アラサーOL クソ日誌。

~タイトルを付け間違えました~

【続】永遠の幸福の8秒間(父の死後の昔話)

(「永遠の幸福の8秒間」の後日談です)
父に頼まれた病室に置くオーディオを買いに行く途中で、中学2年の終わりまで、ほんの3ヶ月前まで通っていた中学校の前を通った。
 
構内を囲む高いフェンスの向こうから、校庭から生徒の声が聞こえる。
体育館で弾むボールの音が聞こえる。
途切れ途切れ、ピアノの音が聞こえる。
 
度々呼び出された職員室、家出がバレて捕獲された渡り廊下(家出中のくせに意味不明な生真面目さで何故か学校には通っていた)、テニス部女子の噂話を肴に、放課後追い出されるまでだべっていたテニスコート前、まるで数年ぶりに母校を訪れたような、懐かしい気持ちになる。
この3ヶ月、転校したことを悔まない日はなかった。遅刻欠席は絶えなかったが、3ヶ月前まで毎日「行かなければならない」居場所だったのに、今となってはわたしは「部外者」でしかなく、その事実に今更胸が痛くなった。
 
「早く教室に戻りなさい!」
 
つい癖でぎっくりとして振り返ると、毎日つるんでいた友だち二人が、保健室の先生と生活指導担当の教師に追いかけられていた。
 
あっと思ったと同時に友だちもわたしに気がついて、「えーっ!なんでここに居るん!」とフェンス越しに駆け寄られた。
こんな風に気安く名前を呼ばれ、駆け寄られたのは久しぶりで、一気に懐かしさがこみ上げる。転校先の学校では、わたしの名前をこんな風に呼ぶ人は居ない。
居るはずのないわたしがそこに居たことに、保健室の先生も指導担当の教師も驚いていた。
 
父親の事情を話すと、友だちはそうかぁと言って、「また夏休み愛媛に帰って来んの?」と言った。父親が亡くなったら帰る場所もないのだけど、と思いながら「そうしたいねぇ」と曖昧に頷いた。
久しぶりの再会は驚く程あっさりしていて、あんなに「一生心友」とか言っていた仲であっても、所詮一度離れてしまうとこんなものなんだよな、とやり場のない寂しさを感じながら手を振った。
再び二、三歩あるき出したところで、また名前を呼び止められた。振り返ると、私が転校する時に餞別としてハンカチとメッセージカードをプレゼントしてくれた保健室の先生がまだそこに居た。
「お前、強く生きるんよ。」
数ヶ月ぶりに聞いた方言が懐かしくて嬉しくて、「先生もね。」と言って手を振った。
 
危篤と聞いていたのに、高校教師だった父は「早く名古屋へ戻って学校へ通え」と言った。
今日にも亡くなるかもしれないのに。
今となっては何故そうしてしまったかわからないけれど、それが父の望むことだと思い込んで、わたしは2日間居た病院を後に、名古屋へ戻った。そしてその2日後、父の訃報を聞いた。
 
