「アラサーは第二の思春期」上等論。
その悩み多き状態を指して、良くも悪くも(どっちかっていうとネガティブな意味で)「アラサ―は第二の思春期」と呼ぶ人がいるけど、歳くってから思春期を味わえるとか最高じゃないか、と最近思う。
世間は「女は30まで」とか「アラサーww」とか無駄に焦らすし、それで焦ったり悩んだりセンチメンタルになると「厨二病乙w」とか「メンヘラw」とか言われたりもするし。
「お前ら中2どころか近所のいじめっ子のクソガキじゃん」と一蹴出来れば良けれど、ジャイ子だって内心傷ついたりもするさ。世間に何か言われなくても、じゅうぶんプレッシャーを感じる多感な時期である。でもだからこそ、言いたい。
「アラサー思春期こそ、感性を磨くとき」と。
「悩み多き多感なタイミング」こそ、感性を磨ける時。そんな時こそ、思い存分悩み、考え、どんどん人に会い、良き友と語らい、美味しい酒を飲み、彼や旦那とじゃいけないような店にもこっそり行き、美しいものをたくさん愛でて、楽しければ朝まで仕事をし、感性を磨けばいいのだ。そのための武器や器(自立できる経済力、可処分所得、そこそこの会話力、良いものと出会うアンテナや引き出し、働ける体力)を持ってるのだから。
多感な人に向かって「そんなことにいちいち悩んでるなんて無駄だよ」と言う人がいるけれど、だって思春期って悩むものじゃんと思う。
彼氏が居なかったら「結婚出来ないかも」と焦り、居たら居たで「この人でわたしはいいんだろうか」と悩み、産んでもないのに産んだ後のキャリアに悩み、産んだら産んだでまた悩む。
働いてたら働いてたらで「ずっとこのままこの仕事を続けるんだろうか」と悩み、引退したら引退したで焦りや退屈を覚える。「悩むより行動」したらしたで、新たな悩みが生じる。
「悩むと考えるは別物」と言うけれど、ただえさえ不器用な状態になってる人間にそんな器用な区分出来るわけないんすよ。
それはその多感な時期を「抜けた人」だから出来ることであって、だったらわかってやれよ(くれよ)と思う。
例えば結婚した人は、独身で焦ってた気持ちって忘れちゃうじゃないですか。なんか相談されても「えーまだ大丈夫だよ~、ゆっくり探せばいいじゃん!」って。
おいおいアンタ、夜な夜なバルでワイングラスの持ち手を指でへし折る勢いで「けぇっこんしたいぃぃぃ!」ってくだまいとったやんけって。アヒージョの海老が生き返ってふっとんだかと思うほどフォークぶっさしてたやろと。
それくらい気持ちも感性も、状況に応じて都合よく変わるんすよ。大人になっても。
十代の思春期には、モテないとか親友が居ないとか、可愛くないだの痩せてないだの、親が嫌だ学校が嫌だそんなことを誰もが何かしら感じていたと思う。後から考えればそんな「くだらないこと」どうでもよかったな、と思う反面、そうした思春期の心を占めていた「くだらないこと」が、今の自分を作っていたりする。悩みやコンプレックスは、その人の原点、原動力、肥やし、生きるヒントだ。
14歳の頃のわたしが、もうすぐ28歳になるわたしをつくり、28歳のわたしが、30代、40代のわたしをつくっている。
思春期第一派の14歳の頃と違って、今は親の庇護も無いし、体力も年々衰えるかもしれないけれど、そのぶん親の干渉に悩まされる必要もないし、友人同士の幼稚で面倒ないざこざもない。
あの頃と比べて、出世やら年収やら結婚やら妊娠やら育児やら、周りの子たちと歴然と差が着いて焦ったり、「現実」に凹むかもしれない。だけどあの頃だってみんな同じ制服着てたからわかんなかっただけで、そんなの生まれた時から歴然とあったのだ。
「人生に無駄なことは何もない」は半分ホントで半分ウソだと思う。何を無駄と思うか思わないかは個々人の感性に依る。
確かなことは「感性」が無いと人は自分で物事を捉えることが出来ない。だから、結果「無駄だった」でもいいし「無駄じゃなかった」でもいいから、わたしは自分の拠りどころとなる感性を磨きたいし、幅を広げたい。
感性を磨いて腹も舌も肥やして、どうせなら味わい深く生きたいものである。
愛はかけ捨て、巡るもの。
最近、人に心から愛され、想われることは、「自己受容」「過去の肯定」「浄化」になるんだなぁとよく思う。
それは相手と離れてしまったとしても同じだ。むしろ、時が経ち、執着がなくなり思念が消えた時、「想い想われた」愛だけが色濃く残る。
18歳の時から7年半付き合った人が居た。
わたしにとって、初めて甘えられる、頼れる歳上の人だった。
その彼に寄り添ってもらい、時には突き放され、だけどすべて肯定してもらったことで、わたしは自分の感性や過去を徐々に肯定することが出来た。
自意識が強く、変なところで繊細過敏なわたしを「自分には無い感性で、おもしろい」と言ってくれた。
若さ故の自意識で、意味もなく人に反発したり、世の中に対して軽口叩くわたしを面白がって、時にたしなめてくれた。
昔はいまにも増して人見知りの内弁慶が故、彼以外の前で自分の出し方が分からず、空回りしては気疲れし、それをいちいち気にしていた。
そんなわたしを見て、「確かに分かりにくいけど、歳を経る毎に絶対ラクになっていくよ。」と言ってくれた。
「何を根拠に?」と思ったこともあったけど(口減らず過ぎる)、その場しのぎのごまかしや気休めとも思えないほど、彼の態度は「大丈夫。なぜならね…」と、どんな時も一貫していた。20代そこそこだった、当時の彼の感性と経験を総動員した、わたしに対する受容と肯定だったんだなぁと、今になって思う。
いつも穏やかで「いいじゃない」が口ぐせの彼に肯定してもらい、徐々に自分を受け入れられるようになると、相変わらずコミュニケーションに難はあったが、彼以外の前でも、自然と自分を出せるようになってきた。
するとだんだん人から受け入れられるようになり、その幅が広がり、そしてまたわたしもまた徐々にたくさんの人を受け入れられるようになった。
自分のめんどくささえも彼がそうしてくれるように面白がれるようになり、そしていつの間にか、彼以外にもそう思ってくれる人が周りに増えていった。
そして、彼と別れ2年あまり。
不思議なことに、時が経つごとに、わたしの中に根付いている彼の愛情を感じるのだ。
自分の言うことを周りに受け入れてもらえず、どこかむなしさを感じた飲み会の帰り道に。
相思相愛で付き合ったはずの彼に、あっさりと振られ自信喪失した夜に。仕事の成果を、ひとと比べて落ち込んだ会社の休憩室で。自分の毎日や将来が、退屈で代わり映えしないものに思えた日曜の夕方に。
泣きたくなる気持ちになると決まって、 「大丈夫だよ。なぜならね…」という彼の言葉が、わたしの中から聞こえてくる。そのたびに「全然大丈夫じゃないだろ」と苦笑しながら、わたしはまた前を向くことが出来る。
そしてわたしはまた彼の愛情のおかげで、別の誰かを想うことが出来る。彼がわたしの中に残してくれた愛情は、わたしの毎日を絶えず巡りめぐっている。
「恋はかけ捨て、愛は積み立て」と言うけれど「恋」は相手や自分自身に見返りを求め、「回収」しようとするものじゃないだろうか。
