先日、ふとはぁちゅうさんのブログを読んでたらこんな記事に出会った。
「なんでみんな、すぐに悲劇のヒロインぶりたがるのかな」
最近noteを始めたっぽい人のつぶやきを
たまたまこの間、見かけたんですけど、
「やっぱ私にはnoteで稼ぐのとか無理…心が折れた…」的なことを
つぶやいてるのみて、
「まあ、本人がそう思うなら無理だろうね」って思いました。
(中略)
それにしても、なんでみんなそうやって始めたばかりのことに、
結果を求めるんだろう?
noteとかそもそも始めてから、お金とかの成果に結びつくのには
それなりに時間がかかる場所では…?
noteのことに限らないけど、すぐに結果を求める人って
なんで人の成功してる部分にばかり目を向けて、
それ以外の努力の部分に、気づかないんだろう?
どうして他の人が、時間をかけて築いたものを
自分は一瞬で得られると思えるんだろう?
そして得られないからといって、悲劇のヒロインぶれるのだろう。
(後略)
そのtweetは初見だが、思い当たるふしがありすぎる・・・。
ちょっと膝まげてかがんだくらいで、あの人と同じ空を飛びたいと思っちゃう。思うように飛べなかったら、もう筋肉痛ですやっぱり無理、そいえばわたし生まれつき膝が悪かった気がしますごにょごにょ・・・とジムの初回体験に来てさっそく諦める人のようにしゃがみこむ。
自分は屈伸すら続かないくせに、日々地道にスクワットしてきた人の成功を「あの人は××だから。」と勝手に理由づけして納得しようとする。
意志が弱い・計画性がない・継続力がない。おそらくどれも当てはまるけど、根本は自分で人生を「選ぶ」のではなく、「選ばれるのを待っている」その無戦略的シンデレラスタンスではないかとふと思った。
自分の人生の行先を選んでいくという主体性が無いから、いともたやすく「悲観的」になる。だけどやっぱり自分可愛さで、そんな自分の在りかたにも光を当てたい。それが「悲劇のヒロインぶってる」と見えるのかもしれない。
そんなことを考えていた折に、自身が中高生の頃芸能活動を目指し、オーディションを受けていた日々をよく思い出すようになった。「あの子はスター性がある/ない」「可能性がある/ない」。オーディションでも養成所でもそんな言葉をよく聞いた。「才能は見いだされ、選ばれるもの。」そう思っていた。
何度かオーディションを受けるも、その手ごたえのなさから「自分は『ある』側の人間じゃないんだなぁ」と徐々に自己認識し、最後の方は受かろうと思ってオーディションを受けてるというよりも、諦めたくて、そのための烙印を押されたくて受けてるという感じだった。
そんな日々から逃げるため、「もうおじさんたちに品定めされる毎日はコリゴリだ!」と挫折の理由をあちらになすりつけ「ひとに選ばれるのを待つのでなく、自分で人生を選んでいける人間になるのだ」と夢に踏ん切りをつけた。本音は「正直もう諦めて楽になりたい・・・。」に近かった気がするのだけど、周囲にも自分にもその建前を言い聞かせていた。
昔の夢に執着する瞬間が無かったわけではないが、「もう遅い」と言い聞かせ、蓋をした。かと思うとあの夢の続きを夢想して、閉めたはずの蓋をそ〜っとのぞいてみたり。そうやって踏み出せなかった後悔と執着は多額の借金のように膨らんだ。そのリボ払いは延々と続き、自分自身に対する信頼残高はすり減って行った。
みんなひとを見て、自分自身のあり方を見つめたい。「憧れのあのひと」の在りかたに惹きつけられて、自分自身に影響を与えたい。でも他人の「鏡」になるには、相応の力が必要だ。自身のプライドの高さや臆病さに蓋をして安全圏に居ながら、自分の欲やコンプレックスを昇華させるなんてこと出来るはずはないのに。
今やネットを通じて有名になったり成功する人、その過程を目のあたりにする時代になった。焦ったり比べたり、しやすい時代なのかもしれない。一見すると表に出てくる象徴的な人は、みなシンデレラに見えるけれど、実は日々地味に反復横跳びし続けてきた結果なのだと今ならわかる。
【安室ちゃんの言葉は芸能界随一重い】
「だけど、継続は力なりの道を選ぶならものすごい信念が必要だし、すごく時間もかかると思った方がいいんじゃないかな。一日二日、1年2年ではどうにもならないものもあるから。継続は力なりは本当に地味な作業なんですよね。今うまくいかないと悩んでる人たちは、きっとその地味な作業を上手に乗り越えられてないんだろうなと思う。成功に近道はないんですよね」
「ピカソは売れた、ゴッホは死後になって認められた」という比較論があるけど、二人とも「自分の中の感性やあるがままを追求し続けた人」ではないだろうか。
生きることは、まず自分をあるがままに生かすこと。そして「あるがまま」と「今のまま」は似て非なるもの。そうやって生きている濃厚なエネルギーがひとの役に立った時に、世に評価されるのだろう。
大概の絵は、ポスターにすらならないけど、筆を取らなきゃなにも始まらない。自分という畑を、日々掘り起こして耕し続けていくしかないのかもしれない。
自戒を込めていろいろ書いたけれど、個人的にはすこしかがんだくらいで空飛びたいと思ってて、飛べなかったら才能や運がどうだのぎゃんぎゃん言う、そんな欲深き怠け者も、人間らしく愛しいなぁと思う。自己擁護するようだけど。
なりたい職業になれなくても、一番好きなひとと一緒になれなくても、キラキラはしていなくても、それでもなんとなく「悪くないな」と思える日常がある。それは自分の嗜好(志向)×能力×環境が奇跡的にマッチしているということで、そんな日常が実は当人の「ありたい姿」に最も近い、ちょうど良い塩梅なのかもしれない。
「夢を叶える」こと。それは大人にとっては「どうなりたい」よりも「どう在りたいか」「どう在り続けたいか」が大事な気がしている。そしてその在り方を決めるのは、間違いなく毎日の過ごし方・生き方だ。自分の生き方に言い訳せず、スクワットを続けていく。それが「大人の『夢』の叶え方」なんじゃないかと思う。