔、同性の先輩がイラついている時「あぁはなりたくないよね」と言ってる子がいた。「だって怖いじゃん。」その一言が頭をよぎる。

「怖い。」「疲れてるね。」という言葉ほど、働く女を傷つける言葉はないと思う。そんな自分が嫌で、でも止められない。誰か止めてと思う一方で、誰にも気づかれないで欲しいと願う。頑張りすぎる、マジメすぎる、主観や正義感が強すぎる。女が仕事に躓く時、実は「足りない」なんてことは少なくて、なんでも「すぎる」時が多い。 「女」というより、わたしの場合だけかもしれないけど。上手にやってる人も居る。あの頃の自分の視線が痛い。

 

春雨スープとお菓子を夕飯代わりにして、やっとひとり落ち着いてもくもくと仕事を片付ける。今日も、明日の自分にポストイットに希望を託す。こうやって社会の債務は先送りされているのだ。これにて本日閉店、失礼します。

ビールが飲みたいけど、今日は昼間の炭酸水の残りでがまんする。

 

ツンとする夜の冷たさ。通り過ぎる、28の冬。寄り道したコンビニで、今朝中吊り広告に載っていた、袋とじの見出しを見つける。ほとんど見かけなくなっていた彼女は、この数年どんな日々を過ごしていたのだろう。

年中真夏な男性週刊誌の表紙と比べて、女性ファッション誌の踊るような季節感。可愛いけれどどこか垢抜けなくて男性受けの強かった印象の石原さとみが、こんなに複数の女性誌の表紙を飾るなんて、時代はわからないなぁと思いつつパラパラめくる。

「女の人はやっぱり恋をしていなきゃ。」芸能人が女性誌のインタビューでそう答えるのは、業界ルールのひとつかなにかなのだろうか。

 そういえばあのアッシュの髪色の主婦は、今でも旦那に恋してときめいてると言っていた。自分から猛アタックして付き合い、結婚出産に至ったそうだ。結婚後も、はたして恋をするものなのだろうかと気になって、婦人公論の表紙を見ると、今月の特集は『大人の恋 運命の引き寄せ方』だった。やはり、先のことはわからない。

それよりも何よりも、石原さとみも美容と健康のために白湯を常飲していることを知った。やっぱり白湯なのだ。明日の朝こそ白湯を飲んでやると、ひとり決意を固め、帰宅する。

 

帰宅後風呂を沸かし、あたたかい湯船に顔をうずめる。きょう一日の自分の言動を振り返る。 

 「あなた傷ついたって言うけど、私の方がもっと傷ついてるんだからね。」

 あの作家の女性がその後に続けようとした言葉が、「だから人生にもっと飛び込め」なのか「だからつべこべわかったようなことを言うな」なのかはわからない。だけど、こうやって自己憐憫にまみれるくらいなら、頭でっかちで足がすくむくらいなら、飛び込んでいった方がいいのだろう。

・・・さっき雑誌で見た、石原さとみが履いていたようなシフォンスカートの鮮やかさが浮かんだ。 女の季節は、巡り続ける。 去年よりひとつ歳を重ねたわたしにも、春はもうすぐやってくる。春には、肩の凝らないGジャンに、去年よりもすこしだけ丈の長い春色のスカートを合わせて出かけたい。