だったら「愛」は何なのだろうか。自分の生きてきたありったけの経験と感性を以って、「その人が幸せにあるように」‘‘出し惜しみなく”見守ることだとわたしは思う。その意味で、愛はかけ捨てである。
たとえ最後望んだ通りの関係やカタチにはならなくとも、一時的に喪失感を生もうとも、心から愛し愛されていたなら、二人には必ず愛だけは残る。
むしろ「今までの関係を失った時こそ」自分本位な欲や執着が消え、結果、愛情は研ぎ澄まされる。
それが‘‘無い”関係ならば、たとえフラれたって別れたってなにも泣くこたない。あなたは未だ何も失ってはいない。
そして、そこに愛が残ったならば、寂しがったり悲しむことはない。二人の関係は、0になんか戻らない。
そう気付いた時、わたしはどんなに寂しくても辛くても、ひとりで立ってられる気がした。チンケな未練はどこかに消えてった。
7年半、毎日のように顔を見ていた彼と、もう会うことはない。SNSで近況を知ろうとすることもない。彼の身近な世界と、わたしの身近な世界は、きっともう交わることはないし、あの頃のように隣り合って歩くことは、もう二度とないだろう。
彼とわたしの過去は、年々遡るのが難しくなるほど遠くに行ってしまったが、でもいつも目の前にいるかのように、わたしの中で実感だけが残っている。
【追記】
折しも、その7年間付き合っていた彼が一昨日結婚式を挙げたとfacebookのタグ付けで今しがた知った。
その時わたしはジェーン・スー著の『私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな』のあとがきをしみじみと読んでいた。
今の今まで都合よく忘れていたが、この噛み合わなさこそ、わたしたちの真髄である。
引き続き、いつまでも幸せでいて欲しいと祈ってます。
そしてこの期に及んで話のネタにするわたしを、どうかお許しください。
浮気と愛情は別物である「浮気をしない人の7つの特徴」
『TABI LABO』を見てたらこんな記事を見つけた。
『どうすれば、浮気をしない誠実な人を見分けられるのか・・・
世界で共通している「愛」のコト。』
浮気心は世界共通?!浮気をしない人の「7つの特徴」 #最後がスゴイ | TABI LABO
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(以下文中より転載)
浮気。それは、信じているはずのパートナーへの大きな嘘である。
「あなただけを愛している」と言いながら、実際には他の人にも同じことを言っているのだ。
浮気をされると、もう二度とその人を信頼出来なくなり、場合によっては男性不信・女性不信に陥ることもある。
ここ最近海外サイトで話題になっているのが、浮気をしない人の特徴。
「浮気をしない人と付き合いたい」という万国共通の願いを叶える為に、
海外サイトを参考にまとめたこの記事が少しでも参考になるかもしれない。
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この記事の最後に、例によって頼まれもしないのに、わたしの思う「浮気をしない人の7つの特徴」を書いてるんですが、その前に「浮気」の議論について、わたしは下記のことを問いたい。
わざわざわたしが書くまでもないことだと思うけど、「愛」の有無と「浮気」の有無は別である。
特定のパートナーが居て、その人に愛情もなくさらに浮気をくり返すやつは「論外」なので(この記事上では)大気圏に捨ててくるとして、愛妻家、旦那を愛している人が浮気しているなんてことはよくあることで、本人たちも「妻(旦那)を愛している」と言っていて、それは傍目から見てもウソじゃないんだろうな、と思う(それを、「とか言いつつ本当には愛してないよね」みたいに周りが言うのは超絶野暮だと思っている)。
浮気してなくても愛してない場合もあるし、浮気していて、かつ愛してない場合もある。
じゃあ何故浮気をするのか。「愛情と性欲の区別がつかないから」である。
だから、よく浮気されたらどうしますか?という質問があるけれど「私のパートナーは、現時点では愛情と性欲の区別もつかないお猿さんなんだ」と諦めるほか無い、が現時点でのわたしの回答である。
愛してる人のすごく悲しい顔より目の前の性欲を優先するとはわたしにとってはそういうことである。
また一方で人はよく「あなたを愛しているから、裏切ってほしくない」と言う。
でも「嫉妬」の無い「恋愛感情」は稀だけど、「嫉妬」の源泉は「恋愛感情」ではないのではないか。ましてや愛情でもない。
※その意味で「恋」と「愛」は別物だと考えていて、でもそれについて書くには力量勉強不足だし、読んでて面倒だと思うので割愛しますので、二村さんのコラムを。
「愛」と「恋」とは正反対! 恋愛のカリスマ・二村ヒトシさんに聞く、理想の男性と決別して幸せになる方法|ウートピ
嫉妬や独占欲それ自体は「悪」ではないし「正」でもない。でもそれらを刺激されたら、悲しい、傷つく、怒りやネガティヴな感情が湧いてくる。
「なんで浮気するの?!」って正論を主張するかのように責めてしまうんだけど、それは「自分が嫌なことをされた怒り、失望」の上に立って相手を責めているのだ。
そうやって、わたしたちは、感情と正義をしばしばすり替えがちである。
自分に相手を責める権利があるように思って責めている間は、相手が何かしらの罪悪感を感じることを期待してしまう。
そうやってるうちは、相手の中にまだ居場所があるような気がして、相手を責めることで、首の皮一枚で繋がろうとしている。
浮気する人はするし、される人は大概が、最初から「浮気する人」を選んでいる。
もしくは惚れた弱みや気の弱さや怠惰で、「浮気されてしまう状況」っていうのを自分で作り出しちゃってる。
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ぐちゃぐちゃ小うるさいことは置いておいて「もう、バカ猿は無理っす」という人には、この記事に出てきた「浮気をしない人の7つの特徴」は考えるヒントにはなるかもしれない。
※「⇒」部分はわたしのツッコミです。
本文を読みたい方は前述のリンクへどうぞ。
浮気心は世界共通?!浮気をしない人の「7つの特徴」 #最後がスゴイ | TABI LABO
1.気分転換の方法を知っている
「浮気しない人は、自分の感情をコントロールできる。」
⇒これは脳内麻薬であるドーパミンの出し方を知っていると解釈すると、理解しやすい(余計できねぇよ)。
サーファーや釣り人、ワーカーホリックは、その対象が「自然」や「魚」「仕事」で、ドーパミンを異性に求めないので平和っていうか市民権を得ている。
これが「女」や「セックス」の場合、言わんをやである。
2.人に敬意を払う、相手を尊敬する
「敬意をもって人と接することが出来る人は、浮気をしてパートナーを傷つけたりしない。」
⇒確かに彼氏彼女ナメてる人は浮気してるのよく見かけるけど、「敬意がある人は浮気しない」とは限らない。
大概の人が尊敬ってパーツでするもので、逆に全面的に人を尊敬したらそれは「宗教」だけど、その域までいったら信者は浮気しないよね。
一方で教祖である相手が信者をナメたりうっとうしくなって浮気するパターン多し。