学生服を来て2日振りに愛媛に戻り、通夜会場に着くと、幼い頃以来ほぼ会ったことの無い、父方の親戚が集まって居た。
父方の祖母と絶縁した母親は、通夜には来れなかった。 
部屋の一番奥に、幼い頃から父に暴力を振るい、借金を肩代わりさせようとした父の兄である叔父が見えた。この叔父は、消費者金融で金を借りては、返済を祖母や父に押し付けようとして、父の職場や、祖母と住んでいたマンションには、時々督促状が届いていた。
「二度と家の敷居を跨がせない」と、絶縁していた。この男の目の前でだけは、死んでも泣くものかと歯をくいしばった。
通夜の部屋の仏壇に、父の遺影が見える。それを見て初めて、「本当に死んだんだ」と父の死が現実のものとして迫って来た。
「さだまさしに似とる気がしん?」初めて会った叔父らしき人が話しかけて来た。
このタイミングでさだまさしかよと思ったけど、額が広く、痩せこけた頬の写真は、悲しいかなそう見えなくもない。
「最後げっそり痩せましたからね」
そもそも写真のセレクトが最悪だと思ったけど、それは言わなかった。わたしは死に目にも会えていないから、何も言えない。
顔掛けをめくると、ひんやりと硬直し、やせ細って白くなった父の顔があった。
太い綿棒に水を含ませ、口元を濡らすよう言われた。 
この人には酒の方がいいんじゃないのか、と思ったけど、極力誰とも言葉を交わしたくなかったので言われるがまま一通りの所作をこなした。
読経を済ませ、住職が帰ると、みな緊張が溶け足を崩し、どこからともなく出前の寿司と酒が運ばれてきた。
嫌な予感がしたので、その輪から外れて、隣で父の顔をずっと見ていた。
酒が入ると間も無く、父の車はいくらで売れたとか、残ったマンションはどうするとか、そんな話からあの人は何年前に亡くなったとか、子どもがいくつになってるはずだとかいう、身内の与太話に入った。
遺産相続の話になると、祖母がわたしに聞かれたらまずい、と話を遮ったのが背後からでも分かった。長男が、この期に及んでしょうもない話を繰り出し、しきりにバカ笑いする。
通夜に出るのが初めてだったわたしは、ただの酒盛りに興じる雰囲気に耐えられなくなった。
悔しくて涙が堪えられなくなって、トイレに行く振りをして部屋の外に出た。
堪えていた涙がどっと溢れて、あてもなく歩きつづけていると、見知った道に出た。
映画オタクでもあった父に、度々連れられたレンタルビデオ屋まで歩いていける距離にあるとわかって、大泣きしながらとぼとぼ歩いて行ったけど、当然何もすることがなくて折り返し戻って来てしまった。
だけど、通夜の部屋には戻りたくない。憂鬱な気分で建物を見上げる。
すると葬儀場の上に屋上が見えた。親戚と鉢合わせないよう最上階まで階段で登り、梯子を見つけ、よじ登りながら屋上に居場所を得た。
タンッと屋上に降り立った瞬間、気持ち良い夜風が吹き抜け、制服のシャツとスカートが膨らむ。この日初めて息を吸えたような気分になった。
 
夜もすっかり更けていたが、屋上を照らすライトのおかげであたりが見渡せた。屋上を一周しながら辺りを見回すと、一時期父親と祖母と住んでいたマンションが見えた。
小学生の頃、父親にたまに連れて行ってもらったショッピングセンターが見えた。ほんの半年前程に、叱られ、喧嘩してひとりでふらついた公園が見えた。
 
父親が亡くなったのは、自分のせいじゃないかという思いが頭を駆け巡る。中学3年生に上がる春、少しだけ荒れていたわたしを更生させるというので、「孟母三遷」(=まともな人間を育てるためには、住む場所を三度変える必要がある)を母親がリアルに実行し、長年別居していた父と正式に離婚し、再婚をして名古屋へ移り住んだ。
小学生の頃から続けていた演劇活動を、本格化したいというわたし自身の思いもあった。でも類は友を呼ぶもので、転校して間も無く、ヤンキーの子達に誘われた。 
ここで後戻りしてまたつるむようになっては、さすがに母親や道連れになった妹に申し訳が立たなくて、その子達に一緒につるむのは無理だと告げると、その翌日から色んな噂が出回り、誰も話しかけて来なくなった。
そうしてわたしが名古屋へ移り住んで3ヶ月後、父は死んだ。
「お父さんも寂しかったやろうねぇ。」
通夜の部屋でぼそっと親戚がこぼした言葉が何度もよぎる。
父親も失い、家族を引っ張り回して、友だちも失い、叶うかどうかもわからない夢を追いかけ、わたしはいったい何をやってるんだろう。
そんなことをぐるぐる考えながら、延々と泣き明かしていると、空がだんだんと白じんで朝になった。
 
葬儀の日に、なってしまった。あと数時間後には、父が焼かれて灰になってしまう。
誰かに見つかってはまずいと、梯子を降り、でもやはり通夜の部屋には戻りたくなくて、昨晩屋上から見つけたあの公園へと歩いた。最後出来るだけ長く父の顔を見ていたいとも思うけど、あの空間に耐えられそうもない。

