「好き」と「大切」がわかる人。
以前、なじみの整体師の方と「パートナー」についての話になった。
「人間て、“自分ひとりの力で生きてる”と思ってる人間か、“周りに生かされている”と思ってる人間か、大きく分けてそのふたつなんですよ。“周りに生かされている”と本気で思っている人は浮気しないですよね。」
「パートナーって最悪の状況からギリギリのところで救ってくれる存在じゃないですか。どんなに追い込まれてても、一緒に寝るだけで救われる時ってあるじゃないですか。そんな人にはやっぱり笑ってて欲しいし、傷ついている顔なんて見たくないですよ。」
・・・奇しくもその話をしたのは、当時付き合っていた彼が、酔っ払ったついでに浮気をゲロってきた翌日であった。
詮索もしていなかったのに、突然ゲロを浴びせるなんて、れっきとしたテロである。
そんな折に整体師の話を聞いて思ったのは、「ひとを好きになる」と「ひとを大切する」は違うんだなということだった。
「好き」だけで恋は出来る。だけど、「好き」だけじゃ人と人との関係は続かない。
結局「好き」は「自己愛」の延長で、その「自己愛」は相手を傷つけることもある。
そこからお互いに「大切」と思いあえる関係にシフトしていかないと、二人の関係は耐久レースと化し、いずれ関係性を続けることが出来なくなる。
そんなことを思った時に、過去七年間付き合った別の元彼を思い出した。
その彼とは別れた一年後に、一度再会したことがある。会ってる間中、彼はわたしの言動に「成長したね」と言っては泣いてくれた。
別れた後も、わたしをもう「好き」じゃないのに、ずっと「大切な人」として思ってくれたんだ・・・。
そんなことを思い出して、「なるほど今回の彼は、わたしのことは好きは好きだったんだろうけど、大切だと思っていなかったのだな」と合点がいったのである。
思えば当時なんとなく不安になって、「わたしのこと好き?」なんて聞いていたのだけど、その問いは全く本質的ではなくて、論点は「好き嫌い」ではなかったのだ。
「好きと大切は違う」は、「対自分自身」にも同じことが言える。
「自分が好き」なことと、「自分が大切」なことは似てるようで違う。
むしろ自分が好き過ぎると、「自分を大切にする」ということからは遠ざかってしまう。
それは自己愛から人や自分に求めれば求めるほどいつまでたっても「満足」することが出来なくて、そしてその満たされない渇望感がさらなる泥沼を生むからだ。
強い自己愛や欲を持つ有名人や経営者などが、世間的名声や栄光の陰で自暴自棄なプライベートを送っていることは、時々耳にする。
実際に目のあたりにした時には、その根深さに「これが業というものか」と思った。
そんな「自己愛」の追求は、「自己満足・快楽の追求(追究)の旅」とも言えるし、「延々の自滅」ともいえる。
ASKAが麻薬で捕まった時に、CHAGEが一言だけ「自分を大切にしてください」とコメントしたのだけど、これは真理で、自分を好き過ぎるうちは自分を大切に出来なくて、自分を大切に出来ない限り自滅するからなんだよな。 「好き」と「大切」は全然違うんだ。
— にゃんきちったー (@nyankichitter) 2015, 9月 23
突如としてCHAGE&ASKAの話を出したけど、元彼やASKA(並べちゃったよ)を批判したいわけじゃなくて、今からそいつを殴りに行って欲しいわけでもなく(殴って欲しい気もするけど)、自分自身に対しても「同類なんじゃ」という疑念を抱くからである。
「大切」より「好き」を優先した過去。「好き」を「大切」につなげられない関係構築力。
もちろんそれらの恋愛から学ぶことは多かったが、「大切にする力」は一向に身に付いていない気もする。
20代半ばから「好き」と「大切」、「欲望」と「愛」について、壊れた時計の振り子のように、ずっと行ったり来たりを繰り返している。我ながらバグってるんじゃないだろうか。
そんなモラトリアムな状態が嫌いと問われれば、寂しくはあるが、決して嫌いではないのである。わたしの自己愛も相当なものだ…。