3.人の価値を理解している
「今まで何人の人と寝たか」誠実な人はそんなことで人の価値が決まらないことを知っている。
⇒異性関係や異性経験にコンプレックスがある人や欲求が高くないのは「浮気しない人」のベースだと思う。
コンプレックスがあったら必ずそうなるわけじゃないのは大前提として、ヤリチンや浮気性って、大概がコンプレックスの追求だと思う。
好奇心旺盛や病的でない性欲旺盛型は徐々に衰えるけど、病的なものは難しいよね。
4.長期的な視座で、理性を大事にしている
浮気をしない人は、自分の人生で何が大事なのかを理解している。
⇒7つの特徴のうち、2番目に同意。
短中長期の優先順位付けと長期の見立てを理性的に出来ることは浮気しない人の重要な要素だと思う。
浮気って言ったって、長くて3ヶ月も経てばドーパミンもエンドルフィンも徐々に出なくなり、ほぼ腐れ縁である。
そんな平常心に至った際に、面倒を感じないか。
結局複数人を相手に出来る人は少数派であり、それなら「最初から手を出さない方が合理的」「早期撤退」と考えるのは合理的だと思う。
5.相手を自分のことのように思いやる
パートナーを自分のことのように大事に思い、相手が笑顔でいるように努める人は、当たり前のようだが浮気をしない。
⇒前述の「愛と性欲の区別がつかないお猿さん」理論ですな(なんかもう猿に失礼)。
6.傷ついたことがあるからこそ、優しくなれる
⇒5に同じく、想像力と良心の問題。
7.別れる勇気を持っている
浮気をしない人は、気の合わないパートナーとは潔く別れる。残酷なようだが、その方がかえって相手を傷つけないこともあるのだ
⇒7つの特徴のうち、これに1番同意。(「気の合わない」っておぃ・・・)
元カレ元カノとずるずる関係を持ったり、新しい人が出来ても旧恋人と関係を終わらせられない、もしくは複数の選択肢から一つを選べないのは(選ばないのではなく)、優柔不断と自己愛の強さ故に、清算と総括が出来ないからである。
実際優しい人が多いんですけどね~・・・優柔手段だと自分から人を切れないし(ましてやお互い好意を持ってるし)。
自分がそうだから思うのだけど、自己愛強いと自分の感情を宝石の様に扱うから、恋愛に限らず、ただの一時的な感情を、とても大事なものとして扱っちゃう。「ロマンチスト」の中身はしばしばそれじゃないかと思っている。
ただの偶然と己の優柔不断さから一時的に生まれた感情や欲情を「もっと早く出会いたかった・・・。」とか「言うても人生の大事な人だから情が・・・。」みたいな一世一代のものにしちゃう。
周りからしたら「あーハイハイ・・・」って。おめでたいと言うかウザいというかどっちもなんだけど・・・。
上記を踏まえてわたしなりに考えた「浮気しない人の7つの特徴」は
1.脳内麻薬を認識し、そのコントロール方法を知っている。
2.想像力があり、かつ自己中心度合いが高くない。
3.異性関係にコンプレックスや病的な欲求がない(過去にあったとしても、そこそこ昇華されている)。
4.優先順位付けと長期の見立てが理性的に出来る。
6.優柔不断で【無い】。
7.自己愛が強すぎない。
でした。
人間関係を築いていくというのは、自分自身の問題(愛する技術とか、何を求めてるかとか)がほとんどである。
幸せになる原理原則があるとすれば、自分を変え、それでもダメなら相手を替える(相手を「変える」じゃないよ)。
後者の「相手をリスクヘッジ」するという観点では、このまた記事は有効かもしれない。
【続】永遠の幸福の8秒間(父の死後の昔話)
今日にも亡くなるかもしれないのに。
あの部屋に父の身体はあるけれど、父の魂だけはどうかわたしと一緒に居てくれますようにと言い聞かせた。
永遠の幸福の8秒間。父の死が教えてくれたこと。
「昨日産まれたばかりのように、一度死に直面したかのように、日々を味わい、慈しんで生きよ」
辛い恋の続け方・終わらせ方
恋愛が「辛く苦しい」ケースに本人が陥った時、周囲に相談するとほぼ99%の確率で「やめときなよ」ってなるじゃないですか。
相談者のことを大事に思ってくれてる人ほど、イバラの道を進もうとするその姿を見て「今すぐやめとけ」「ほかに合う人はいっぱいいる!」って反対してくれる(一部の人は“面白がって”行くとこまで行け、と言うけど) 。
ただ、それで諦められたら苦労しないんすよね。聞けるならひとのアドバイスを聞いた方が絶対にいいんだけど…。
ただわたし自身は、ハタから見たら身をすり減らすような不毛かつ無謀な挑戦であっても、自分の感情の「ほんの一滴、たったの1ml」を大事にしようと決めた上での行動なら、行くところまで行けば良いと思ってるんです。
先日、行きつけの整体師さんと深夜施術中に脳内ホルモンの話をしていて、話していたのが『一滴・1ml追求論』。
今どんなに苦しい恋愛をしていても、ほんの一滴、たった1ミリでも「幸せだな、楽しいな」と心の底から思えるのであれば(=幸せ脳内麻薬が分泌されるのであれば)、まだ好きでいてもいいんじゃないの、という自論です。
それは「たかだか一滴、たったの1mlが人間に与える影響は、想像以上に大きい」から。
たとえば人間が「嬉しい」「幸せ」と感じる時は、脳内で興奮ホルモンのドーパミンや、幸せホルモンのセロトニンが分泌されているのだけど、 人に幸福・快楽をもたらす幸せホルモンの量なんて、大きなプールに一滴くらいの量なのだそうです。その「たかだか一滴」が人間の「美味しい・楽しい・気持ち良い・嬉しい」を作り出す。
整体で言えば、体の不調を引きおこす要因の骨格のズレや歪みも、元々はたった1mmのズレなのだそう。
わたしはそれを聞いて、「たかだか一滴」、「たったの1ml」が人間に与える影響は、想像以上に大きく、尊いと思ったんです。
頭ではわかってても、どうしても一滴、たった1ミリが諦められない恋愛をしているなら、徹底的に限界までやり抜くのもひとつ。
もちろんそれと引き換えになるものはあるだろうけれど、幸不幸や損得は自分で決めるものだから、自分で決めたならやり抜けば良い。
「自分を信じる」ということは「いざとなったらわたしは自分でシャッターを下ろせる」という覚悟を持つこと。周りを巻き込まず、自分のケツ拭く覚悟があるのなら、すべてを終わりにするのは、シャッターを下ろす時で良い。
他人からは「愚か者だなぁ」と笑われるかもしれないけれど、「好きなうちは止められない」。もちろん自制心や自己防衛力でコントロール出来るならそうすれば良いけど、「出来るならやってる」となるような出来事は、長い女の人生、人生一度や二度起こる人には起こる。
そして自分で幕を引く瞬間は、思いっきり白くて鮮やかな、大きな白旗をあげてやろう。大きな白旗は、また次に海に出た時に力強い帆となって、風を受けて次の航路へと導いてくれる。敗北を認めたら、撤退を決めたら、悩まない。「あの時間、経験が無駄だったかどうか」なんて考えても仕方ない。そんなこと考えてる時間が一番無駄だ。
自分の人生の出来事に意味付けするのは自分自身だし、人生の答え合せはあの世に逝きがてらやれば良い。
本気の恋をすると、人は誰かに傷つけられるんじゃない。頭ではわかっていながらも、自分で自分を傷つけるのだ。