あの部屋に父の身体はあるけれど、父の魂だけはどうかわたしと一緒に居てくれますようにと言い聞かせた。
早朝の公園では清掃の仕事かボランティアなのか、ひとりのおばちゃんが居た。
学生服のまま泣き続ける不審な中学生をどう思ったのか、おばちゃんは「内緒だよ」と公園に咲いていたヒマワリをへし折って一輪くれた。 
「生きてたら、必ずいいことがあるけんね。」
自殺でもすると思われてしまったのかと思いながら、わたしはその言葉にいくらか救われ、ヒマワリを片手に葬儀場へと戻った。昨夜からずっと抜け出していたわたしがしれっと戻っても、何かを言う親戚は居なかった。 
参列した父の教え子の高校生たちに、「お父さんに似てますね。特に目がそっくりです。」と声をかけられた。 
これまでは、決して美形とは言えない父に似ていると言われると、複雑な気持ちになっていたものだった。でも、この時はさだまさし風の遺影を見ながら、少し救われたような気持ちになった。父はわたしの中に生き続けている、そう言われた気がした。
 
葬儀中終始寝ていた長男が、喪主の挨拶の時だけ、世にも白々しい泣き真似をしていたことに、顔から火が出る程恥ずかしくなった。
葬儀の最後、棺桶に最後の挨拶と、思い思いの品を入れていく。
昨日の夜、数日前に買ったあのオーディオを入れたくて探したけれど、もう既に無くなっていたことが分かった。 父が亡くなる前から、すべて長男が手をつけていたらしい。それらにほとほと嫌気がさして、棺桶へと並ぶ黒い列に入れなかった。
 
最後、親戚が居なくなった隙を狙って、父の教え子のみなさんが持って来てくれた千羽鶴の横に、公園のおばちゃんからもらったひまわりを添えた。
すると横から、幼い頃一度だけ会ったことがあるらしい叔母さんが、ひとりごとを言うように、こっそりわたしに話しかけた。
「本当に、思ってくれる人だけを信じたらええけんね」
驚いて、頷くことも出来ずに突っ立って居ると、その人は黒い人だかりの中に紛れてしまった。
 
その後、相続の件で何度か電話でやり取りした祖母がやたら優しくて、その祖母が気落ちしてないかと、墓参りも兼ねて、父親と住んでいたマンションに一人で住む祖母を、葬儀の翌々月に尋ねた。  
残された父の部屋を見たい、という気持ちもあった。
びっくりさせようと、何も連絡せずに来たので、数か月前まで自分も住んでいた部屋のインターホンを押す手に今さら緊張が走る。
祖母は急に尋ねてきたわたしを見るなり、玄関先で、「何しに来た」と他人を見るかのような目で言った。
わたしは何も言えないまま、一時祖母と父と三人で暮らしたマンションを後にした。
集合ポストを覗くと、長男宛の郵便物が何通か届いていた。そういうことか、と思った。
 
その日以来14年間、連絡を取らなくなっていた祖母が、半年前に亡くなったと先月になって知った。結局死ぬまであのマンションで、あの長男と暮らしていたそうだ。
 
毎夏、ヒマワリを見るとあの夏の日のことを思い出す。
ひとの言葉は、人を深く傷つけることも出来るし、救いの一助となることも出来る。心を砕いてくれる、その人の一言だから意味が生まれる。
そのことをわたしは十分に学んだはずなのに、未だに時々間違え、流されてしまう。
聞くべきでない言葉を正面から受け取り一喜一憂し、本当に心を砕いてくれる人の耳の痛い言葉から逃げようとする。 
 
誰かの痛みをほんの少しでも救えるような、一歩を踏み出す力になれるような、そんな言葉をかけられる人でありたいし、そうした言葉をちゃんと受け取ることの出来る人間でありたいと思う。通りすがりの誰かでも良い。そこに、出し惜しみは無用である。
私のあの日々を救ってくれたのは、間違いなくそんな一言たちだった。