しまずあいみのぽんこつ日誌

~アラフォーになったのでタイトル変えました~

愛はかけ捨て、巡るもの。

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最近、人に心から愛され、想われることは、「自己受容」「過去の肯定」「浄化」になるんだなぁとよく思う。

それは相手と離れてしまったとしても同じだ。むしろ、時が経ち、執着がなくなり思念が消えた時、「想い想われた」愛だけが色濃く残る。

 

18歳の時から7年半付き合った人が居た。

わたしにとって、初めて甘えられる、頼れる歳上の人だった。

その彼に寄り添ってもらい、時には突き放され、だけどすべて肯定してもらったことで、わたしは自分の感性や過去を徐々に肯定することが出来た。

自意識が強く、変なところで繊細過敏なわたしを「自分には無い感性で、おもしろい」と言ってくれた。

若さ故の自意識で、意味もなく人に反発したり、世の中に対して軽口叩くわたしを面白がって、時にたしなめてくれた。

昔はいまにも増して人見知りの内弁慶が故、彼以外の前で自分の出し方が分からず、空回りしては気疲れし、それをいちいち気にしていた。

そんなわたしを見て、「確かに分かりにくいけど、歳を経る毎に絶対ラクになっていくよ。」と言ってくれた。

 

「何を根拠に?」と思ったこともあったけど(口減らず過ぎる)、その場しのぎのごまかしや気休めとも思えないほど、彼の態度は「大丈夫。なぜならね…」と、どんな時も一貫していた。20代そこそこだった、当時の彼の感性と経験を総動員した、わたしに対する受容と肯定だったんだなぁと、今になって思う。

 

いつも穏やかで「いいじゃない」が口ぐせの彼に肯定してもらい、徐々に自分を受け入れられるようになると、相変わらずコミュニケーションに難はあったが、彼以外の前でも、自然と自分を出せるようになってきた。

 

するとだんだん人から受け入れられるようになり、その幅が広がり、そしてまたわたしもまた徐々にたくさんの人を受け入れられるようになった。

自分のめんどくささえも彼がそうしてくれるように面白がれるようになり、そしていつの間にか、彼以外にもそう思ってくれる人が周りに増えていった。

 

そして、彼と別れ2年あまり。

不思議なことに、時が経つごとに、わたしの中に根付いている彼の愛情を感じるのだ。

自分の言うことを周りに受け入れてもらえず、どこかむなしさを感じた飲み会の帰り道に。

相思相愛で付き合ったはずの彼に、あっさりと振られ自信喪失した夜に。仕事の成果を、ひとと比べて落ち込んだ会社の休憩室で。自分の毎日や将来が、退屈で代わり映えしないものに思えた日曜の夕方に。

泣きたくなる気持ちになると決まって、 「大丈夫だよ。なぜならね…」という彼の言葉が、わたしの中から聞こえてくる。そのたびに「全然大丈夫じゃないだろ」と苦笑しながら、わたしはまた前を向くことが出来る。

そしてわたしはまた彼の愛情のおかげで、別の誰かを想うことが出来る。彼がわたしの中に残してくれた愛情は、わたしの毎日を絶えず巡りめぐっている。

 

「恋はかけ捨て、愛は積み立て」と言うけれど「恋」は相手や自分自身に見返りを求め、「回収」しようとするものじゃないだろうか。

だったら「愛」は何なのだろうか。自分の生きてきたありったけの経験と感性を以って、「その人が幸せにあるように」‘‘出し惜しみなく”見守ることだとわたしは思う。その意味で、愛はかけ捨てである。

 

たとえ最後望んだ通りの関係やカタチにはならなくとも、一時的に喪失感を生もうとも、心から愛し愛されていたなら、二人には必ず愛だけは残る。

むしろ「今までの関係を失った時こそ」自分本位な欲や執着が消え、結果、愛情は研ぎ澄まされる。

それが‘‘無い”関係ならば、たとえフラれたって別れたってなにも泣くこたない。あなたは未だ何も失ってはいない。

そして、そこに愛が残ったならば、寂しがったり悲しむことはない。二人の関係は、0になんか戻らない。

そう気付いた時、わたしはどんなに寂しくても辛くても、ひとりで立ってられる気がした。チンケな未練はどこかに消えてった。

 

7年半、毎日のように顔を見ていた彼と、もう会うことはない。SNSで近況を知ろうとすることもない。彼の身近な世界と、わたしの身近な世界は、きっともう交わることはないし、あの頃のように隣り合って歩くことは、もう二度とないだろう。

彼とわたしの過去は、年々遡るのが難しくなるほど遠くに行ってしまったが、でもいつも目の前にいるかのように、わたしの中で実感だけが残っている。

彼との思い出を、もう手繰り寄せたりしない。思い出や記憶というより、ただ実感として、愛情が残っているだけだ。
人は、愛された実感を糧に生きていくことが出来る。自分が愛した実感は、生きていく拠りどころになる。 わたしは、いつの間にか自分自身に根付いた「愛」を持って、また歩いていくだけだ。
 
彼が10年も前に蒔いてくれた種が、遅咲きながらも、徐々に芽吹いて花を咲かせようとしている。
どんな風雨にさらされてもヘコたれない、強くて美しい花を咲かせていたい。
もうひとりで水と光を与え、花を咲かすことが出来る。そんなわたし自身であり続けることが、わたしから彼への愛情と感謝なのだ。
 

【追記】

折しも、その7年間付き合っていた彼が一昨日結婚式を挙げたとfacebookのタグ付けで今しがた知った。

その時わたしはジェーン・スー著の『私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな』のあとがきをしみじみと読んでいた。

 

今の今まで都合よく忘れていたが、この噛み合わなさこそ、わたしたちの真髄である。

 

引き続き、いつまでも幸せでいて欲しいと祈ってます。

そしてこの期に及んで話のネタにするわたしを、どうかお許しください。