だから被害者意識や恨みつらみそねみは、持ち越し禁止。自分を選ばない男に傷なんて付けさせてどうするのだとわたしは思う。
自分の心に本気でつけた傷は、女の勲章である。それが女の甲斐性だわたしは思う。
「人は結局自分が見たいようにしか見ない」
「結局人間、自分が理解したくないことはわからないって言うし、してほしくないことをされたら理解できないって怒るんですよ」
この間、後輩が飲みの席で「好きでもないくせに手をつないだり、夜中に電話してきたりするんですよ。だからといってヤるわけでもないし付き合うわけでもないし、なんなんですかね?」「彼の気持ちがわからない。」と可愛らしくも愚痴っていた。
「あの人の気持ちがわからない」。恋愛に限らず、そう口走ったり、そんな一言を聞いたりするのは日常で往々にしてあると思う。
ひとは相手が自分にとって望ましくない行動をとったり、はぐらかされたり、意思疎通が出来てないと、「相手が何を考えてるのかわからない」という。
だから“答えを探しているテイでぐるぐる考えるんだけど、”根底では相手を責めたい気持ちがあるので思考にモヤがかかり、一向に相手の気持ちや考えに辿り着くことができない。
わたしはそういう思考になった時にふと思うことがある。相手は「なんも考えてない」と言えば考えてないし、「考えている」と言えば考えてるのだろうと。
前者の意味は、相手の考えの中に「わたし」なんてほぼ居なくて、居たとしてもわたしが望むほどには考慮されていないということ。
後者の意味では、相手は何かしら少なからず意図があって行動しており、それが真実そのものだということ。
でも人は「自分が見たいようにしかものごとを見れない」から、事実を事実のまま受け取らずに「相手が何を考えてるかわからない」「理解出来ない」という。
一方的に抱いた期待に失望したくなくて、絶望したくなくて、思考を停止させるしかないのだ。少し考えればわかることを、いつまでもわかろうとしないのが、いまその時点で振り絞って出せるその人の答えなのだろう。
いつまでもわからない振りを続ける、滑稽さも身にしみてわかっていて、それでも「男(女)って何考えてるかわかんないよね」「あの人ってなんも考えてないよね」と同情し、同調し合う。
そんなこと言うと「女同士の同情とか同調なんてくだらねぇんだよ」って女子会批判されたり、「男同士の傷舐め合い」って揶揄したりするけど、人生のやりきれないものをどうにかやりきろうとして、そうやってみんな生きてるだけなんじゃないだろうか。
いっとき、どれだけわからない理解できないと言っていても、時はそんな当人を置き去りにしたまま残酷に流れていく。そして結局はいつか諦めて、折り合いを付けながら生きていくのだから。
ひとの心の成分は変わらない。
先日ある人と話をしていて、「生き方の癖って治らないよなぁ」と思った。
例えば、異性に刺激を求めて、振り回すようなオラオラ系の男と付き合って身も心もボロボロになった子が、仏のようにすくいあげてくれた安定安心無刺激無添加の塩顔の彼を「刺激が無い」「やっぱりわたしオラオラ系じゃないと無理」と不満を募らせるようになったりとか。
もっと辛いのが、ドキドキハラハラが欲しいと、痛くもない塩顔の腹を探ったりいちゃもんのような喧嘩をふっかけて関係自体を壊したりとか。
片や「寂しい、誰かに愛して欲しい」と理解者を求めていたはずなのに、そんな自分を受け入れてくれるやさしい彼女が出来ても結局相手そっちのけで、また自分の世界という押入れに帰っていく何も出てこないこじらせドラえもん男とか。
理想と現実の狭間でふわふわしてたい「万年どうしたいかわからない子ちゃん」も、わかっちゃいながら興奮と刺激を追い求めるドーパミン症候群も、アーティストかぶれの孤独好きも、事故物件ばかり引き当てるだめんず好きも、自称「メンヘラ牧場経営者」も、心は「いつもの場所に落ち着くように」プログラミングされているかのようだ。
あるエステを経営者曰く、ずっと太ってた人が一時的に痩せても、身体は元の体型に戻ろうとしてリバウンドするらしい。整体の経営者も、身体が歪んでる人が一時的にマッサージや整体で正しても、身体がいつものバランスに戻ろうとしてしまうと言っていた。
人間の骨格や性格は4歳・14歳でその多くが形成されて、18歳迄で大概確立されると言われているけれど、人間そこからそう遠くにはいけないらしいのだ。もちろん人は「成長」する生き物だけど、それは枝葉の話で、思考の癖・行動の癖、すなわち生き方の癖はそうなおらないのかもしれない。
人生は、同じところで躓きがちだ。だから「人間なんてみんなバカ」なのかもしれないし、だから「みんなバカじゃない」のかもしれない。
近しい相手の生き方の癖を見て「問題」と感じた時、「愛してるなら、ちゃんと癖を正すために言うべきことを言うべきだ」って思いがちなのだけど、その人だって自分の生き方の癖で社会とのバランスを必死にとってきたかもしれない。
自分自身でその癖といつどう向き合うか、そもそも向き合うタイミングが来るかどうかは当人だってわからない。
昔知り合いに優柔不断の優男が居たのだけど、その人はなんだかんだモテるのに、そして「結婚したい」と誕生日クリスマス盆暮れ正月新年度の度に宣言していたのに、長年結婚を決めなかった。優柔不断をこじらせて、無理に婚約を迫った彼女に婚約破棄をしたこともあった。
何もかもにルーズでお世辞にも結婚に向いてる私生活ではなかったが、母性本能をくすぐる系の男だったので周りの女性は世話を焼いた。「彼の最後の女になりたい」と奮闘していた美人の知り合いも何人か居たが、彼は相変わらず変わらなかった。
そんな彼がひょんなことからある女性と出会い、傍目にも分かるくらいあらゆるだらしなさを自ら変え、速攻で結婚を決めた時は「心の穴に引っかかる人が現れたのだな」と思った。
人の生き方の癖はなかなか変わらない、とするとその彼の生き方も今後どうなるかはもちろん分からないが、それでも現に彼は「自身が変わろうと決めたタイミング」で自身の生き方の癖と向き合い、変わったのである。
「愛しているから変えたい、伴走したい」と他人を変えようとするのはいくらその人にとって望ましいように見えても、ただのお節介だ。
そして確実に言えるのは、その向き合うかもしれないタイミングというやつは「その人を変えようとする他人」には、ほぼほぼ関与できないということだ。
フランソワーズ・サガンの名言に、「愛すること理解すること。理解するというのは見逃すこと…余計な口出しをしないこと」というような言葉がある。
「愛される」ことに比べて「愛する」というのは、格段に無力で「心の癖にただただ寄り添う」とことしか出来ないのかもしれない。
孤独感・劣等感・優越感・怒り・嫉妬・不安・自責・刹那・哀しさ・博愛…成分の配分はひとそれぞれで、その人の心の成分は変わらない。
愛なんてクソくらえ、夏。
※ 本文と写真は何の関係もありません。
アラサ―女子のための性愛コラムサイト『AM』というサイトがありまして
そこに「ファーレンハイトさん」という、「男女のモテをアジテーションする」脱力系ヤリチン(しかもイケメンだった・・・)コラムニストが寄稿されてるんですが、
【この方です】
https://twitter.com/fahrenheitize
そのファーさんがtwitterでこんなことをつぶやいていたの。
【ファーさん6月23日のつぶやき】
美輪明宏さんが「人間関係は腹6分でちょうど良い」と言ってるのは、たぶんそういうことなんじゃないかな。深く関わろうとするほどに、自分が好む色合いを相手に求め、押し付けようとしてしまう。絶対解ではないが、人間関係のキーのひとつは"距離感"というのは間違いない。
— ファーレンハイトさん (@fahrenheitize) 2014, 6月 23
これは自分が距離感を間違うことで痛い目に何度も合ってきたからの言葉なんだけど。 同時に、俺に対して興味を持ってくれる人には「つまみ食いをしてくれ」と言いたい。俺がダメなグラデーションの部分を変えるのは、自分と自分にとって大事な人のためだけだから。
— ファーレンハイトさん (@fahrenheitize) 2014, 6月 23
ふむふむふむ、これだね。
【人付き合いは「腹六分」で 美輪明宏さん】
人付き合いは「腹六分」で 美輪明宏さん アールグレイはいかが?/ウェブリブログ
「人間関係は腹6分でちょうど良い」そうわかっているはずなのに、人はその目分量を守らない。守れない。
「目分量を守れない」ことのひとつに、人は人との間に「関係性」を作ろうとし、名前をつけたがり、「関係性」に役割を望む(そしてそれは度が過ぎて、押し付けになる)ことがあるんじゃないかと思う。
人と人を「点」と「点」のままで許さず、「点」を「関係性」という線でつなごうとし、そして「関係性」を理由に、相手に対して「こうあってほしい、あるべきだ」を望む。
本当は相手の愛らしいところ、いびつなところ、強さ弱さなど、その人独自に「感じる」ものがあって「もっと一緒に居たい」と思ったのに。その時点で、その人は「点」であったはずなのに。
その人と自分(点と点)をへその緒のごとく当然のように一本の線で結び、その線に「恋人」「妻、旦那」「一番好きな人」「セカンド」「愛人」「親友」「パートナー」など、色んな「なまえ」を付ける。「なまえのない関係」に耐えられないから。「わたしたちっていったいどういう関係なの?」と。
そしてその名前のある関係性を逆手にとって相手との線の太さ、強度をはかる。「恋人、夫婦だったらこうあるべきでしょ」と。
わたし自身、昔はただ「恋されてる」ことを逆手にとって、相手に当然のように糸をくくりつけ、その強度を計ったり試したりしていた。
そしてそのしっぺ返しかのように、逆の立場にも立つことにもなった。
「惚れた弱み」というけれど、それはヒリヒリして、楽しくて、刺激的で、しかしとってっつっもっなっくっ疲弊するものだった。
でも、それはわたしが点である彼との間に線を結びたがって、その線を維持したいがために勝手に振り回されていただけなのだ。
それは「愛」ではなく、「自己肯定の低い片想い」だったんだと思う。我ながら。
以前、相手の浮気だなんだで悩んでいる時、ある人に「執着してるうちは、それは愛ではなくてただの恋だ」と言われたことがある。
「あなたのしてることは愛じゃないよ、ただの執着、恋だよ」「相手を愛してあげなよ」と。
それを聞いて、あぁ相手と自分を腹の底から切り分けて考えられるようになって、はじめて執着から解放され、「愛する」ことが出来るのかなと思った。
だとすると、愛するということは「点」と「点」のまま居られる、存在しあえるということなのだろうか。
そんなことをぐるぐると考えた挙句に、でもそんなこと考えなくたって、お互い線で結び合うことが「心地良い」と思えれば、それでいいんだろうな、とも思う。
周りを見ているところ、もっと自然にやきもち焼きあったり、信じ合ったり、支え合ったりしてるもの。
目分量を計り間違えると、大概の関係は破綻に向かう。だけど目分量を間違えても許してもらえる、受け入れられる相手だって居るんだろう。
わたしにも出来るようになるのかな。
果てしない難題である。
「なぜ男は歓楽街に行くのか」
先日、ある男性と世間話の延長線上で、「なぜ男は歓楽街に行くのか」という話をした。
もちろん性欲もある。だけどそれだけでもないんじゃないか。
その男性が言った。
「女性に底抜けに優しくされたいから」だと。
歓楽街の夜の蝶・キャバクラ嬢や風俗嬢など、プロの方たちは、めったなことが無い限り「お客さま」を否定しない。
男性にしてみれば、普段なら女性に責められる自分の愚かさもだらしなさも、気持ち悪さもウザささえも、ミーラーボールの如くキラキラくるくる変わる表情で明るく飲んで騒いで、ボディタッチなんてしてくれちゃったりして笑い飛ばしてくれたり、
壇蜜ばりの微笑で「お疲れさまだね」「●●サン(しかも男性の大好きなサン付だったりあだ名呼びである)すごいよ、頑張ってるよ」「大丈夫だよ」と己を全肯定してくれる。
激戦の歓楽街で働く彼女たちは、人一倍プロフェッショナルである。
(壇蜜が世の男性を「殿方」と呼んで労り、おっさんは週刊誌片手に心の目頭を熱くした昨今であるが、彼女は歓楽街の女性たちと同じことを誌面とブラウン管の中で全うしようとしているように見える。)
かたや素人女子たちは、どんなに優しい彼女だって妻だって、
「いついかなる時も彼氏や旦那を優しく、包容し、全肯定してくれる」ことはまず、ない。
全肯定ですよ!全肯定!!(ガタッといきなり立ち上がる)
べつにこちらとて、きついこと言いたくて接しているわけじゃないけど、ホルモンバランスも乱れれば、家事育児仕事もあり、女性が男性をいついかなる場合も全肯定するには、現実があまりにも過酷過ぎるのである。
それを要求するのは「心をなくせホルモンなくせ殺せ己の自我までも」と言ってるもんだからね。(何の標語)
そんなのまず無理ですと。
それに、優しい彼女や妻が居ても、「こんなことを言うと、すると怒られるのでは、嫌われてしまうのでは」と遠慮してしまうのが普通の(性格の良いほうの)男性である…。
以前、下記のエントリに、男性は基本的に「何でも自分を許して愛して肯定してくれる、理想の母親のような(母親にかつて許されていた、もしくは求めていた愛情で包容してくれる)女性=菩薩」を無意識で求めてしまう傾向にあるのでは、と書いた。
「感想:『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』」
http://nyankichitter.hatenablog.com/entry/2014/04/30/013339
そんな無意識の下に隠した母性への幻想を歓楽街に求めてるんじゃないだろうか。
かたやそう言うと決まって、
「彼女やプロの人には勃起とセット、母親には求めない」(当たり前や)
「彼女には愛情を求めるけれど、プロの人には性欲のみ(`・ω・´)キリッ」
という人もいるでしょう。
よかったですね、割り切れてて。。
・・・でもわたしはあえて言いたい。
「実際、そんなに性欲強いですか?」と。
ある作家の方とのLINEで、「男も女も性欲ないのにセックスしようとしすぎ。愛されたさを性欲だと思い込んでますよ、女も男も。」って話をしていたのだけど(しかも朝6時)、わたしは寝ぼけ眼でまさに、とひとり膝を打ったね。
ひとは、「底抜けに優しくされ」て、「自分を全肯定してもらいたい」という気持ちを多かれ少なかれ持っている。
そしてひとは愛されたさ(精神的なさみしさ)と性欲をよく混合する。
そんな混合した夜の翌朝「こんなことをしても満たされない・・・」と気付くこともある。
そう、わかっちゃいるんだけど、今すぐ、確実に愛されたさを解消しようとする。
プロアマ関係なく、このことをお互いに理解しあっている関係、理解しあってなくても一夜限りなら傷も浅いというもんだが、大概は片方がもう片方に執着し出すものである。
(ホルモン分泌の性質上、女性は一度セックスした相手に対して愛情を抱きやすい。そして途端に執着された男性は逃げる。「やり逃げ」と呼ばれるものがこれである。男女逆の場合、女性が追いかけられます。だから女もやり逃げして執着されることも可能)
女のプロであるクラブのお姉さんだって、「枕」ナシにお客を長い間引っ張るのに一苦労なのである(「いかにヤラずに、単価高く、長く通ってもらうか」の攻防戦)。素人娘言わんをや。
男性客はお店で肯定された延長線上で、お店の外の自分も、肯定してほしくてそのお姉さんと関係を持とうとするんだよなぁ。
「オレってただの客なの?」って。
そう、ただのお客なんだけど。
もちろん「入れ込んだ分の投資を回収したい」、という思いもあるけれど。でもそんな損得勘定なら、同じこと繰り返さないでしょ。
底ぬけに優しくされたくて、愛されたくて、自分を全部肯定してほしい。
ただの「性欲」とは言い切れない、そんな不器用な人間の欲求が、歓楽街のネオンを今夜も煌々と光らせる。
もしかしたら歓楽街から離れた町の、ネオンの何万分の一の灯りの部屋でも、誰かが誰かのための歓楽街になっているかもしれない。
明け方、相手を優しく肯定してあげた方は、今度は自分が底抜けに優しくしてもらいたくなるかもしれない。
優しくされた方も「本当はあの人に、底抜けに優しくされたかったな」ってまた泣けてくるかもしれない。(こんなツライ話ないけど)
そんなことを帰りの電車でつらつらと綴り、今宵もわたしは煌々と灯る赤と黄色と白と緑の光の中へ吸い込まれ、「金麦」という「一見、夫婦愛がテーマのCMに見えて実は不倫がテーマ」の快楽装置に手を伸ばす。
(訳:サンクスはわたしにとって平日の歓楽街である)
誰かに底抜けに優しくされたい、そんな夜もある。
でも誰かに連絡したくても、なおさら傷ついてしまいそうで、出来ない。
明日も早い。早く酔っ払って眠りにつかなきゃと、ぼんやりとした頭で何も起こらない携帯を弄ぶ午前1時。
アラサーOL華金徒然草。
高望みは、せつない。
この間居酒屋で飲んでたら、隣で30代の男性グループが「女はアラサーになったら条件ばかり高望みして、かわいげがない。終了!」「結婚してれば別だけどね~」みたいな話で盛り上がってたんですよ。
27歳文京区シングルの部アラサー代表(なんの競技?)として、その得意におっぴろげた鼻の穴にテーブル上の焼きそら豆を房ごと突っ込んで差し上げたいと怒りで二の腕がぷるぷるしたんですが、おぼつかない足どりで(酒で)とぼとぼと帰りましたよ。
くっ!!(悔しくて歯ぎしり)
プシュッ(金麦で飲み直す@自宅)
「女は歳を取るほど条件を高望みする」といわれる。年齢、学歴、年収だけじゃなく、「こんなタイプじゃないと話が合わない」「結局見た目がタイプじゃないと続かない」とか。OKが少なくなるというよりはNGが多くなっていく。
それは経験値に比例して、相手や自分に対して期待値が高まって要望が多くなったり、「出し惜しんでるから」と見る向きがあるがそんな理由だけじゃないんだよとわたしは思う。
むしろ、そこまで自分の価値を信じて、要望欲求に振り切れる人は、逆に今までの経験値(交際経験など)が少ない人の方が多い気がする。
過去にある程度の経験値がある人は、「あの人ともうまくいかなかった」って失恋の度に自信喪失しているし、ほかの女の子と比較もしてきたし、過去の「タラレバ」は死ぬほど考えてきた。
そんな自分自身と「男性」に対して、徐々に諦めていってる、もしくは絶望していってるからこそ「この際条件に転ぶか、、、」(最低限そこは頑張らんと、今まで恋愛で泣いたり悩んでたりしたわたしがうかばれんやないか)と思う心理もあるんじゃないかと思うんです。
それを一緒くたに「高望み」と呼ぶなら話は別ですが、冒頭のソラマメ野郎ども(なんか別の悪口みたいだな)がこの背景を理解しているとは思えない。
もちろん経験と比例して「これなら昔の彼の方が・・・」という心理は、存在します。
「大好きな人と恋愛して結婚したい」という欲求と「若くもなくなっているし、早く手を打たなければ」という焦り、「でも最低限は頑張らないと、自分がうかばれない」というプレッシャーの混在。
ハタから見たら、条件で男を見ているように見える女性のなかには、もし好きな人に愛されるなら、条件なんか度外視で一緒に居たいと思う人だっているわけです。
だけど、それが一番難しいって分かってるから、その諦める気持ちに、せめてスペックで価値をつけるのです。とか。だからね、高望みってほんとは切ないんすよものすごく。
他人の悲しみとせつなさは笑っちゃいけないという家訓にのっとると、「他人の高望みを笑う前に、己の想像力に思いを馳せろ」と思うわけです。
もちろん一番良いのは、年齢とか世間体とか他人の評価なんか気にせず「自分は自分!」と思って人生を楽しむこと。自己受容、自己肯定出来たら、恋愛だって結婚だってぽんぽん出来るし、それが出来なくっても、もっと楽に生きていける。過去の恋愛も執着なくリリース出来る。
とは言っても、さみしい夜も不安になる夜もあって、そんな時は月でも愛でながら金麦飲みましょう。そら豆の塩茹でも酒の肴にしてさ。
他人にとって「脳内麻薬にしか過ぎない自分」
常に唐突感しかありませんが、今日は「自分はアッパー系・ダウナー系、どちらの脳内麻薬が欲しくなってしまうのか、もしくは他者にどちらと見なされるのか」がわかることで、自分やあの人の欲望の正体が見えてくるよ!という記事です。
「あんな優しい彼(彼女)が居るのに、なんでわたし(俺)はもの足りなく感じちゃうんだろう」
「なんであの人はわたしじゃなくて仕事や遊びを優先するんだろう」
その理由は「その人が出したい脳内麻薬にあるのです」というお話です。
脳内麻薬の話になる前に、イメージしやすいよう、麻薬=ドラッグの話をします。
ご存じの通りドラッグは大きく分けて2つ、アッパー系とダウナー系に大別できます。
アッパー系は興奮剤として精神を通常以上に高揚させる作用、一方ダウナー系は抑制剤で、興奮・緊張を抑制しリラックス状態をつくる作用があります。
代表的なものでいうと、
◆アッパー系・・・コ⚫️イン・LSDなど
◆ダウナー系・・・大麻やヘ⚫️インなど
がそうなのですが、何も麻薬に手を出さなくても、人間は本能的にもっと強力な麻薬を自分で作り出しているんですね。
脳内麻薬については、中野信子さんの本がとても面白くわかりやすいです。
脳内麻薬 人間を支配する快楽物質ドーパミンの正体 (幻冬舎新書)
- 作者: 中野信子
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2014/01/30
- メディア: 新書
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【脳内麻薬について】
脳内分泌される、人間の思考と行動の源泉である「脳内麻薬」。上記の麻薬をそのまま置き換えてみると以下の通り。
◆アッパー系・・・ドーパミン・(アドレナリン)
◆ダウナー系・・・セロトニン
たとえば、残業時や気の乗らない時に甘じょっぱいスナックを食べたくなったり、時々無性に焼肉やマックのフライドポテトが食べたくなる。これは脳が興奮剤としてのドーパミンを欲しているからなんです。
一方、快楽物質セロトニンは自然やヨガ瞑想、深い睡眠から得ることが出来ます。あと鶏肉をよく噛むとセロトニンが出ます。
人間が感じる「幸せ」はセロトニンからもたらされます。いつもごきげん、笑顔の人は基本的にセロトニンの分泌が十分に安定している人です。(イライラしてる人はセロトニン不足のノルアドレナリン過多)
セロトニンは人を殺すことも止めることが出来ると言われています。犯罪者の再販防止にセロトニンを注射でぶっさせばいいとかいう議論もずっとされてますからね。
そんなセロトニンですが過多になると、「欲も恐れも無く、何もする気が起きない」という状態になり、それはそれで社会生活が困難になります。俗世を解脱した仙人状態ですね。
そんな風に人間は、その時分泌されてる脳内麻薬によって思考・行動が決まるそうです。
そして乱暴に言うと、宇宙に存在するものすべてを、脳内麻薬の対象としてジャッジしていると言えます。
【他人にとっての「脳内麻薬としての自分」】
~アッパー系・ドーパミン編~
たとえば、楽しいこと・刺激大好き!常にわくわくして感性を磨きたい!という人は、恒常的にアッパー系・ドーパミンの分泌を優先的に求める傾向にあります。だから常に選択肢の中で、楽しい方・刺激のありそうな方を選択し、そのほかのものは後回しに。
これを仕事や趣味だけでなく、恋愛にも求めてしまった場合、「刺激を求めていつも遊んでしまうワタシ(オレ)」になる可能性があります。
例えば『英雄色を好む』はこのパターンですね。英雄は人生全てにおいて超絶アッパー系・ドーパミン志向なので。●原●太郎さんとか。老いてなおセックス!みたいな。
こういう人は常にアッパー系を求めてるからこそ世間から突き抜けられるんですよね。周りを見ても、政治家とか起業家などに特に多い印象。
常に刺激を求めたり、相手をとっかえひっかえし、そして時間がたてば飽きて(=安心する=セロトニン分泌)しまう。
自分を愛してくれる優しいダウナー系彼氏と付き合ってるのに「もっと刺激が欲しい!」と彼女が不満を感じている理由も、これなのです。
得てして「愛」と呼ばれるものは、物足りないものと言われますよね。
そういう人は「満たされない 」と言うけれど、常に新たな刺激、ドーパミンを求めてるのだからそりゃそうで、その人にとってはドーパミンを出してるつかの間の状態が最も「満たされている」状態になる。
そんなアッパー志向の男性(女性)と付き合った時、最初はアッパー系だけにテンション高く求められてそれが楽しいんですが、徐々に「もう飽きたんかい?!」「あの頃のグイグイ来る感じはいずこに…」みたいな恋愛あるあるってあるじゃないですか。
それで不安になった方が「嫌いになったの?」「もう好きじゃなくなったの?」とか聞いても、大概が「別にそんなわけじゃない」と気のない返事。
それは必ずしもウソではなく、ただ単に恋愛初期のドーパミンが出なくなって、相手がセロトニンの対象になっただけ。そして彼(彼女)は普段のベースとして「アッパー系のドーパミン」の方が優先順位が高いだけなのです。
それが「飽きられた」現象の正体です。
もちろんセロトニン無しでは生きていけないので、ドーパミンを出す材料(他の女性や友人との遊び、仕事など)がなくなったら、一旦はセロトニンの元へ戻るのだけど。
またドーパミンを求める旅には出るでしょうね。Yes,ドーパミンローリングストーンズ!!
ちなみに、上記の傾向が強い人を「ドーパミン症候群」と呼びます。
ドーパミン症候群の男友だち(起業家、超ガツガツ系のサラリーマンたち)が疲れただの傷ついただの言ってダウナー系を欲し、ダウナー系の恋人を作ったはいいものの、付き合ったそばから飽きてアッパー系(仕事や趣味や刺激をくれるほかの女)を求め、結果相手を振るという自己中対応をしていると「だからおまえはドーパミン症候群なんだから自覚しろよ!!!」一生「味の素」とハッピーパウダー(お菓子ハッピーターンの粉)に漬かってろよ!!!と拳を震わしてます。
~ダウナー系・セロトニン編~
一方、「刺激は仕事やそのほかのことで十分。とにかく安心したい、癒されたい人」。「タイプは家庭的な人です」と建前でもコンプレックスの裏返しでもなく本気で言う人は、ダウナー系・セロトニンを出せる人に魅力を感じるのです。
元々は異性にアッパー系を求めていたけど、アッパー系の仕事や趣味(釣りとかサーフィンとか)にのめりこんだため、アッパー系女性に興味が無くなった、という人も居ます。
むしろ結婚や特定の異性が居た場合は、その人に求められないものを仕事や趣味、友人関係に求めるのがスムーズに生きる方法で、なんでも異性に求めようとすると、リスクを背負う可能性があります。
あとは男性は特に仕事の優先順位が高いので、歳を重ねるごとに、気力も体力も必要なアッパー系の女性を遊びはOKでも本命視しなくなったりするように思います。
時代性なのか、若い人には自身がダウナー系、さらに求めるものもダウナー系嗜好が多いように見えます。周りを見ても、「恋がしたいっ!」的テンション、欲しいものに対してガツガツする姿勢が内にも外にも顕在化してるのはアラサー以降に多いなと。
もちろん、ダウナー系・セロトニン系が正解、万能かと言うともちろんそうではありません。
刺激や楽しさを感じたり、成果を得ようと頑張るのも、褒賞系ホルモンドーパミンを嗜好してこそです。
物事の二面性ですね…(誰)。
【人は結局見たいようにしか見ない】
上記の通り区分することで、有る程度傾向がつかめはします。
しかし他者にとっての自分となると、その眼差しは相対評価、どこまでいっても人は自分の見たいようにしか見ません。
同一人物に「アッパー系的魅力」を感じる人もいれば、「ダウナー系魅力」を感じる人もいます。
わたし自身も振り返ってみると、ダウナー系志向の男性に告白されて付き合って、「あれ・・・アッパー系女子だったんだ・・・やっぱ無理」とかなってフラれたりしたことが…ありました…。
その頃のわたしは夜中まで働き、週2で整体に通ってとは言え、まだ若さ故のエネルギーと体力があった。
その時は知り合いの「超絶ダウナー系セロトニン女子」の顔を思い浮かべながら、「なんでわたしはあの子みたいな癒し系になれないんだろう・・・」と夜な夜な枕を濡らしたり。
挙句「よしっ性格を変えよう!」と無駄な決意をしてみたり。ご存知の通り、決意で性格は変わりません。脳内麻薬を変えるためには究極、身体を変えるしか無いのですが、当時のわたしは今よりさらにアホだった。
その後、超絶アッパー系嗜好の人と付き合うんですが、その人は生粋のアーティスト&メンヘラ好きで(彼女たちの起伏の激しさナメてました)、彼からするとわたしは「ダウナー系女子」。
仕事にも超絶アッパーな彼を支えたくて「プロ彼女」の真似事をした結果、「キミは菩薩系だね」と言われ、「あぁ、わたしも美しくて才能のあるメンヘラになりたい…だけどそういう人って大概実家金持ちかパトロン居るか水商売してて生活深夜型だし、そんなんじゃ今のOL生活続けられん…やっぱり恋と仕事の両立って難しいのね…(そしてだんだん論点がズレる)」と、チープな嫉妬で夜な夜な枕を濡らす日々(その枕は大丈夫なのか)。その時はさらにわたしはアホだった。
そんなことを経て自分や相手の嗜好性が判ってからは、上記のようなミスマッチは起こりにくくはなりました。
が、脳内麻薬の変化によって人間いかようにも変化します。
安定してた彼が突然熱病にかかったように(ドーパミン過多)浮気に走ったり。その逆も然り。
だから「わたし(俺)や彼(彼女)の性質はこうなんだ!」ってあんまり決めない方がいいと思ってます。(ドーパミン症候群以外は)
が、やはり傾向値はありますので、ご参考までに。
というわけで、人の選択や行動には、その人が求める脳内麻薬が源泉であり、自分も含めて他者をその対象としてジャッジしてますよ、他人からジャッジされてますよというお話でした。
だから愛し合ってる二人が、
「わたしが死んだらどうする?」
「ぼくも死ぬよ」
という茶番劇がありますが、その質問に誠実に答えると
「きみと同じ脳内麻薬を出してくれる人を探すよ」
になるのです。
それを「嗜好がブレない人ね!」と思うか、「ふざんけんな」となるかは、その人次第なんですけど。
感想:二村ヒトシ著『なぜあなたは愛してくれない人」を好きになるのか』
二村ヒトシさんの著書『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』を読んだ(文庫改訂版の前の単行本名は『恋とセックスで幸せになる秘密』)。
特に印象に残ったのは、巻末の対談の中での二村さんの発言。
「女の人の心の穴に、タッチ・アンド・ゴーじゃないですけど入っといて逃げ出すみたいなことを繰り返す、僕自身の心の穴というものがありまして…(中略)…時間が経つと冷たくなるんです…(中略)…で、僕には常に女性に怒られているっていう感覚があるわけです」
「プライベートでは女性の感情が憎くなる。責められると逃げ出したくなるし、僕自身が感情を揺さぶられることに耐えられなくなるんですよね。罪悪感と自分を守りたいという気持ちが同時にあって」(信田さんとの対談の中で)
「俺を苦しめないでね、菩薩(※のような女性)なんだから、苦しめるはずがないよねって予防線を張ってるんだもんなぁ」(あとがき)
相手の心の中に入っては、ピューッと逃げていく恋愛ピンポンダッシュである。
「好きだ」「会いたい」の連絡で期待させてきたかと思えば、徐々に連絡が取れなくなったり、そっけなくなったり。関係を持った途端に、フェードアウトされたり。
「回避性」の特性を持つ男性の行動パターンである。
人は一度心をタッチされてそっぽ向かれると、途端に執着しちゃう。
だから不安になって連絡してしまうのだけど、追えば追うほど相手は逃げる。
追う方はいつの間にか「相手を追う権利・責める権利」があるみたいな被害者意識を、持ってしまう。
責めたり恨んで追いかけてる間は、あの人の心の中に自分の居場所が少しでも残ってるような気がして。「相手を責める権利」だけが二人を最後繋いでいるような気がして。
「傷つけられた」と怒るのだけど、その怒りの原因は「自分が望むことを相手がしてくれない」という期待からの落胆か「自分が嫌がることをされる」という被害者意識である。
相手からすれば「なぜそこまで責められるのかわからず」、その温度差が余計に争いを生んでしまうのだ。
*
巻末の信田さんとの対談中でも触れられているけど、二村さんは心底では「男性が勝手をしたり傷つけてきても、女性はどっしり構えていればいい」と期待する気持ちがあることを吐露している。
女性からすると「心をなくせ」と無理ゲーを強いられてるのだが…。
だけど、女性が書いた女性向けのコラムでも、この手の説はよく出てくる。「遊び人の最後の女は、どっしり構えたビックマザー理論」である。
対談相手の信田さんの言葉を借りれば、男性が女性に対して「菩薩」や「母性」を求めるのは、実は男性の深層心理にある、「理想の女性像に執着して、そうでない女性を見下し、その理想の女性像の中に、逃げ込んでいるから」だと言う。
男や恋愛なんかで右往左往しない、自分をなんでも許して受け入れてくれる、母親のような理想の女性像。それは男性が理想とする「かつての母親の姿、もしくは母親にあってもらいたかった姿」である。
男が女に愛情を抱いていない場合、男の目の前の「感情の揺れ動くわたし」は、男の後ろめたさや罪悪感、面倒臭さを誘発するものでしかないのだ。
さらに不幸なことに、女はその「男が面倒臭さを感じている」ことを察して、自分を責めたり我慢してしまうようになると言う苦しさ…。
二村さんは、「恋は ”相手の心の穴” が ”自分の心の穴” に作用してはじまるもの。
わたしたちは相手の心にあいたひとつの穴を見て、好きになったり嫌いになったりしている」と言う。
無邪気で自由でやんちゃな彼に惹かれて好きになって、彼の奔放さに振り回されて嫌いになる。愛情深い彼女に惹かれて付き合ったのに、その気持ちが重たくなって逃げてしまう。真面目で穏やかな彼を好きになったのに、刺激が足りないと飽きてしまう。
ひとつの心の穴を、左から見て恋をして、そして右から見て嫌いになっている。
そして恋の最後には、「彼は最初そうじゃなかった、わたしがうまく駆け引きすればまたあの頃に戻れるはず」とか「彼女は変わってしまった」と被害者意識を持つ。
一つの穴から始まった恋が、一周しただけなのに。
二村さんは「恋が愛へと変化しない場合は、全ての恋は必ず終わる。しかし恋よりも愛の方が何倍も気持ち良いものである」と言う。相手の心の穴を認め、赦し合い、肯定し合うことが愛なのだそうだ。
だけどそれがわかっていながら、なぜ人は懲りずに何度も「愛してくれない人を好きになる」のだろう。
人は「心の穴と穴」が引っかかることで、恋がはじまる。
そして恋愛初期の快楽の海に、溺れる。
快楽の潮が引いた後、「心の穴」の存在や形に向き合い、お互い受容し合うことができれば、「恋」は「愛」へと変わっていく。
しかし多くの場合は、「自分の望むように相手が振る舞ってくれない」と感じるようになる。「恋している側」は被害者意識を持ち、「恋されている側」は、罪悪感や後ろめたさを感じるようになる。依存したり執着したり逃げたり、憎んだり憎まれるようになる。
そうやってその恋を「破滅へと幕引き」してしまうからなのだろう。